欲望のはての 第3話財閥令嬢危機一髪
十月の新潟。午後の陽射しはまだ柔らかいが、海風が混じる街の空気は冷たく、どこか冬の気配を含んでいた。
万代シテイのバスセンター二階。「みたつき」は、おやつ時の軽い空腹を満たす人々でいつも賑わっている。名物のイタリアンを頼む声が途切れない。
月潟澄佳はフォークを口に運び、ふう、と小さく息をついた。
「はあ……やっぱり、イタリアンは色々あるけど、やはりスタンダードなトマトソース別格ね」
隣で頷いたのは白根彩鼓。しろね電波工房の社長の娘にして、部長としての気配りを忘れない才媛だ。眼鏡の奥の瞳が穏やかに光る。
「部の行事として来るのは正解でしたね。皆さん、楽しんでますし」
「彩鼓さん、ナイスチョイス!」と元気に声をあげたのは西蒲真宵。彼女は食べ終えたイタリアンを、すでに二皿目に交換していた。
寺尾華はというと、口元にトマトソースをつけたまま慌ててハンカチで拭いている。見かねた彩鼓が、苦笑しつつティッシュを差し出した。
「華、落ち着きなさい。制服に飛んでるわよ」
「うわっ、またやっちゃった!」
その隣で、中条みなみが笑いをこらえていた。芸能活動をしているとは思えないほど自然体で、部員の一人として振る舞っている。
「まあまあ、華ちゃんらしくていいと思うけど」
「もー、みなみちゃん、笑ってるでしょ!」
わいわいと賑やかな一行。澄佳はそんな光景を微笑ましく眺めつつ、フォークを置いた。
その時だった。澄佳の護衛役として近くに待機していたシークレットサービスの隊員が、無線に耳を当てて眉をひそめた。
「……ノイズがひどい。応答が入らない」
ざざっ、という濁流のような雑音が、護衛無線を覆い尽くしていた。隊員は慌てて周波数を切り替えたが、どのチャンネルも同じように潰されている。
「まさか、ここで……!」
護衛責任者の声が緊張に染まる。澄佳は状況を察して、背筋を冷たいものが走った。
護衛たちの通信が使えない。まさに、先日から噂されていた妨害だ。
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その頃、万代シテイの外。
伊根丹新潟店のガラス張りの正面玄関から少し離れた歩道を、無精ひげの男が歩いていた。トレンチコートのポケットに手を突っ込み、鼻歌を口ずさみながら。
戸隠弘明――長野総合通信局の電波監視官である。今日は新潟市内で発生している150MHz帯の不審電波を追って、DEURASの移動局と共に現地調査をしていたのだ。
「おっ……? この辺、やけにノイズが跳ねてんな」
片耳に当てた携帯型受信機から、耳障りなホワイトノイズが炸裂していた。方位を確認すると、どうやら雑居ビルの方角だ。
戸隠は眉をひそめ、呟いた。
「まさか、嬢ちゃんたちの遊び場の真上か?」
その瞬間、受信機のメーターが一気に振り切れた。まるで誰かがスイッチを入れたかのように。
戸隠は舌打ちし、慌てて階段を駆け上がった。
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一方その頃、みたつきの店内。
護衛隊の一人が澄佳に近づき、小声で言った。
「澄佳さま、出口までご同行を。今は危険です」
澄佳は頷いたが、仲間の顔を見て躊躇する。
「でも、皆を残して行くなんて……」
「ご令嬢!」
護衛の声が一瞬、鋭さを増した。その直後、店の外から荒々しい足音が響いた。二人組の男が店内に踏み込んでくる。サングラスにマスク姿。周囲の客が悲鳴を上げる。
「澄佳嬢はこちらだな!」
場の空気が凍りついた。部員たちが一斉に澄佳の前に立ちはだかる。
「何ですか、あなたたち!」と彩鼓が声を張る。
真宵と華も腕を広げ、必死に澄佳をかばった。
だが、迫り来る男たちに対してはあまりに非力だ。
その時――。
「おーおー、賑やかだなあ。おやつにイタリアンを初めて食いに来ただけなのによ」
間延びした声が割って入った。
戸隠弘明が受信機を片手に、のそのそと店に足を踏み入れたのだ。
彼は男たちを一瞥し、肩を竦めた。
「電波は嘘つかねえんだ。護衛の無線潰して嬢ちゃん拉致なんて、随分と古典的な手じゃねえか」
男たちが一瞬ひるんだ隙に、護衛隊員が澄佳を抱えるように後退させた。
真宵が思わず叫ぶ。「戸隠さん!? どうしてここに!」
戸隠は飄々と答える。
「仕事中だ。遊んでんのはお前らだろ」
その軽口に、場の緊張が一瞬だけ緩んだ。だが次の瞬間、男たちが突進してきた。護衛隊と揉み合いになり、椅子や食器が床に散乱する。
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混乱のさなか、戸隠は静かに受信機を操作していた。
ホワイトノイズのピークを確認し、呟く。
「やっぱりこのビルだ……送信機を仕掛けてやがるな」
視線を上げると、男たちの背後――伊根丹新潟店の出口方面に、別の影がちらりと見えた。黒いコートの人物が、携帯型送信機を胸に抱えて立っていたのだ。
黒部。その冷たい眼差しが、一瞬だけ戸隠と交わった。
すぐに人混みに紛れ、姿を消す。
「……成程な。親玉は別か」
戸隠は大きく息を吐き、乱闘に割って入った。
ぶつかってきた男の腕を軽く払うだけで、体勢を崩させて床に転がす。
次の男も、コートの裾を引っかけて勝手に転倒させた。
無駄のない、力を使わない動きだった。
護衛隊が男たちを取り押さえると、店内には安堵の空気が戻りつつあった。
澄佳は震える声で言った。
「戸隠さん……ありがとうございます……」
戸隠は頭を掻き、気恥ずかしそうに答えた。
「礼なんざいい。俺はただ電波を追ってただけだ」
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外に出ると、秋風が頬を撫でた。
彩鼓が澄佳の肩を抱き、落ち着かせている。真宵と華はまだ興奮冷めやらず、みなみは無言で二人を支えていた。
護衛責任者は戸隠に頭を下げる。
「本当に助かりました。だが、送信源を断たない限り、また同じことが……」
「心配すんな。こっちは電波の足跡を掴んだ。あとは網を張るだけだ」
戸隠は真剣な顔つきになり、伊根丹新潟店のガラス越しに街を見やった。
その視線の先には、もう黒部の姿はない。だが確かに、影は潜んでいる。
――月潟財閥を揺さぶるための周到な陰謀。
そして、それを電波の痕跡から追い詰めようとする電波監視官。
物語は、静かにしかし確実に次の段階へ進もうとしていた。




