【有閑閑話】湯と煙とカエルの歌
湯と煙とカエルの歌
長野総合通信局から南東へおよそ7キロ、長野市の東部…大豆島ののどかな田園地帯に、ひとりの男が引っ越してきた。
その名も、戸隠弘明、総務省所属。
言葉少なで、口元にはいつも気の抜けた笑み。が、ひとたび事件となれば、目の奥が違ってくる――
……が、今はただの引っ越し初日である。
築40年以上の平屋戸建て。庭付き、駐車場付き、家賃5万円。
役所からは合同宿舎への入居を案内されたが、「どうせ左遷されたんだから、住まいくらい自分で選ばせてくれ」と断った。
戸隠がこの家を選んだ理由はこうだ:
地名が、勇気マサミのギャグ漫画『究極変人わい』のヒロイン「大豆島さん子」と同じだったから。
徒歩10分にある日帰り温泉**『あったか苑』**の存在。
庭で野菜づくりができること。
そして車で10分のところにあるイヲンモール須坂市。
そこまで行かなくとも、地場の食品スーパー『デリシャス』や3大コンビニも、ドラッグストア『米国薬局』などがすべて徒歩圏内にあり、中華レストラン『ばーちゃん』、カレーハウスDoCo参番屋、はなからうどん、ハンバーガーショップ『マコトナルゾ』、あったか苑の中でも食堂があり、最悪外食だけでも生きられる…
まさに「人生、住めば都」。
――などと喜んでいたのも束の間、夜になれば近隣の田んぼからカエルの大合唱。
「あー、これは……自動的連続鳴動式アナログ妨害音源……」
DEURASで違法無線を探してきた男でも、カエルの合唱までは読み切れなかった。
その晩、戸隠は頭にタオルを巻いて耳栓を詰め、布団の上で目を閉じた。
「ここで寝られなきゃ、電波監視官失格だぞ……俺……」
しかしカエルの声は、まるで「ウェーイ!」と合唱隊のように揃っていて、リズム感だけは妙に良かった。
――翌朝。
晴れ渡る空。戸隠は愛車の小型EVトヨタ・コムスに乗って、あったか苑へ向かった。
もとはスーパー銭湯だったこの施設、駐車場工事中に偶然掘り当てた自噴の温泉により、リニューアル。
単純泉とはいえ湯量が豊富で、上田千曲長野サイクリングロードと北信濃ぽっぽサイクリングロードの終点にも近いため、サイクリストの利用客多い。
運営しているのは地元の専門商社**『タカムラ』**。
土産物商社が本気を出して作った結果、どこか温泉旅館のような雰囲気が漂っていた。
「土曜日の午前でこの混み具合って……人気出すぎてるんじゃないか?」
広々とした内湯と露天風呂に身を沈め、戸隠は独り言のように呟いた。
湯船の向こうで、頭にタオルを巻いたご年配が「なにか?」と反応してくる。
「いえ、ここの湯、あたりが柔らかくて……」
「ここのはな、炭酸も硫黄もないけど、芯まで温まるんだ。夜までポカポカしてるぞ」
「……良い湯です」
「で、この辺では見かけない顔だが…どこから来なさったんだい?」
「ええ、まぁ……ちょっとだけ、仕事の都合で東京の方から……」
余計なことは言わずにおくのが戸隠流だった。
夕方。
帰宅後、戸隠は庭に七輪を出し、ふるさと納税で返礼品としてもらったクサヤを焼き始めた。
玄関先から漂う濃厚なアンモニア臭をまとった香りが、田園に風と共に放たれる。
と、隣家の方から女性がひょいと顔を出す。
風間市子、30歳、容姿端麗、バツイチ。
この借家の貸主にして、大豆島の西隣の町にある神社の宮司の親戚という由緒正しきお隣さんだ。
「戸隠さん…また妙なもの焼いてるわね……」
「クサヤは、人生の味だ」
「人生が、臭うのね……」
「そういうの、さっき湯で流したつもりだったんだけど」
「あなたが流せても、空気が流せるとは限らないわ」
彼女は冷えたクラフトビールの缶を二本差し出し、ひとつを戸隠の手に。
「湯上がりに炭火でクサヤ、それでビールって……それ、もう昭和じゃない」
「平成すら通り越して、人生の奥座敷ですな」
「うまいこと言ったつもりでしょ? そんなとこも、ちょっと気に食わないわよ」
冗談とも本気ともつかない口調に、戸隠は小さく笑い、缶を傾ける。
遠くで、またもカエルの合唱が始まった。
戸隠はふと、言った。
「……この音も、慣れれば案外悪くない」
「そんなふうに言える人、滅多にいないと思うけど」
「不法無線よりは、静かなもんで」
「それ、職業病?」
戸隠弘明。電波監視官。田んぼと温泉とクサヤと、そして少しの隣人とともに、静かでうるさい長野市のとかいなかな暮らしが始まった。
大豆島の西隣の神社…風間という集落に風間神社がある。ここは、全国の風間氏の発祥の地とされている。
因みに長野市南部には夏目氏の発祥の地もある。




