昼行灯にして光るもの 第4話風間家の客間にて
その日の夕刻、戸隠の携帯が珍しく震えた。
画面を見ると、借家の大家・風間市子の名が表示されている。
「戸隠さん、ちょっといい? 今晩、少し話があるの。うちに寄ってくださらない?」
声の調子はいつもより少しだけ硬い。
なにやらただ事ではない。
戸隠は湯呑を置き、ゆっくり立ち上がった。
夜の長野市郊外の田んぼだらけ大豆島の風は冷たい。
街灯の光が細い路地を淡く照らし、戸隠はコートの襟を立てながら風間家の玄関へと向かった。
そこは、昭和の香りを残す古い木造家屋で、外壁の一部に蔦が絡んでいる。
玄関を開けると、風間が上品な笑みで出迎えた。
「まあまあ、寒いでしょう。さ、上がって」
「ははっ、まるで呼び出し食らった学生みたいな気分ですよ」
そう言いながら上がり框で靴を脱ぐと、畳の香りが心地よく鼻をくすぐった。
奥の客間には、湯気を立てる急須と、見覚えのない影がひとつ。
――そこに、いた。
青いパンツスーツ、抑えた朱のスカーフ。
姿勢は一点の曇りもなく、視線は鋭く、それでいてどこか温かみを含んでいる。
高井佐和。
今や日本初の女性総理大臣、通称「鉄の女」。
戸隠は軽く肩をすくめた。
「これはまた……どういう風の吹き回しですか、総理」
「この家の風は、昔からまっすぐ吹くの。あなたのように曲がりくねってはいないわ」
隣で風間市子が、困ったように微笑んだ。
「ごめんなさいね戸隠さん。うちの元義父がね、佐和さんの大学の後輩だったのよ。それで、ちょっと“つないでほしい”って頼まれちゃって」
戸隠は苦笑し、畳に正座した。
「なるほど、まさか大家経由で首相官邸からお呼びとはね……」
高井は静かに湯呑を手に取り、香りを確かめるように一口啜った。
「あなた、まだ“昼行灯”なんて呼ばれてるのね」
「ええ。灯りを消すつもりはありません。俺には俺の照らす範囲がある」
高井は軽く息を吐いた。
「わかっている。あなたが現場を愛していることも、誰よりも職人気質であることも。だけど――」
その言葉を切り、彼女はまっすぐ戸隠を見た。
「今、官邸に必要なのは、あなたの“耳”なのよ。電波の乱れも、人心のノイズも、あなたなら拾える」
風間が、湯呑を二人の間にそっと置いた。
戸隠は少し目を伏せ、茶の表面に映る灯りを見つめた。
「……総理、俺は現場の雑音を整えるのが性に合ってるんです。上へ行けば行くほど、ノイズは政治の音になる。俺の耳じゃ、たぶん耐えられません」
「それでも、聞いてほしいの。霞が関は今、混線状態。情報は漏れ、判断は遅れ、官僚たちは自分のチャンネルばかり守ってる。あなたみたいな“感度のいい人間”が必要なの」
彼女の声は、冷たい強さの中に焦燥が滲んでいた。
――この女はまだ戦っている、と戸隠は思った。
官邸という戦場で、国民の声という微弱な正義を拾おうとしている。
「……高井さん。俺ぁ、昼行灯です。昼行灯が官邸行ったって、明るすぎて溶けちまう。燃え尽きたら、それこそ暗闇です」
「昼行灯でも、消えずに照らせる場があると思うの。私はそう信じてる」
言葉が一瞬、静寂に吸い込まれた。
やがて風間が、場を和ませるように笑った。
「まったく、あんたたちの会話は難しすぎるわ。電波と政治の話ばかり」
高井も、ようやく小さく笑った。
「昔から、こういう男なのよ。言葉の波長が合わないと受信しないの」
「はは、チューニングが古くてね。真空管式なんです、俺の脳みそは」
その場がふっと和み、湯気の向こうに、どこか懐かしい空気が流れた。
帰り際、高井は玄関で小さく言った。
「……もし気が変わったら、奈良井に連絡して。ドアは、いつでも開いているわ」
「ええ、覚えておきますよ。もっとも、俺の鍵は押入れの奥ですけど」
戸隠が靴を履きながら笑うと、高井もふっと目を細めた。
「焦るとノイズが増える、でしょ?」
「覚えてましたか。あれ、総務本省の喫煙所で言っただけの話なのに」
「忘れるわけないわ。あれ以来、私は毎晩ノイズの中で仕事してる」
戸隠は帽子を軽く持ち上げた。
「どうか、チャンネルを間違えませんように」
風間家を出ると、冬の空気が頬を打った。
遠くの山で開業が迫ったスキー場の照明が光っている。
――昼行灯の灯りは、まだ静かに燃えていた。




