昼行灯電波監視官とそらの番人たち
この物語はフィクションであり、実在する組織や人物とは一切関係ありません。
また、作中の事件も実際に起きた事件ではありません。
ただ、電波監視官という仕事は実在します。
第一章:左遷の挨拶
長野市朝日町にある長野総合通信局。総務省の管区機関で長野県と新潟県のおよそ470万人の生活に直結する無線通信、放送、携帯電話やインターネットプロバイダ、信書便、また電子レンジなどの許可の監督行政をおこなっている。
四月初旬、まだ春の寒さが残る朝だった。
「戸隠弘明。本省基盤通信局基盤通信課から左遷されてきました」
新しく着任した監視官の挨拶に、室内が一瞬静まり返った。
「えっ……左遷って、そんな、はっきり……」
ざわつく職員たちをよそに、戸隠はコートのポケットに手を突っ込んだまま、間延びした笑みを浮かべている。
「いやあ、空気も電波もきれいでいいですね、長野は」
その飄々とした態度に、誰もがコメントしづらい空気になった。
翌朝、局に緊張が走った。第九管区海上保安本部からの一本の連絡である。
「E-PIRBの発信が確認されました。北緯36度16分、東経137度56分付近とのことです」
非常用位置指示無線標識装置(E-PIRB)は通常、海難事故で使用される無線信号である。だが、示された座標はどう見ても内陸、それも山間部に近い。
「これ……山の中じゃないか?」「地図ある?」
職員たちが地図を引っ張り出してきて、緯度経度をにらむ。その中で、戸隠は貼られている立体地図の前に立った。
「ふむ。……この座標、だいたいこの辺だろう」
貼られた長野県の立体地図を、人差し指で指さす。
「ま、場所の特定はこれからだが、まずは“あづみ野”と“塩尻”のDEURASセンサを設定しよう」
「え? もう絞れたんですか?」
飯島という若手職員が思わず声を上げた。
「いや、正確な話じゃない。だがこの辺で使えるセンサはそれくらいしかないし、方向線が交差すれば十分見当はつく」
言葉は淡々としているが、あたかも最初から把握していたような口ぶりだ。
「梓川SAまで出よう。現場観測するにはちょうどいい位置だ」
やや戸惑いながらも、職員たちは戸隠の指示に従い準備を始めた。
車で高速に乗る道すがら、飯島が口を開く。
「戸隠さん、あの座標……ほんとに分かったんですか? そらで?」
「いや? ぜんぜん」
「えっ」
「座標は覚えてないけど、長野県の地形なら知ってる。感覚と、まあ経験ってやつ」
あっさり言い切る戸隠に、飯島は返す言葉を失う。
「まあ、“下手をすると電波より鉛玉が飛ぶ”ような現場もあるからな。現地対応は慎重にいこう」
それが冗談なのか本気なのか、若手にはわからなかった。ただひとつ言えるのは、この昼行灯の男――戸隠弘明が、見た目とは裏腹に、ただ者ではないということだった。
第2章 断続する救難信号
梓川サービスエリアに停めたDEURAS-M6の車内、車内の空気は張り詰めたままだった。
後部座席の戸隠弘明が、助手席の中根にタブレットを向けた。
「この間隔……何か気づかないか?」
中根がデータを覗き込む。E-PIRBの発信は不規則ではあるが、パターンに見覚えがあった。
「もしかして……S・O・S? モールスで?」
「そのとおり。最初はノイズかと思ったが、発信は毎回10秒で1文字分。意図的に発信されてる」
「E-PIRBをそんな風に使えるんですか?」
「普通はやらん。だが、やれる。ボタン操作とタイミングの組み合わせさえ知っていればな。おそらく中に閉じ込められてる。しかも、ただの遭難じゃない」
戸隠はタブレットに地図を表示させると、赤の直線を引いた。
「あづみ野からの方位は東南東、塩尻からは北北西。そして、この位置からは不安定だが、交点は……松本市旧四賀村の一帯だ。山がちで、圏外の場所も多い。廃材置場や資材置き場があるのも、あの辺りだな」
「それって……」
「下手をすると、鉛玉が飛んでくるような場所だ」
中根が一瞬顔を強張らせる。
「でも……助けを求めてる人がいるんですよね?」
「だから行く。行くが、突っ込むのは馬鹿のすることだ。様子を見てから通報する。今回は“電波”が俺たちの盾になる」
M6のエンジンが再び唸りを上げ、梓川SAに併設するスマートICから北上していく。
*
