欲望のはての 第1話 4月…財閥令嬢と不正の影
第1話 財閥令嬢と不正の影(4月)
長野市朝日町の官庁街。その一角にある総務省長野総合通信局の庁舎は、新築ながらどこか古風な直線的デザインで、役所らしい落ち着きを漂わせていた。
春の陽射しが差し込む窓際で、電波監視官・戸隠弘明は椅子を少し傾け、書類をめくっていた。五十歳を迎えた彼は、柔らかな表情と人好きのする笑みを絶やさない。昼行灯――職場での通り名である。だがその油断ならぬ眼光を知る者は少ない。
「戸隠さん、午後からの会議どうします?」
若手の島見杏果が顔を覗かせる。高校時代はアマチュア無線部に所属していた才女で、今や監視課のホープだ。
「会議?ああ、出席するとも。……寝なきゃな」
と肩をすくめて笑う戸隠に、杏果は呆れた顔をする。こういう調子だから“昼行灯”と呼ばれるのだが、いざ電波のトラブルが発生すれば、誰よりも早く動くのが彼である。
その頃、新潟市では別の物語が始まっていた。
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移動執務車と令嬢
財閥・月潟家の令嬢、月潟澄佳は、新潟中央女子学園に通う高校生だ。
因みに島見杏果は先輩後輩の間柄になる。
父である当主の7代目七衛門が率いる月潟財閥は、元々は江戸時代から続くが海運業と米穀商を中心に営む規模の小さな地方財閥だったのだが、現当主の祖父にあたる5代目七衛門が第二次世界大戦直前に全事業の9割を他社に売却し、その収益をほぼ全て米国ドルに変えて隠匿して終戦。
他の財閥がGHQの財閥解体指令により、解体される中、対象外となり戦前に変えていた米国ドルを武器に他の財閥が手放した事業を市中に収め、物流から金融、不動産に至るまで幅広い事業を展開する巨大コングロマリットとなった。
その中核企業のひとつが総合商社・月潟物産である。
澄佳は、放課後になると父が所有する「移動執務車」に乗り込むことが多かった。大型バスを改造した豪奢な移動書斎で、重厚な革張りのソファに、専用端末が並び、どこからでもグループ全社の基幹システムへアクセスできる仕組みになっていた。
「……これが、父の会社の心臓部」
画面に並ぶ数字の列を眺めながら、澄佳は小さくつぶやいた。経営には口を出せない年頃だが、持ち前の好奇心と才覚でシステムを覗き、学ぶことを楽しみにしていたのだ。
その日、ふとした違和感が彼女の目を止めた。購買部の帳簿。ある取引先の数字が、奇妙に膨らんでいた。
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不正の発覚
「村松……交易?」
表示された社名を口にする。地方の中小企業にしては、取引額が異様に大きい。しかも、定期的に金額が上乗せされている痕跡があった。
澄佳はさらに深く検索を進める。基幹システムと経理システムを横断的に照合する。すると、購買部長の五泉啓太が関与した発注データの一部で、村松交易に支払われた金が不自然に循環しているのを突き止めた。
「……横領?」
背筋が冷たくなる。単なる数字のミスではない。明らかに意図的な金の移動があった。
澄佳は即座に決断する。父に報告するしかない。
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父への報告
夕刻、月潟本邸の書斎。重厚な扉を開けると、七衛門が分厚い書類に目を通していた。
「お父様、少しよろしいでしょうか」
澄佳は緊張しながらノートPCを差し出した。
七衛門は娘の説明を黙って聞いていたが、やがて深くため息をついた。
「……五泉め。やはりか」
「ご存じだったのですか?」
「疑惑はあった。だが、確証がなかった。澄佳、よく見つけたな」
その夜のうちに、七衛門は社内監査を動かした。翌朝、購買部長・五泉啓太は役員会で糾弾され、即日懲戒解雇となった。取引先の村松交易は、粉飾が露見し、資金繰りが破綻して倒産に追い込まれる。
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崩れゆく者たち
五泉は退職金もなく追い出され、地位も名誉も一夜にして失った。
「……澄佳の小娘さえいなければ」
酒に溺れながら吐き出す恨み言。
一方、村松交易の社長・村松英二は、工場の従業員たちに頭を下げながらも、自らの欲で会社を潰した事実に顔を上げられなかった。
「月潟に切り捨てられた……。俺は犠牲者だ……」
彼の胸にも、復讐の火が小さく灯っていた。
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長野総合通信局にて
そんな渦中のことを、戸隠はまだ知らない。
「なあ島見。おまえ、イタリアンって食ったことあるか?」
突然の話題に、杏果は首をかしげる。
「新潟市出身者のソウルフードじゃないですか!知らないヤツは新潟市民じゃないですよ!」
「焼きそばにミートソースがかかってて…あれは美味いのか?」
「あー!イタリアンを焼きそばって言いましたね!それは全新潟市民と出身者を敵にまわしますよ!」
「…そ、そうなのか…。」
思わず、島見にタジタジになるのであった。
そんな日常の裏で、五泉と村松の怨嗟は確実に膨らんでいた。彼らは互いに連絡を取り合い、やがて「共通の敵」に矛先を向けていく。
標的は――月潟澄佳。
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新潟日日新聞
数日後の朝刊一面に、太い活字が躍った。
「月潟物産元部長ら不正取引で懲戒処分 取引先・村松交易は倒産」
ホテルのロビーで新聞を広げていた一人の男が、記事に目を留めた。
スーツの胸ポケットに差し込まれた名刺には「黒部」の名。
「……使えるな」
口の端を不気味に歪め、新聞を畳むと静かに立ち去った。
それは、後に長野総合通信局をも巻き込む大きな陰謀の幕開けに過ぎなかった。




