第3章 第15節:「結婚届」
生家の中に入ると、杜氏や女中たちの部屋などがあり、奉公人を何人も使っていた当時の隆盛な様子が見て取れた。
智恵子の生家は当時かなり裕福だったのだろう。
智恵子を東京の女学校にまで行かせることなど、並大抵の資産家ではできなかったはずだ。
庭の池には錦鯉が悠然と泳いでいて、池に面した廊下に文机が置いてあった。
文机の上には芳名録とサインペンが置いてあり、入場者の署名と住所を書けるようになっていた。
芳名録を遡って見ると、結構全国からここを訪れているようだ。
『智恵子抄』を読んで感動した人たちが、智恵子を慕ってここまで来るのだろう。
私が順路に沿って行こうとすると、環は芳名録をじっと眺めたまま何事か考えていた。
しばらくして、環は意を決したようにサインペンを手に取り、怪訝そうに見つめる私の目の前で、躊躇せず「石城 環」と書いた。
そして住所欄に環の住所を書いてから、私の方に向き直ってこう告げた。
「これが私たちの結婚届です。智恵子が証人となって永遠に残りますね」
形式的なことを嫌う環が、あえて私のためにしてくれた最大の思いやりだった。
私は、「石城 環」と書かれた署名欄を身じろぎもせずに見つめていた。
しばらくして、達筆な環の字が涙で歪んできた時、環は優しく私の手を取って記念館へと誘ってくれた。