四賀地区の奥へと分け入る道は、舗装こそされているものの心細い山道だった。携帯の電波はいつの間にか圏外になり、車内に響くのはエンジン音とDEURASからでるE-PIRBの信号音だけ。
谷あいの奥、鬱蒼とした木立の影に、それはあった。錆びた資材コンテナと、覆いのかかった鉄骨。フェンスも門もあるが、錠はかかっておらず、見ようと思えば見落とせない不自然な構造。
「……あそこですね。発信源の方位、ほぼピンポイントで一致します」
「中に入るなよ。見張りがいるかもしれん。」
戸隠は双眼鏡を取り出して覗く。
その視線の先、コンテナの影に、身なりの荒れた男たちが二人。ひとりはスマホをいじり、もうひとりは車の荷台を覗き込んでいた。
「……予想どおり、カタギじゃないな。妙なのは、連中がE-PIRBの存在に気づいてない様子なことだ。つまり、発信者は“隠されている”」
戸隠は隣に座る中根に目配せしながら、低く言った。
「よし、中根。お前は一度、山を少し下りて携帯が通じる場所まで戻れ。“電波の発信源が明確になった、現地には不審者複数、身柄の安全確保の見込みなし”――そう報告して、応援を頼め」
「じゃあ戸隠さんは?」
「俺はこのまま波形を観測し続ける。“助けを求めてる声”は、止めてはいけない」
そう言って、彼はヘッドセットを装着し、静かに呼吸を整えた。
山深い廃材置場の空気は冷たく、春の日差しのぬくもりを奪っていた。
第3章 廃材の檻
小さな谷間に沈むように置かれた廃材置場。木の葉のざわめきに混じって、耳を澄ませば微かに聞こえるDEURASからの信号音。戸隠はたちは車内に身を潜め、アンテナをコンテナ群に向けて微調整しながら、波形の微細な変化を監視していた。
「……確かに、発信は続いてる。しかもかなり強い」
発信間隔は一定、信号強度はわずかに増している。それは、発信源が静止しており、周囲に電波障害もないことを意味する。逆に言えば、外部からの妨害や移動はされていない。
戸隠は小さく頷き、メモに走り書きをする。
発信者、生存中。発信地点、固定。封じ込められている可能性高し。
そのとき、双眼鏡を覗いた視界に動きがあった。先ほどの不審者の一人が、車の中から長い棒状の何かを取り出し、もう一人に手渡す。
「……バールか?」
ただの廃材泥棒ではない。だが、それだけとも思えない空気が漂っている。戸隠の脳裏に、先週のニュースが浮かんだ。
《東京都内で大手IT企業「トリアクト」の社長・澤井剛志氏が失踪。都内で最後に姿が確認されたあと、所在不明に。警視庁は誘拐の可能性を視野に捜査を進めている》
「まさかな……」
そのとき、DEURASの表示が跳ね上がった。
「!?」
波形が急に伸びた。コンテナのひとつから、高出力の信号が短時間に断続的に送られてきている。
「助けを呼んでるな……。タイミング的に、中根が山を下りた直後だ。賢い奴が中にいる」
戸隠はひとつ息を吐き、ミニレコーダーを取り出した。E-PIRBの信号に重畳されていた極めて微弱な変調を録音し、解析を始める。
1分後、再生された信号は、確かに意味を持っていた。
「S・A・W・A・I…?」
さらに続いた。
「K・I・K・A・N…? 機関……? いや、“澤井 機関室”? ……船か?」
戸隠は背筋を伸ばした。
「E-PIRBは船舶に備えられているもの。だとすれば……このコンテナ群、どこかの解体予定の船のパーツか。いや、“この中に船ごと閉じ込められている”と考えるべきか」
ちょうどそのとき、DEURAS-M6の連絡無線が鳴った。戸隠は応答する。
「中根です。応援要請、済ませました。県警が動くそうです」
「よし。あと20分で動きがある。だが中根、くれぐれも言うが、戻ってきても中には近づくなよ」
「了解です。……あの、戸隠さん」
「ん?」
「この状況で、怖くないんですか」
「怖いさ。俺は銃も持ってないし、殴られても勝てん。だが――」
一拍置いて、昼行灯のような男はぽつりと続けた。
「今は“電波”が、俺たちの武器だ。それがどこから来て、どう発信されてるのかを見抜くのが俺の仕事。下手をすれば、鉛玉より先に真実が吹き飛ぶ」
中根は短く「了解」とだけ答え、回線が切れた。
戸隠は再び、双眼鏡に目をやる。
夜の帳が山に落ちる中、廃材の檻の中で――誰かが、必死に助けを呼んでいた。
第4章 連携
