有閑閑話 ナビが示すのは人の欲望の跡
15時、戸隠弘明係長は道の駅でお気に入りのペットボトル入りのストレートティーを買い、溜め息をひとつついた。
「これでようやく長野に戻れる……」
疲労はたしかにあるが、無事に任務を終えた安堵感も大きかった。
車載ナビは「目的地までおよそ2時間」と示していた。
しかし、再出発して間もなく、ナビの画面が唐突に点滅した。
> 《ルートを再検索します》
そして、青い線が描き直される。
そこにはあり得ない経路が表示されていた。
> 《県道112号を経由します》
「……は?」
戸隠は二度見した。毛無峠。
長野県と群馬県の境、標高1800メートル近くにある峠。
観光施設もなければ、生活道路でもない。
残るのは旧硫黄鉱山跡と、荒涼とした山肌だけ。
人々が硫黄採掘のため一度は群がり、ピーク時には2000人以上の人が集い、産業構造の変化により去った場所。
なぜナビがそんなルートを推すのか。
もちろんバグだろう。だが、心のどこかで「まあ、寄ってみるか」という気持ちが芽生えてしまった。
ナビは正しい。
ナビは冷静。
――そう信じ込む習慣が、いつの間にか染みついているのだ。
ハンドルを切ると、車は霧の山道へと進んでいった。
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峠に近づくほど霧は濃くなり、ライトに照らされた道幅はどんどん狭まる。
やがて、ぽつんと古びた案内板が現れた。
《旧小串硫黄鉱山跡》
そこはかつて「宝の山」と呼ばれた。
仕事を求め、富を夢見て人々が集まり、一時は標高1800mの山の中に2000人を超す町ができた。
商店街、学校、映画館まで整った。
だが、採掘のしすぎで土砂崩落事故が多発している中で、第二次世界大戦後に石油精製時に合わせて硫黄を産出する技術の開発され、安い硫黄の市場流通により、わざわざ危険でかつ不便な毛無峠で硫黄の採掘をする必要はなくなった。
そして、富を夢見て集まった人々は蜘蛛の子を散らすように去り、残ったのは廃墟と錆びた鉄骨だけだった。
戸隠は車を停め、窓を少し開けた。
冷たい霧が車内に流れ込み、かすかに硫黄の匂いを残す。
「人が欲に従うのも、ナビに従うのも……結局は同じか」
思わず口にした。
資源を追った人間。
「いいね」のために映え写真を撮りに来る若者。
ナビの指示に逆らえず、峠に導かれる自分。
欲望の形は違っても、毛無峠は今も人を惹きつけるのであろう。
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ふと気づけば、峠の駐車スペースに数台の車が止まっていた。
若者たちがスマートフォンを掲げ、同じ角度で荒涼とした斜面を背景に写真を撮っている。
誰かが「このボロボロの群馬県の看板とこの先危険につき関係者以外立入禁止の看板の構図が映える」と言えば、皆が真似する。
誰もが承認を求め、フレームに収める。
その姿は、鉱脈を掘り進めた往時の労働者の群れと、どこか重なって見えた。
「結局、人は“選ばされている”んだよな」
口に出した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
まるで自分の思考すら、どこかに仕込まれたルートをなぞっているだけなのではないか、と。
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車に戻り、再びナビを確認する。
霧の中、画面は淡々と告げる。
> 《この先、直進です》
どこまでも冷静で、どこまでも無機質。
だが、その案内は人間の過去の選択の集積に過ぎない。
ナビは道を知っているわけではない。
ただ、無数の「こう走った人がいた」という履歴を示しているだけだ。
「つまり……俺は人の欲望の残骸に導かれているってわけか」
ハンドルを握る手に汗がにじんだ。
ふと視界が開け、長野市街の灯りが遠くに見え始めた。
霧が晴れたのだ。
気づけばナビは、いつの間にか通常ルートに戻っていた。
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翌日、長野総合通信局。
戸隠は紅茶をすすりながら、雑談ついでに話してみた。
「いやぁ、昨日さ。ナビに連れてかれて毛無峠なんぞ行ってきちまってな」
「えっ、あそこですか? インスタで人気ですよ! “死の世界に一番近い絶景”って。映えスポットらしいです!」
若手職員が目を輝かせる。
「……なるほどな」
戸隠は苦笑し、窓の外に見える山並みに目をやった。
欲望に導かれ、欲望に縛られ、欲望に消費される人間。
毛無峠はその縮図のようだった。
ふと机の上のスマートフォンが震えた。
画面には「ルートを再検索します」の文字。
次の目的地として表示されたのは――
やはり「毛無峠」だった。
戸隠はそっと電源を切った。
だが胸の奥に、あの荒涼とした峠の風が、まだ吹き抜けている気がしてならなかった。




