昼行灯電波監視官とオリンピック 第2話 警備無線は静かに唸る
「警備、ですか」
島見杏果は、少しだけ姿勢を正した。
「競技より、そっちの方が大変そうですね」
「そりゃそうだ」
戸隠弘明は、即座に否定も肯定もしない、曖昧な声で応じた。
「競技はな、予定通り始まって予定通り終わる。だが警備は違う。“何も起きないこと”が成果だ」
平成10年2月。白馬、志賀高原、野沢温泉――競技会場の周辺には、警察、消防、自衛隊、警備会社、そして各国要人の随行員が集結していた。無論、その全てが無線を使う。
「周波数の調整だけで、軽く一冊分の資料が出来た」
島見は小さく息をのむ。
「そんなに……」
「そんなもんだ。警視庁、長野県警、警察庁の応援部隊。救急、消防。競技運営。海外警護チーム……それぞれが“自分たちの無線は特別だ”と思ってる」
戸隠は苦笑した。
「実際、特別ではある。だが、空の上に特別席はない」
電波は有限だ。しかも山岳地帯。反射、回折、影――机上で引いた設計図は、現地では簡単に裏切られる。
「一番厄介だったのは?」
島見の問いに、戸隠は少し考えた。
「……海外の警護チームだな」
各国の要人警護は、原則として自国の装備を使う。だが、それがそのまま日本で合法とは限らない。
「出力が強すぎる。周波数が被る。暗号化方式が不明。三拍子そろってる」
それでも、頭ごなしに止めるわけにはいかない。相手は外交の延長線上にいる存在だ。
「だから、説明と調整だ。通訳を挟んで、図を書いて……時には、ジェスチャーだ」
島見は思わず笑った。
「現場力ですね」
「そう言ってくれると助かる」
ある日、志賀高原の警備本部で、小さな異変が起きた。
「警備無線に、断続的なノイズが乗る」
致命的ではない。だが、無視もできない。ノイズは低く、周期的だった。
「発信源を追ったら、意外なところに行き着いた」
それは、競技会場から少し離れた、仮設の報道車両エリアだった。
「海外メディアの中継車が使ってた、発電機だ」
島見は目を瞬かせる。
「無線じゃないんですか?」
「違う。発電機のノイズが、ケーブルを伝って空に漏れてた」
高出力の中継設備。十分とは言えないアース。結果として、警備無線の帯域に、嫌な唸り音が入り込んでいた。
「どうしたんです?」
「アースを取り直した。ケーブルを引き直して、発電機の位置も変えた」
それだけのことだ。だが、それでノイズは消えた。
「派手じゃないですね」
「派手である必要はない」
戸隠は、静かに言った。
「電波監視官の仕事は、“原因を見つけて、静かに消す”ことだ」
その夜、警備本部から一本の内線が入った。
「『ありがとう』って言われた」
島見は、少し意外そうな顔をした。
「珍しいですね」
「ああ。滅多にない」
戸隠は、ほんのわずかに目を細めた。
「だがな、杏果。あの一言で、徹夜の寒さは帳消しだ」
窓の外で、風が吹いた。長野の冬は、まだ深い。
「次は?」
島見が、同じ問いを投げる。
「次は……放送だ」
戸隠は、遠くを見るような目をした。
「世界が相手になる。失敗すれば、音も映像も、全部が止まる」
それが、五輪という舞台だった。




