有閑閑話 島見とみさきと長野の夜
庁舎の玄関を出ると、夜風がすっと頬を撫でた。長野の十月末は、もう肌寒さが強い。
イベントを終えた大山みさきは、分厚いコートを羽織りながら笑った。
「やっと終わった〜。杏果、おつかれさま」
「みさきこそ。今日の主役はあんたでしょ」
アイドル衣装から私服に着替えたみさきは、学生の頃の面影をそのまま残しているようで、杏果の胸は少し温かくなる。芸能界に飛び込んだ彼女と、国家公務員になった自分――進んだ道は違えど、こうして再会できるのが不思議でたまらない。
「今日はね、新潟に戻らなくてもいいんだ。小川マネージャーに聞いたら、明日の午後に首都テレビでご当地アイドル番組収録があるから、長野から新幹線で直行すればいいの」
「へぇ。じゃあ、今晩はのんびりできるんだ」
「そういうこと! だから、杏果と一緒に過ごしたいな」
その言葉に、杏果は思わず赤面してうつむいた。
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みさきのタレント車で合同宿舎まで送ってもらい、隣のコンビニに寄る。スナック菓子やペットボトルを手に提げながら部屋へ。
「ここが私の城です」
「……狭っ! 廊下にキッチンって……ほんとにここで暮らしてるの?」
「文句言うな。単身用なんだから」
六畳一間の洋室。机とベッドと小さなテレビがすべて。質素な空間にみさきはしげしげと視線を巡らせ、やがてくすっと笑った。
「でも、杏果っぽい。無駄がなくて、落ち着いてる」
「ほっとけ」
けれど、そう言われると悪い気はしない。
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「で、せっかくだし、どっか行こうよ。温泉とか!」
「……あるよ。温泉は車で三十分以内にたくさんあるけど、近い県庁裏温泉と権堂温泉は休みのはずだから…。大豆島あったか苑って、元々はスーパー銭湯だったけど、温泉掘ったら出てきて、そのまま日帰り温泉にしたんだけど、そこはどう?食堂もあるし…。」
「決まり!」
その勢いに押され、杏果は愛車のアルトを駆り出した。小さな車体に二人乗り込むと、まるで高校の下校の延長みたいだ。
「杏果の車、相変わらずかわいいね。よく走るじゃん」
「うちの相棒だからね。転勤になっても持ってくつもり」
「愛だねぇ」
窓の外の夜景を眺めながら、二人の会話は途切れない。芸能活動の忙しさ、地方勤務の孤独感、学生時代に夢を語り合った夜――。
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到着した「あったか苑」は、地元客で賑わっていた。券売機でチケットを買い、脱衣所で支度を整えて浴場へ。
湯気に包まれた大浴槽に肩まで浸かると、みさきは声を上げた。
「はぁ〜〜! 天国〜! 東京じゃ絶対できない贅沢だよ」
「いいだろ〜。地元民の特権特権。あと、ここ露天風呂もあるからこのあと行こうか?」
湯に揺れる光を見つめながら、みさきはしみじみと呟く。
「私ね、ステージの上に立ってるときは楽しい。でも、終わって控室で一人になると、急に寂しくなるの」
「……」
「今日みたいに、杏果がいてくれると、ほっとするんだ」
杏果は返す言葉に迷いながらも、そっと肩を寄せた。湯の温かさだけでなく、胸の奥にもじんわり温もりが広がっていく。
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入浴後、食堂で夕食を取ろうとしたとき――。
「あっ」
見慣れた背中に杏果が小声を漏らす。
そこには晩酌中の戸隠弘明係長がいた。ビール片手にどっしり座る姿は、まるで居酒屋の常連親父そのもの。
「おっ!おまえらも来たか」
「か、係長……!」
驚く杏果をよそに、みさきが笑顔で会釈する。
「こんばんは! お仕事お疲れさまです」
「……ああ」
淡々とした調子だが、その後すぐに口を開いた。
「島見、明日の年次休暇は通ったぞ」
「えっ、ほんとに!?」
「だから、安心して遊んでこい」
喜ぶ杏果を見て、みさきも拍手。戸隠は無言で食券を追加購入し、悪戯っぽい顔をしながら二人に渡した。
「祝いだ。おしぼりうどん定食を奢るぞ」
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やがて運ばれてきた「おしぼりうどん」。
坂城町の郷土野菜で辛味大根の一種である「ねずみ大根」のおろし汁にうどんを浸す千曲市から坂城町にかけての郷土料理だ。
「いただきまーす!」
勢いよく食べた瞬間――。
「か、辛ぁっっ!」
「舌が死ぬぅ〜!」
二人は同時に悶絶し、涙目になった。周囲の客が思わず振り返るほどだ。
戸隠だけはニヤけながらも麺をすすり、ぽつりと言った。
「味噌を入れてみろ」
「え?」
「おろし汁に味噌を溶くと、辛さが和らぐ」
言われた通り試すと、確かに刺激がまろやかになり、旨味が増した。
「おお、食べられる!」
「もっと早く教えてくださいよ!」
二人が文句を言うと、戸隠は無言で二杯目を平らげていた。
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結局、三人は笑い合いながら夕食を終えた。戸隠は「じゃあな」とだけ言い残し消えていった。
帰りのアルトの中、みさきは頬を赤らめながら笑った。
「杏果の上司さん、面白い人だね」
「……あれでも、頼りにはなるんだよ」
二人は顔を見合わせ、また笑う。
「あ、そう言えば、この間新潟中央女子学園の文化祭ライブに行ったよ。ライブ前に後輩連れて、ハム部の部室にも行ってきたよ」
「あ〜あの子達…騒がしくなかった?」
「ぜ〜ん然!むしろ可愛いじゃない」
「まぁ…たしかにね…。」
アルトは車の通りが少なくなった須坂インター線を市街地に向けて駆け抜けたのだった。
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宿舎に戻り、コンビニで買ったお菓子を広げて布団を並べる。
「ねえ、杏果」
「ん?」
「こうして一緒にいると、安心するんだ。あの頃と変わらない私でいられる気がして」
「……私もだよ…さて、明日の新幹線までの時間なにしようか…」
照れ隠しのように電気を消し、布団に潜り込む。静かな六畳間に、夜風の音と二人の寝息だけが残った。




