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欲望のはての… 第5話

 新潟県警本部の3階会議室。

 蛍光灯の白い光の下、赤塚警部は電話の受話器を握りしめたまま、沈黙していた。

 モニターには、新潟空港の監視カメラ映像。

 その端に、黒いコートの男がスーツケースを片手に、国際線ロビーを横切る姿が映っている。


「黒部……あの野郎、もう出たか」


 隣で警察無線の受信機を操作していた若い巡査が答える。 「はい。出国記録、ウラジオストク行きの便に搭乗済み。……偽造旅券です。公安にも照会中ですが、間に合いませんでした」


 赤塚は深く息を吐き、椅子の背にもたれた。 「せっかく戸隠たちが送信装置まで押さえてくれたってのに……最後の一手で逃げられたか」


 そのとき、内線が鳴った。

 ディスプレイには「長野総通局・戸隠」とある。

 赤塚は受話器を取った。


「……やっぱり、空港でしたか」


 受話口の向こうで戸隠の飄々とした声がする。


「新潟空港からウラジオストクだ。まあ、妙に段取りがいい。初めから想定してたんだろうな」


「公安が気づいた時には機体が離陸してた。あの男、相当先を読んでやがる」


「そういう奴ほど、電波の世界じゃ厄介なんですよ。信号も人間も、予測不能なところが面白いんですけどね」


 赤塚はため息をついた。 「お前、まだそんなこと言ってんのか。……で、現場の片付けは?」


「DEURASのデータは全部保存済み。妨害送信機は県警に引き渡し。免許課と一緒に報告書まとめてます。被疑者二名――五泉啓太と村松英二は、先ほど新潟北署に移送されました」


「そうか。お前らも徹夜だろ、少しは休め」


「昼行灯は夜に強いんでね。じゃ、お先にログ整理しときます」


 通話が切れた。

 受話器の向こうの声に、疲れと皮肉の入り混じった安堵が残っていた。



---


 長野市・朝日町の長野総合通信局。

 夜が明けきらぬ庁舎の一室では、松本が端末に向かい、妨害波の最終解析をしていた。


「妨害波のパターンが、トリアクトの株式取引時刻とほぼ一致しています。……偶然とは思えません」


 背後から戸隠が伸びをしながら覗き込む。 「つまり、黒部の狙いは最初から財閥じゃなくトリアクトか」


「月潟財閥の動揺を利用して、株式市場でトリアクトの信用を揺るがせる。あの妨害は、そのための演出だったんです」


 戸隠は缶コーヒーを机に置いた。

「まったく、電波で芝居を打つとは……新手の劇団だな」


 島見は小さく笑う。 「それにしても、黒部の発信装置……技術的にはすごかった。出力調整も精密です。私たちが見つけた倉庫の中継局も、ほんの囮。メインは港の通信コンテナに隠してありました」


