第4章 第21節:「蜉蝣(かげろう)」
私は、環との出会いを確かめるために、一年後の同じ日に同じルートを辿ってみた。
もしかすると、もう一度環に出会えるのではないかと儚い望みを抱いたのも、偽らざる心境だった。
初めて出会った北面の岩は、相変わらず寒々としたままだった。
環のいたアパートには、既に違う人が入っていた。
道の駅にも蕎麦屋にも、どこを捜しても環はいなかった。
私は、もう全てに対して現実感が消え失せ、自分自身さえ本当に存在しているのか自信が持てなくなっていたのだ。
しかし、智恵子の生家で一年前の芳名録を探し出して貰い、やっと見ることができた。
そして、とうとう、そこに環の書いた「結婚届」を見つけることができたのだった。
今までの出来事はやはり白日夢ではなかったのだ。
私は、人目も憚らず、芳名録を開いたまま、その場で嗚咽した。
恋人らしい二人連れが怪訝そうに見ていたが、私は憚ることなく涙が流れるに任せていた。
その時、芳名録に季節はずれの蜉蝣が一匹舞い下りて、そのまま環の署名の上で動かなくなった。
蜉蝣の成虫は口が退化して摂食ができず、子孫を残すための僅かな時間が与えられるだけなのを、私は思い出していた。
『子孫は無事残せたのだろうか…』
私は、この蜉蝣が無性に愛しく思え、環の署名したページを切り取って、その蜉蝣を大切に包んで持ち帰ったのだった。
(完)