日没とともに、谷間は墨を流したような闇に沈み始めていた。山際に並ぶコンテナ群と廃材の山。その奥に、小さな発信源が今もなお、微弱ながらも確かな信号を送り続けている。
長野県警松本署の刑事たちが数台の覆面車で接近してくる中、戸隠と飯島は山陰に身を潜めていた。DEURAS-M6のモニターには、あづみ野・塩尻センサの指向性が交差する地点を示す赤い交点が、まさに目の前の廃材置き場を指し示していた。
「……あの積まれたブロックの中か」
飯島が双眼鏡越しに呟くと、戸隠は緩く頷いた。
「E-PIRBの信号は継続中。ただ、送信間隔と内容に微妙な変化がある。間違いない。内部に生存者がいる可能性が高い」
「けど、あの周囲……あれ、どう見ても素人じゃないな」
飯島が指差す先。作業着風の男たちが何人も、廃材の間を歩き回っていた。明らかに解体作業とは無関係な動きだ。手には工具ではなく、何かを隠すような不自然な袋を持っている。
「下手をすると、電波より鉛玉が飛ぶぞ」
戸隠の目が鋭く細められた。彼は腰のIDをジャケットの中に隠すと、飯島の肩を軽く叩いた。
「こっちはあくまで技術支援。前に出るのは警察に任せよう。下手に突っ込むと、俺らじゃシャレにならん」
刑事たちと合流した現場指揮官がやってきて、小声で確認してくる。
「間違いないな? 発信源はこの廃材置場で確定か?」
「ええ。精度は±30メートル内。信号の断続的な性質からして、意図的にモールスでSOSを送っていると考えられます」
「わかった。突入は我々がやる。支援、よろしく頼む」
警察側が現場の包囲に入る中、戸隠たちはDEURAS-M6の中で信号の監視を続けた。やがて、静寂を破る怒号とともに突入が始まる。
程なくして、無線が飛び込んでくる。
「内部から一名確保! 男性、身元判明。都内IT企業『トリアクト』の社長、澤井剛志氏! 誘拐事件の被害者だ!」
中根が驚愕の目を見開いた。
「まさか……東京で起きたあの事件の?」
戸隠は、静かにモニターを見つめながら呟いた。
「E-PIRBは本来、船のための命綱。だが、意志があれば、どこだって声になるってことさ」
遠く、廃材の中から男がストレッチャーに乗せられて運ばれてくる。警察が容疑者を取り押さえ、銃器の確認に入る。発信は止まった。
通信は途絶えたが、確かに“声”は届いていた。
第5章 信州の空の番人たち
数日後。長野総合通信局の朝日町庁舎に、珍しく報道各社からの問い合わせが殺到していた。
「長野の山奥でIT社長救出」「発信源は非常用無線機」「技術支援に“通信のプロ”たち」──そんな見出しが、地方紙から全国紙にまで広がっていた。
戸隠弘明は、いつものように麦茶片手にモニター前の椅子に深く腰を下ろしていた。課長が電話対応に追われ、他の職員もソワソワと落ち着きがない。
「戸隠さん、これ全国ニュースっすよ。総務省からも問い合わせが……」
「ふむ。広報対応はお偉いさんたちに任せておこうかね」
とぼけた調子で応じる戸隠だが、表情はいつもよりわずかに柔らかい。彼の机の上には、救出された澤井剛志の手紙が置かれていた。感謝の言葉と、手元のE-PIRBを「再発明」してみたいという一文。エンジニアらしい熱気に満ちた直筆のメッセージだった。
その夜、庁舎近くの朝日町公園では三部咲のサクラの下で、ささやかな打ち上げと戸隠の歓迎会が行われた。ノンアルコールビール片手に集まった電波監視課の面々。紙皿には焼き鳥と冷やしトマト。長野の夜風は少し寒い。
「戸隠さんって、やっぱり本省上がりのエリートなんすね」
と誰かが言うと、戸隠は口元を拭いながら首を振った。
「いやいや、左遷組だよ。昼行灯って呼ばれてた」
「でも、なんで電波の種類と位置をあんなにすぐ……」
栗田が笑いながら言う。
「こいつ、たぶんあれ全部頭に入ってるんだよ。市役所の緯度経度とか。変態的記憶力ってやつだ」
「まぁな。好きでやってるだけさ」
夜空には、県境の山並みを超えて、微かな航空無線が聞こえていた。戸隠はそれを耳で捉えながら、ふと思う。
(空を飛び交う無数の信号と、それを支える名もなき者たち。その背後で、ほんの少しだけ、誰かの命が救えるなら)
彼は空を見上げ、手にした缶を軽く傾けた。
「……信州の空も、悪くないな」
そして、また何食わぬ顔で、椅子にふんぞり返る。
「さて、次の“異常”はどこからだろうな」