昼行灯にして光るもの 第5話 去りゆく灯、残る余韻
戸隠が去ったあと、玄関の引き戸が静かに閉まった。
冬の夜気が一瞬入り込み、湯気の残る客間の灯を揺らした。
風間市子はその音を背に、深く息を吐いた。
「……やっぱり、あの人はあのまんまね」
客間のちゃぶ台には、茶の残り香と、戸隠が置いていった湯呑の輪染みがひとつ。
高井佐和はしばし無言のまま、それを指先でなぞった。
ふと、静かな笑みがこぼれる。
「変わらないのは悪いことじゃない。あの人は、そういう時間の流れ方をしてるの」
「本当に、あなたが来るって聞いたときは驚いたわ。まさか首相官邸の人がうちの玄関をくぐるなんて」
「ここに来るしかなかったの。電話じゃ伝わらないでしょう、あの人には」
高井はカップを両手で包み込み、少し目を細めた。
その瞳の奥には、長い年月を経ても変わらぬ敬意が宿っているようだった。
「……彼がいなかったら、私はいまここにいない。総務大臣のとき、事務所の内部から情報が漏れてね。あのときも彼が、誰にも気づかれずに真相を突き止めてくれた。官邸筋も党も手を出せない状況で、ただ一人動いてくれたの」
風間は頷きながら、静かに湯を注いだ。
「佐和さん、それは聞いてたわ。元義父が“あの戸隠って人は何者だ”って騒いでたもの」
高井は少し笑って首を振る。
「“何者でもない人”だから、動けたの。あの人は、立場とか、権力とか、そういう電波を嫌う。自分の出す波形が人の耳障りになるのを、誰よりも気にしてる」
「だから“昼行灯”なんですね」
「ええ。でもね、あの灯りがあるから、周りが安心して動けるの」
風間は目を細めた。
「……佐和さん。あなた、本気であの人を官邸に呼ぶつもり?」
「ええ。少なくとも、私の任期のうちにもう一度あの人の力を借りたい。今、国全体がノイズだらけなの。政策も、報道も、言葉も全部混線してる。ノイズを拾い分けられる“耳”を持ってる人間は、もう滅多にいない」
その言葉には、総理としての焦燥が滲んでいた。
風間は少しだけ口元を和らげて言った。
「でも、彼は来ないわよ」
「……そうでしょうね」
短い沈黙が落ちた。
外では、遠くの踏切の警報が鳴り、列車のライトが風間家の障子に淡く映った。
灯りが通り過ぎるたび、影が揺れる。
「彼ね、昔からそう。誰かに必要とされると一歩引く。けど、誰かが困ってると必ず現れる。そういう人なの」
「……まるで、電波そのものね。目には見えないけど、確かに届いてる」
高井が、ほんの少し微笑んだ。
「昔、彼が私に言ったの。“焦るとノイズが増える”って。あの言葉、今でも頭の中で響いてる。……官邸の中でもね」
「焦ってるんですか、佐和さん」
「ええ。焦ってる。国が壊れる音が聞こえる。けど、誰もそれを“ノイズ”として聞こうともしない」
風間は黙って頷いた。
しばらくして、低い声で言った。
「なら、あの人はあなたの“チューニング”を正す役目なんでしょうね」
高井はゆっくり立ち上がり、コートを手に取った。
「……そうかもしれない。たとえ現場に埋もれていても、彼の灯は、ちゃんと届く」
玄関を出ると、吐く息が白く広がった。
遠くの山に月が昇り、犀川の流れが銀色に光る。
高井は一度だけ振り返り、微かに笑った。
「……昼行灯、消えていないわね」
風間はその言葉を聞きながら、静かに障子を閉めた。
部屋にはまだ、ほうじ茶の香と、さっきまでの会話の余韻が残っていた。




