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昼行灯にして光るもの 第2話「鉄の女との因縁」

 霞が関の空は、どこか埃っぽい。

 総務省の庁舎前に立つと、風が吹くたびに古臭い書類の匂いが混じった空気が頬を撫でる。

 戸隠弘明は、古びたスーツの袖口を直しながらため息をついた。

 あの日の午前九時、彼は省の10階――基幹通信局の監視管理室で、こっそり湯を沸かしていた。


 そこへ、あの奈良井から電話が入ったのだ。

『戸隠、久しぶりだな。ちょっと、相談があるんだが』

「相談? お前の相談ってのは、大体ロクでもない」

『まぁ、そう言うな。場所を変えて話したい。赤坂の事務所に来てくれないか?』

 電話の向こうで、奈良井は珍しく声を潜めていた。


 ――赤坂。

 その一言で、だいたい察しがついた。

 当時、総務大臣だった高井佐和の事務所がそこにあったからだ。



 赤坂見附の裏通り。

 昼下がりの喧噪の中に、静かに溶け込むような古いビル。

 その三階に、高井佐和の私設事務所はあった。


 奈良井は、玄関先で落ち着きなく眼鏡を拭いていた。

「おう、戸隠。悪いな、急に呼び出して」

「構わんが……お前、まさか政治家事務所に足突っ込むとはな。出世したもんだ」

「はは、俺だってこんなはずじゃなかったんだがな」

 奈良井の顔には疲れがにじんでいた。


 事務所の中は静かだった。

 壁には高井の選挙ポスター――凛とした視線の女。

 “信念を通す女”と大きく刷られたキャッチコピーが、今となっては皮肉に見えた。


 応接机の上には分厚いファイルがいくつも積まれ、その中の一冊を奈良井がそっと開いた。

「……これを見てくれ」


 中身は通信行政に関する“戦略メモ”の写しだった。

 国家機密とまでは言わないが、総務省の内部でさえ閲覧が限られる代物だ。

 しかもそれが、外部メディアの手に渡りかけている。


「誰が出した?」

「それを探ってほしいんだ」

 奈良井の声には切実さがあった。

「高井大臣は安宅(あたか)総理と直接やり取りしてる。政権の中枢案件なんだ。もしここから漏れたと分かれば、総理の首が飛ぶ」


 戸隠は腕を組んだ。

「つまり……内通者がいるってことか」

「おそらく。事務所の中か、省の中か、それすらまだ不明だ」


「警察は?」

「駄目だ。動けば記事になる。官邸にもまだ知らせていない」

「……なるほどな」


 戸隠は湯呑みを手に取るような仕草で、テーブルの上の書類をざっと眺めた。

 紙の端に残る微妙な折れ目。印刷時のトナーのムラ。

 その“ノイズ”を、彼は瞬時に記憶の奥へ放り込む。


「総務省の本省にも似た資料があったはずだ。出所を追うには、ログと通信履歴を洗う必要がある」

「できるか?」

「やるしかねぇだろ。だが、俺が勝手に触るとバレる」

「それなら、高井先生が“非常勤技術顧問”の名目で通してくれる。必要な権限は出すそうだ」


 戸隠は苦笑した。

「高井先生も物好きだな。俺みたいな昼行灯を使うとは」

「先生は君のことを覚えてたよ。例の“長野五輪の時の電波トラブル”で助けてもらったって」

「ああ、あれか。あれは偶然だ」

「偶然でも結果は結果だ。――頼む、戸隠」


 奈良井の眼が真剣だった。

 その眼に押されて、戸隠はゆっくりと頷いた。


「いいだろう。ただし、俺流でやる。誰が何を見てるか、何も聞くな」

「了解」

「……それと」

「ん?」

「これ終わったら、うまい蕎麦でも奢れ。霞が関の食堂のやつは、出汁が死んでる」

 奈良井は苦笑した。

 こういうときでも冗談を言う。そこが戸隠らしかった。



 数日後。

 総務省地下の総務省サーバールーム――。

 夜勤明けの静けさの中、戸隠は一人、ログ端末に向かっていた。

 指先でキーを打つたび、過去三か月分の通信記録が無音で流れ出す。


 官僚の出入り時間、端末アクセスの癖、持ち込みPCの電波発信ログ。

 膨大な数字と波形を、彼はまるで鼻で嗅ぐように読み取っていった。


「……こいつだな」

 小さく呟いた。

 一つだけ、ログの波が他と違っていた。

 まるで誰かが、波の裏に“言葉”を隠したようなパターン。


 それを辿っていくと、一人の名前が浮かんだ。

 ――元総務官僚。現在は政務調査官として民主立憲党の顧問を務める“大西”の元部下。

 退官後も省内に太いパイプを持つ人物だった。


「なるほどな。政治屋の後ろには、いつも“昔の部下”がいる」

 戸隠は鼻を鳴らした。


 翌日、奈良井に封筒を手渡した。

「中身は見ないで高井先生に渡せ。これで全部繋がる」

「……本当に?」

「電波のノイズは、正直者だからな」


 その日の夕方。

 高井事務所の会議室で、戸隠は初めて“鉄の女”と呼ばれる女と対面した。


 凛とした立ち姿。

 短く切り揃えられた髪。

 背筋に一本の芯が通っている。


「あなたが……戸隠さんね」

「ええ、昼行灯の戸隠です」

「あなたのおかげで、安宅政権は一つの危機を越えられたわ」

「俺はただ、波を読んだだけですよ。風を起こしたのは、あんたら政治家だ」


 高井は目を細めた。

 そして、ほんの少しだけ笑った。


「あなたのような人材、官邸にもほしいものね」

「それは困ります。官邸は照明が明るすぎる」

「ふふ……なるほど、“昼行灯”の名に偽りなしね」


 そのやり取りを、奈良井が息を呑んで見ていた。

 この瞬間から、彼の中で何かが決まったのだろう。

 ――“いつかこの人を官邸に呼ぶ”。



 「それが、高井先生との最初の縁さ」

 戸隠は長野総合通信局の監視室に戻り、新聞を閉じた。

 杏果は、息を飲んで聞き入っていた。


「……それで、今でも奈良井さんはその恩を覚えていて?」

「恩なんざ要らんさ。ただ、あいつは律儀だからな。俺が断ると分かってて電話してくる」

「それでも、戸隠さんみたいな人が官邸にいたら、心強いと思いますけど」

「いやいや。俺はこっちの方が性に合ってる。……この蛍光灯の下で、静かにノイズを聞いてる方がな」


 湯呑みの湯気がふわりと上がる。

 昼行灯は今日も、変わらずそこに灯っていた。

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