白い町の一時間 第6話
18時。
雪は朝から一度も止んでいなかった。
十日町市中心部、国道117号沿い。
除雪されたはずの車道も、すでに再び白く覆われ、路肩には人の背丈を超える雪壁が続いている。街灯の光が雪粒に乱反射し、あたりは昼とも夜ともつかない淡い明るさに包まれていた。
その雪の向こうに、赤い提灯が揺れている。
――焼き鳥。
ホテルの真正面にある小さな店だった。
引き戸を開けると、炭火の匂いと湯気と人の気配が一気に押し寄せる。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声。
だが店内は満席ではない。災害下の夜らしく、作業服姿の客が数人、無言で食事をかき込んでいるだけだ。
三人はカウンターに並んで座った。
濡れた防寒着から湯気が立つ。
戸隠はメニューも見ず、女将に言った。
「とりあえず、焼き鳥盛り合わせ三人前。あとビール三つ」
島見が目を丸くする。
「えっ、飲むんですか?」
戸隠はニヤリと笑った。
「今日は特別だ」
胸ポケットからスマホを取り出し、画面を見せる。
「荒川局長と柏崎部長から“飲み代にしろ”って、俺の口座に2万円も振り込まれてた」
名立が吹き出した。
「え、マジですか」
「公金じゃないぞ。完全に個人送金だ。つまり――」
戸隠はビールのジョッキを受け取り、持ち上げた。
「合法的に、気兼ねなく飲める」
島見もつられて笑う。
「役所の人って、そういうことするんですね」
「現場慰労ってやつだな。表に出ないだけで」
ジョッキが三つ、軽く触れ合った。
「――お疲れ」
冷え切った体に、最初の一口が落ちていく。
島見が目を閉じた。
「……生き返る」
名立も深く息を吐く。
「今日、何回雪に埋まりかけたかわかりませんよ」
「二回だな」
戸隠は即答した。
「一回目は市役所裏。二回目は資材置き場」
「数えてたんですか」
「危険管理だ」
焼き鳥が運ばれてくる。
炭の匂い、湯気、脂の弾ける音。
島見は箸を取ったまま、ふと真顔になった。
「……でも、本当に止まるとは思いませんでした」
「何がだ?」
「除雪です。通信止めたら、すぐ全部止まっちゃって」
名立が頷く。
「雪国の作業って、ほぼ通信前提なんですね」
戸隠は串から肉を外しながら言う。
「目視と手信号でもできるが、効率が段違いだ。特に夜間と吹雪」
少し間。
「それに今日は災害モードだったからな。優先順位が全部変わる」
島見がぽつりと呟く。
「通信を止めたのに、怒られなかったですね」
戸隠は苦笑した。
「むしろ褒められたな」
「臨時割当なんて、教科書に載ってないですよ」
「載ってないから現場判断になる」
ジョッキを傾ける。
「法律は平時のためにある。非常時は、人が生きるために曲げる…そうでなければ人が死ぬ。」
名立が感心したように言う。
「柏崎部長、めちゃくちゃ強かったらしいですね」
「宮木課長、最後まで不機嫌みたいだったみたいだけど」
「あの人は職務に忠実なだけだ。無線免許の番人だからな」
戸隠は少しだけ真面目な顔になる。
「でも誰も間違ってない。優先順位が違うだけだ」
外で除雪車の重いエンジン音が通り過ぎた。
窓がわずかに震える。
三人とも、無意識に音の方向を見る。
島見が小さく言った。
「……動いてる」
「ああ」
「私たちが設定した周波数で」
戸隠は頷いた。
「通信が通れば、人は動ける」
名立が串をかじりながら笑う。
「電波監視官って、止める仕事だと思ってました」
「半分はそうだ」
「もう半分は?」
戸隠は少し考え、ビールを飲んだ。
「――つなぐ仕事だ」
店のテレビでは、音を絞ったニュースが流れていた。
画面の端にテロップ。
《十日町市の豪雪で孤立の集落 解消へ》
島見がそれを見て、静かに言う。
「今日一日で、世界が変わった感じがします」
「変わってないさ」
戸隠は淡々と言う。
「見えるようになっただけだ」
「何がです?」
「雪国の日常」
外では雪が降り続いている。
止まる気配はない。
名立がジョッキを空けた。
「……明日も出動ですよね」
「たぶんな」
「休みたいです」
「同感だ」
戸隠は笑った。
「だが災害は勤務表を見てくれない」
島見がくすっと笑う。
「名言っぽいけど全然ありがたくないです」
しばらく三人は無言で食べた。
疲労が胃に落ちていくような、静かな時間。
やがて戸隠がぽつりと言う。
「――今日は二人ともよくやった」
二人が顔を上げる。
「六時の送信、全部通った。あれで何人かは安心して眠れたはずだ」
島見の目が少し潤む。
「見えないから実感ないですけど」
「見えなくていい」
戸隠は穏やかに言う。
「見えたら、それはもう非常事態だ」
外の除雪車の音が遠ざかる。
代わりに、雪が降る音だけが残る。
戸隠は最後の一口を飲み干した。
「よし、二万円ある。まだ食うぞ」
名立が笑う。
「太っ腹ですね」
「俺の金じゃないからな」
島見が手を挙げた。
「じゃあ、つくね追加で!」
「皮も」
「レバーも」
女将が笑いながら注文を書き取る。
炭火が再び強くなる。
店の中だけが、雪の外界から切り離されたように暖かい。
窓の外では、白い闇の中を一台の除雪車がゆっくりと進んでいく。
その車内では、今も無線が静かに働いている。
人を埋めないために。
町を止めないために。
そして、誰かの生活をつなぐために。
十日町の夜は、長い。
だが、確実に前へ進んでいた。




