昼行灯にして光るもの 第2話「鉄の女との因縁」
霞が関の空は、どこか埃っぽい。
総務省の庁舎前に立つと、風が吹くたびに古臭い書類の匂いが混じった空気が頬を撫でる。
戸隠弘明は、古びたスーツの袖口を直しながらため息をついた。
あの日の午前九時、彼は省の10階――基幹通信局の監視管理室で、こっそり湯を沸かしていた。
そこへ、あの奈良井から電話が入ったのだ。
『戸隠、久しぶりだな。ちょっと、相談があるんだが』
「相談? お前の相談ってのは、大体ロクでもない」
『まぁ、そう言うな。場所を変えて話したい。赤坂の事務所に来てくれないか?』
電話の向こうで、奈良井は珍しく声を潜めていた。
――赤坂。
その一言で、だいたい察しがついた。
当時、総務大臣だった高井佐和の事務所がそこにあったからだ。
*
赤坂見附の裏通り。
昼下がりの喧噪の中に、静かに溶け込むような古いビル。
その三階に、高井佐和の私設事務所はあった。
奈良井は、玄関先で落ち着きなく眼鏡を拭いていた。
「おう、戸隠。悪いな、急に呼び出して」
「構わんが……お前、まさか政治家事務所に足突っ込むとはな。出世したもんだ」
「はは、俺だってこんなはずじゃなかったんだがな」
奈良井の顔には疲れがにじんでいた。
事務所の中は静かだった。
壁には高井の選挙ポスター――凛とした視線の女。
“信念を通す女”と大きく刷られたキャッチコピーが、今となっては皮肉に見えた。
応接机の上には分厚いファイルがいくつも積まれ、その中の一冊を奈良井がそっと開いた。
「……これを見てくれ」
中身は通信行政に関する“戦略メモ”の写しだった。
国家機密とまでは言わないが、総務省の内部でさえ閲覧が限られる代物だ。
しかもそれが、外部メディアの手に渡りかけている。
「誰が出した?」
「それを探ってほしいんだ」
奈良井の声には切実さがあった。
「高井大臣は安宅総理と直接やり取りしてる。政権の中枢案件なんだ。もしここから漏れたと分かれば、総理の首が飛ぶ」
戸隠は腕を組んだ。
「つまり……内通者がいるってことか」
「おそらく。事務所の中か、省の中か、それすらまだ不明だ」
「警察は?」
「駄目だ。動けば記事になる。官邸にもまだ知らせていない」
「……なるほどな」
戸隠は湯呑みを手に取るような仕草で、テーブルの上の書類をざっと眺めた。
紙の端に残る微妙な折れ目。印刷時のトナーのムラ。
その“ノイズ”を、彼は瞬時に記憶の奥へ放り込む。
「総務省の本省にも似た資料があったはずだ。出所を追うには、ログと通信履歴を洗う必要がある」
「できるか?」
「やるしかねぇだろ。だが、俺が勝手に触るとバレる」
「それなら、高井先生が“非常勤技術顧問”の名目で通してくれる。必要な権限は出すそうだ」
戸隠は苦笑した。
「高井先生も物好きだな。俺みたいな昼行灯を使うとは」
「先生は君のことを覚えてたよ。例の“長野五輪の時の電波トラブル”で助けてもらったって」
「ああ、あれか。あれは偶然だ」
「偶然でも結果は結果だ。――頼む、戸隠」
奈良井の眼が真剣だった。
その眼に押されて、戸隠はゆっくりと頷いた。
「いいだろう。ただし、俺流でやる。誰が何を見てるか、何も聞くな」
「了解」
「……それと」
「ん?」
「これ終わったら、うまい蕎麦でも奢れ。霞が関の食堂のやつは、出汁が死んでる」
奈良井は苦笑した。
こういうときでも冗談を言う。そこが戸隠らしかった。
*
数日後。
総務省地下の総務省サーバールーム――。
夜勤明けの静けさの中、戸隠は一人、ログ端末に向かっていた。
指先でキーを打つたび、過去三か月分の通信記録が無音で流れ出す。
官僚の出入り時間、端末アクセスの癖、持ち込みPCの電波発信ログ。
膨大な数字と波形を、彼はまるで鼻で嗅ぐように読み取っていった。
「……こいつだな」
小さく呟いた。
一つだけ、ログの波が他と違っていた。
まるで誰かが、波の裏に“言葉”を隠したようなパターン。
それを辿っていくと、一人の名前が浮かんだ。
――元総務官僚。現在は政務調査官として民主立憲党の顧問を務める“大西”の元部下。
退官後も省内に太いパイプを持つ人物だった。
「なるほどな。政治屋の後ろには、いつも“昔の部下”がいる」
戸隠は鼻を鳴らした。
翌日、奈良井に封筒を手渡した。
「中身は見ないで高井先生に渡せ。これで全部繋がる」
「……本当に?」
「電波のノイズは、正直者だからな」
その日の夕方。
高井事務所の会議室で、戸隠は初めて“鉄の女”と呼ばれる女と対面した。
凛とした立ち姿。
短く切り揃えられた髪。
背筋に一本の芯が通っている。
「あなたが……戸隠さんね」
「ええ、昼行灯の戸隠です」
「あなたのおかげで、安宅政権は一つの危機を越えられたわ」
「俺はただ、波を読んだだけですよ。風を起こしたのは、あんたら政治家だ」
高井は目を細めた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「あなたのような人材、官邸にもほしいものね」
「それは困ります。官邸は照明が明るすぎる」
「ふふ……なるほど、“昼行灯”の名に偽りなしね」
そのやり取りを、奈良井が息を呑んで見ていた。
この瞬間から、彼の中で何かが決まったのだろう。
――“いつかこの人を官邸に呼ぶ”。
*
「それが、高井先生との最初の縁さ」
戸隠は長野総合通信局の監視室に戻り、新聞を閉じた。
杏果は、息を飲んで聞き入っていた。
「……それで、今でも奈良井さんはその恩を覚えていて?」
「恩なんざ要らんさ。ただ、あいつは律儀だからな。俺が断ると分かってて電話してくる」
「それでも、戸隠さんみたいな人が官邸にいたら、心強いと思いますけど」
「いやいや。俺はこっちの方が性に合ってる。……この蛍光灯の下で、静かにノイズを聞いてる方がな」
湯呑みの湯気がふわりと上がる。
昼行灯は今日も、変わらずそこに灯っていた。




