昼行灯電波監視官とオリンピック 第1話 軽油は白馬で凍る
「戸隠さんって、長野オリンピックの時、現場にいたんですよね?」
島見杏果は、いかにも雑談の延長といった調子でそう切り出した。長野総合通信局の会議室。午後三時を回ったところで、コーヒーは二杯目、議題はとっくに終わっている。
戸隠弘明は、湯のみを持ったまま一瞬だけ視線を泳がせた。
「……いたな」
それだけ言って、あとはしばらく黙った。
島見は知っている。この男が、何かを語り始める前には必ず“間”があることを。沈黙は癖ではない。記憶の奥から、必要な情景だけを掬い上げるための時間だ。
「本省にいた頃だ。電波監視管理課の、ただの係員」
平成10年――1998年。長野で冬季オリンピックが開催された年だ。当時の戸隠は、霞が関の合同庁舎の片隅で、上司の無茶振りと監視報告書に埋もれていた。
「オリンピック対策で、人が足りないって話になってな。長野総合通信局に“出向”って名目だったが……実態は現地要員だ」
島見はメモを取らない。ただ、相槌だけを打つ。
「五輪ってのは、電波屋にとっちゃ戦争みたいなもんでな。国内外の放送局、警備、報道、競技運営……全部が電波を使う。ひとつ間違えば、世界中に恥をさらす」
当時、長野総合通信局には「オリンピック対策事務局」が設置されていた。形式上は各局からの応援だが、実態は寄せ集めだ。経験者もいれば、新人もいる。戸隠は、その中でも特別目立つ存在ではなかった。
「で、一番最初に来たトラブルが……車だ」
島見が思わず眉を上げる。
「車?」
「東京総合通信局から応援に来たDEURAS-M2があってな」
DEURAS――不法無線局探査システム。現在ではセンサ間は広域イーサネットで接続されているが、当時一部のRセンサはISDN接続でダイアルアップ接続をする形であり、動く電波監視センタとも言える車両型…Mは今のような洗練されたものではなく、PDC(第2世代携帯電話)のパケット通信28.8Kbpsを2本使ってセンタに接続するというシロモノであり、機器も重かったため、オッサン自動車の荷物用ワンボックスカー『キャラメル』を使用しており、いかにも“業務車両”という代物だった。
「そいつが、千葉で別件の出張を終えた足で、そのまま長野に入った」
「強行軍ですね」
「そうだ。問題は燃料だ」
戸隠は、わずかに口の端を上げた。
「ディーゼル車だった。軽油をタンクに半分積んだまま、真冬の白馬に入った」
島見は、そこでようやく察した。
「あ……」
「そうだ。凝結した」
軽油は低温下でワックス分が析出し、流動性を失いそのワックスがフィルタに詰まりエンジンに燃料が供給されなくなる。
それを補うために、販売する地方や時期に応じて配合を変えている…知識としては誰でも知っている。だが、それを“現場でやらかす”かどうかは別だ。
「朝、エンジンがかからない。発電機も回らない。測定どころじゃない」
現地は白馬。氷点下二桁は当たり前。戸隠は、凍り付いた空気と、吐く息が白く弾ける音を思い出していた。
「結局、どうしたんです?」
「本当はイカンのだが、少し灯油を宿泊先に貰い、燃料タンクに注入し、流動性を高めてガソリンスタンドまで行き、現地の軽油をいれる…まあ、原始的な方法だ」
島見は笑ったが、戸隠は笑わない。
「五輪ってのはな、最先端技術の祭典みたいに言われるが……実際は、そういう地味なことで成り立ってる」
その日の午後、ようやくDEURAS-M2は復旧した。だが、安心する暇はなかった。
「次に来たのが、白馬の取材現場だ」
戸隠は、少し声を落とした。
「アメリカの取材クルーが持ち込んだ無線機があってな。FRS規格だった」
FRS――Family Radio Service。米国では合法な簡易無線だが、日本では事情が違う。
「それが、帝都テレビの取材用無線に被った」
島見は頷く。想像に難くない。
「向こうは悪気がない。こっちは本番中。放送が飛べば、即アウトだ」
戸隠は、その時の現場を思い出す。
吹雪きかけたゲレンデ。怒鳴り合う制作スタッフ。英語と日本語が入り混じる中で、無線機からは断続的に混信音が流れていた。
「どう収めたんですか?」
「規格の違いを説明して、混信元に周波数を止めてもらった。オトローラーが代替機を用意して……それだけだ」
「それだけ、ですか」
「それだけだ」
戸隠は、湯のみの中身を飲み干した。
「だがな、島見。ああいう場では“それだけ”を失敗すると、全部が崩れる」
島見は、黙って聞いている。
「俺たちは名前も出ない。勲章も出ない。だが、電波が静かに流れている限り、仕事は成功だ」
戸隠は、ふっと肩をすくめた。
「……そんなところだ。長野の話は」
島見は少しだけ間を置いて、微笑んだ。
「じゃあ、次は?」
戸隠は、窓の外に目をやった。冬の気配が、長野市の空にも忍び寄っている。
「次は……警備だな。もっと面倒な話になる」
それは、まだ誰も知らなかった。
電波を巡る本当の戦いは、そこから始まるということを。




