第1章 第19節:「摂理」
女に返信したのは、それから三日経ってからだった。
私は、女に対して得体が知れない恐れを抱いていた。
しかし、何物をも超越した安らぎを与えてくれるこの女に、溺れてしまいそうな自分が私は怖かったのである。
女の安らぎに中毒して、いつかはこの女を世間の晒し者にしてしまうのは、目に見えていたのだ。
その憂いが女への思いと拮抗し、いつまでも結論を出すことができずにいた。
三日間考えあぐねて、世間への諂いが、ようやく女への思慕の念を押殺すことができたのだった。
やっとの思いでメールを発信すると、驚くことに間髪を入れずに返信があった。
「ずっと待っていました。連絡が今日になったのは、あなたにためらいがあるのですね。お話したいので、すぐに電話をください」
メールの最後には、女の携帯の番号が書いてあった。
長い間連絡がないので、断るものと予測して、このメールを下書きしていたのだろう。
私は、怖くてしばらく電話ができなかった。
全て見透かされていることへの恐怖とともに、せっかく押殺した女への思いが息を吹き返してしまうのではないかと思ったのだ。
それは、果てしなく続く苦悩の復活をも意味していたからだった。
「あなたを不幸にすることなどできません。これが、ためらいの理由です」
心を見透かされた私は、これ以上本心を悟られまいと平静を装い、抑揚を抑えた口調で電話した。
「不幸って何でしょう。不幸と幸せは表裏一体なのです。空腹のライオンの幸せは、餌となるシマウマの不幸がなければ生み出されません。そして、ライオンが満腹な間だけ、生き延びたシマウマたちの刹那の幸せを作り出しているのです。
このように幸せと不幸せが互いに絡み合って、この世の摂理が形成されているのです。ですから、絶対的な幸せや不幸せなどあり得ないのです」
打ちひしがれて無言のままの私に、女はさらに畳み掛けて来た。
「それに、私は不幸の末に死のうとしたことで、あなたと出会う幸せに巡り合えたのです」
女の言葉に、私の漠然とした幸せの概念が、音を立てて崩れ落ちていった。
私は再び放心し、虚脱感だけが心を支配していった。
全く応えられなくなった私に、女は「今すぐこちらに来てくださいませんか」と、子供を諭すように言った。
私は、力なく携帯をポケットに仕舞った。