第2章 第9節:「蜂蜜」
自然歩道には、思いのほか人がいなかった。
ほとんどの登山者は、百名山に登ったという事実だけが重要なのであり、山そのものを楽しんでいるのではないのだろう。
山頂だけをひたすら最短コースで目指すので、サブルートなどには見向きもしないのだ。
全くこのような二人きりの状況を想定していなかったため、私は急に落ち着きを失ってしまった。
どうして良いのか分からず、環に好きなように歩いてもらい、私はその後を従いて行くことにした。
しばらく行くと遊歩道の橋の袂に平らな大きな岩あり、環はそこで「お茶にしませんか」と言った。
環は、岩の上にバスケットを置き、「早起しきて作ったんですよ」とはにかみながら開いた。
バスケットの中にはタータンチェックの赤い魔法瓶とともに、ラップでキャンディのように包んだおむすび、密閉容器の中には卵焼きやチーズを餃子の皮で包んで揚げたものなどが入っていた。
「お昼にはまだ早いので、熱い紅茶をどうぞ」
「ここまで来るとさすがに寒いですね。熱い飲み物は本当に生き返ります。今まではコンビニで買ったペットボトルなので、冷めたお茶しか飲ませんでした。冷たいお茶って本当にわびしいんですよ」
環はタータンチェックの魔法瓶を開け、紙コップを私に渡して紅茶を注いだ。
そのまま飲もうとする私を制して、
「これを入れてみませんか」と言って、円筒形の密閉容器を差し出した。
「それは何ですか?」
「レモンのスライスを蜂蜜に漬けたものです。疲れが取れてすごくいいんですよ」
環から容器を受け取った時、ベタベタしたものが私の手に付いてしまった。
「漏れてました!? ごめんなさい!」
そう言って、ウェットティッシュをあわてて探す環に、私は愛おしさを感じていた。
「あなたでも失敗することがあるんですね。何だかほっとしました。あなたも本当は普通の女の子なんだとわかって、すごくうれしいのです」
「私、本当に不器用なのです。そういう性格が行動に出てしまうのですね」
恥じらいながらティッシュを渡してくれた時、狂おしいまでの愛おしさから私は無性に環を抱きしめたくなった。
しかし、そうすることで、二人の距離を保っている心地よい緊張感が、無遠慮な馴れ合いに取って代わってしまうことが、私は堪えられなかったのだ。
私は一刻も早く環から離れるために、川べりに手を洗いに向かった。