「港湾コンテナ……つまり、移動しながらでも送信できる。用意周到だ」


「はい。技術の穴を突いていました。まるで、通信行政そのものを試すような」


 戸隠は机の上のデータを眺めながら、ぼそりと呟いた。 「ま、試されたなら、次はこっちの番だな」



---


 その日、新潟日日新聞の朝刊一面には、大きな見出しが踊った。


> 『月潟物産元部長ら逮捕 護衛無線妨害事件 背後に企業買収計画か』




 署名記事には、長野総合通信局の協力で違法送信設備を摘発、

 妨害電波の影響により月潟財閥関係の通信が混乱したとある。


 紙面を読む白根善一は、庁舎の喫茶コーナーでため息をついた。 「うちの受信機、しっかり映っちゃってますねえ。宣伝にはなるけど、複雑だわ」


 島見が苦笑する。 「でも、白根さんが現場で迅速に判断してくれなかったら、今ごろ澄佳ちゃんは……」


「やめてくださいよ。うちはただの下請けですって。こういうのは官の手柄です」


 白根は手を振って笑うが、その声には少し誇らしさが混じっていた。



---


 その頃、月潟財閥の応接室。

 澄佳は父の隣に座り、戸隠と島見の報告を静かに聞いていた。


「護衛通信を狙った妨害は、すべて排除されました。黒部という人物が主導していた可能性が高いですが、国外逃亡中です」


 戸隠が報告を終えると、月潟会長は深く頭を下げた。 「官の皆様には感謝しかない。娘を守ってくれて、本当にありがとう」


「いえ、私らは電波の番人でしてね。人の命を守るのは、別の筋の仕事です」


 戸隠は軽く帽子を脱ぎ、冗談めかして言った。

 澄佳はふっと笑い、胸の前で両手を合わせた。


「戸隠さん、また……DEURASの車で迎えに来てくれる?」


「お嬢さん、あれはお迎えじゃなくて“捜査車両”ってやつなんです」


「でも、あの車、なんだか安心するの」


 島見が横で苦笑した。

 その空気の柔らかさが、事件の終息をようやく実感させた。



---


 長野へ戻る道すがら。

 戸隠はDEURAS-M6の運転席で、ラジオをつけた。

 カーラジオからは、地元局の午前ニュースが流れている。


『新潟県警は昨日、月潟財閥関連の無線妨害事件で、元幹部ら二名を逮捕しました。逃亡中の主犯格・黒部については、国際手配が行われる見通しです――』


 名立が助手席で地図を畳みながら言う。 「黒部って、どんな男だったんです?」


「そうだな……電波を“生き物”だと思ってるタイプだ。

 普通の人間が機械を使うのに、あいつは機械に自分を使わせる」


「やっぱ、技術屋としては尊敬しちゃうとこもあるんですか」


「尊敬するほど人間ができてりゃ、俺ももっと出世してるよ」


 車内に笑いが戻る。

 山道に差しかかると、戸隠は窓を少し開けた。

 冷たい秋風が頬を撫で、空は薄い群青に染まりつつあった。


「ま、終わってみりゃ、ただの電波事件。けど――」


 彼は窓の外に目をやる。

 遠くの山並みの上で、携帯基地局の赤いランプが瞬いていた。


「――電波の影には、いつも人の欲がある。そこが厄介で面白い」


 缶コーヒーを一口すすり、戸隠は苦笑した。



---


 その頃、遥か北の空の下。

 ウラジオストク近郊の古びたホテルの一室。

 黒部は窓辺に腰を下ろし、新聞の国際版を読んでいた。


> 『日本・月潟財閥関連通信事件 主犯逃亡か』




 記事の隅に、自分の影を見つける。

 黒部はワインを掲げ、かすかに笑った。


「……電波の国境なんて、最初から存在しない。

 監視官たちがどれだけ追っても、信号は海を渡る」


 机の上にはノートパソコン。

 その画面には、新たな通信ログの数列が流れていた。

 ロシア語、英語、日本語が入り混じる暗号化チャネル。


 黒部は薄く笑い、指先でキーを叩いた。


「さあ――次の信号を、送ろうか」



---


 長野市の夜。

 庁舎の屋上鉄塔の踊り場で、戸隠が一人、星を見上げていた。

 秋の冷気に、缶コーヒーの湯気が静かに流れていく。


 島見が上がってきて、呆れたように言った。 「戸隠さん、また屋上で一服ですか。寒いですよ」


「ま、事件が片付くと、急に手持ち無沙汰でね。

 夜空はノイズが少なくて、心地いい」


「……黒部、また何か仕掛けてくると思いますか?」


「さあな。けど、あいつがどこにいようと、電波が出る限り俺たちの仕事は終わらない」


 戸隠は夜空を見上げ、ゆっくりと笑った。


「――電波は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつだって人間さ」


 遠くで、庁舎の鉄塔の航空保安灯が赤く瞬いた。

 その光は、まるで次の事件の予兆のように、

 静かな夜を照らしていた。

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