昼行灯電波監視官とオリンピック 第3話 世界は一本の回線でつながる
「放送、ですか」
島見杏果は、さっきまでよりも慎重な声で言った。
「それって……一番、失敗できないやつですよね」
「そうだ」
戸隠弘明は、短く答えた。
「警備は国内で収まる。だが放送は違う。相手は世界中だ」
平成10年2月。競技が本格化するにつれ、長野の空気は明らかに変わっていった。会場周辺には各国の放送局の中継車が並び、仮設のアンテナが林立する。ケーブルは地面を這い、雪の下に埋もれ、誰が引いたものか分からなくなる。
「IBC――国際放送センターが今の若里多目的広場にあった紡績工場跡に立ち上がった頃だ」
放送の心臓部。競技映像はすべてそこに集められ、国内外へと送り出される。映像が止まるということは、五輪そのものが止まることを意味した。
「無線も、有線も、衛星も……全部が絡む」
島見は、思わず息を詰める。
「全部、戸隠さんたちの管轄ですか?」
「全部ではない」
戸隠は首を振った。
「だが、“おかしくなった時に呼ばれる”のは、だいたい俺たちだ」
ある日の未明、IBCから連絡が入った。
「一部の国際回線で、音声が不安定になる」
映像は生きている。だが、音が時折歪み、遅れる。致命傷ではないが、放置すれば確実にクレームになる。
「原因は?」
島見の問いに、戸隠は少しだけ口角を下げた。
「最初は誰も分からなかった」
回線事業者、放送局、機器ベンダー。関係者が集まり、ログを洗い、設定を確認する。だが、異常は再現性が低く、決定打に欠けた。
「現場に行った」
それが、戸隠の結論だった。
「机の上じゃ、電波もノイズも見えない」
問題の回線が通るルートを、文字通り足で追った。仮設ケーブル、変換装置、電源、アース。雪に埋もれた接続箱を掘り起こし、一つずつ確認する。
「で、見つかった」
原因は、一本の仮設電源ケーブルだった。
「夜間に使われなくなった照明用の電源が、完全に切られていなかった。そこから微妙なノイズが回り込んでた」
島見は、目を丸くする。
「そんなことで?」
「そんなこと、だ」
高感度の音声回線にとって、微弱なノイズでも致命的になる。特に、国際回線は距離が長い。小さな歪みが、最後には大きな違和感になる。
「どうしたんです?」
「切った。それだけだ」
仮設電源を完全に遮断し、アースを取り直す。それで音声は安定した。
「派手じゃないですね」
島見は、警備のときと同じ感想を口にした。
「派手である必要はない」
戸隠は、同じ答えを返す。
「放送は、“何事もなかったように流れる”のが正解だ」
その夜、IBCのモニタールームで、世界各国の放送が同時に流れていた。言語も、文化も違う。だが、映像は同じだった。
「不思議なもんだ」
戸隠は、当時を思い出すように言った。
「一本の回線が、世界をつないでる」
島見は、黙って頷いた。
「で、放送が無事に回り始めると……次は?」
「次はな……」
戸隠は、少しだけ声を落とした。
「想定外だ。マニュアルに書いてない連中が出てくる」
島見の眉が、わずかに動いた。
「一般人、ですか?」
「そうとも言えるし、そうでもない」
戸隠は、窓の外に目をやった。
「善意で持ち込まれた無線が、一番厄介だったりする」
その先の話を、島見はまだ知らない。
だが戸隠は知っていた。
五輪という舞台では、最も危険なのは、悪意ではなく、無知だということを。




