雨ばかりの庭で、あなたと恋に落ちる
テンプレっぽいものを書いてみました。よろしくお願いします。
その日、私は城の中庭のガゼボでひさしから落ちる雨粒を眺めていた。
異母妹が友人たちと茶会を行うからと、城内にいるのを許されなかったのだ。
濃い緑に宝石のように水滴が輝き、湿度の上がったガゼボには花々の香りが一層濃く漂っている。
(意地悪をされるくらいなら、一人でいた方がましだもの。それに雨だから庭には誰も来ない。私だけの安心できる時間……)
俯いた私の頬に真っ黒な髪がかかる。
国王と正妃の間に生まれた子でありながら、黒髪と黒い瞳の私の姿は共に金髪碧眼の両親に全く似ていなかった。母である正妃は不貞を疑われ、心を病んで幼い私を残し命を絶ってしまった。
残された私は周囲にとっては優越感を満たすための恰好の獲物だ。私が避けても、執拗に追い回して攻撃してくる。
だからこそ、突然降り出した雨は私を守ってくれる鎧のようにさえ感じられていた。
「……雨は好き?」
「え……?」
突然声がかけられ、私は弾かれたように振り返った。
そこにいたのは銀色の髪からポタポタと雫を垂らした少年。少年はその紫の瞳に驚いた顔の私を映し、にっこり微笑んだ。
◇
あれから八年。
幼い少女だった私――デルフィナは十六歳になった。
王女として扱われることはなく、いつしか城からも追いやられた。下働きから食事を分けてもらい、メイドが捨てた古い服を拾って着ている。下働きたちよりも粗末な身なりをした私の棲家は庭師用に作られた小屋。
そして今日もまた、あの中庭のガゼボで屋根から落ちる雨粒を眺めていた。
「ごめんよ。花が見頃だったのに、雨を降らせてしまって」
「いいのよ。雨が降らないと、この子たちも干からびてしまうでしょう?」
「……うん、ありがとう」
私の隣で同じように空から落ちる雨を眺めるのは、あの日突然現れた少年――今は立派な青年だが――ロージスだ。あの日以来、彼の父の登城に同行しては私の元へ来てくれるようになった。
ロージス・バイロン。たぐいまれなる外交センスから国内では圧倒的な影響力を持つバイロン侯爵の一人息子。銀色の長い髪に深い紫の瞳が織りなす美しい外見と穏やかな人柄、そして彼の父に負けずとも劣らない優秀さで男女問わず人気を集めている。
そして「亡き正妃の不義の子」として忌避されている私と普通に接してくれる、ただ一人。
「あの日もここでデルフィナと一緒に雨宿りしたよね」
「そうね。ちょうど今日みたいに彼女のお茶会があった日ね」
なんとロージスは最強の「雨男」だったのだ。ロージスが城に来る日はいつも雨。室内にいればその間は天気が持つが、外に出ると効果覿面だ。すぐに太陽は顔を隠し、雨が降り出してしまう。
「でも今日も花を見に来たんじゃなくて、お茶会を抜け出しただけよね」
「……今日のデルフィナは意地悪だな」
げっそりとしたロージスの様子に、少し言い過ぎたことを悟る。ロージスがこのお茶会を苦手にしていることは知っていた。
(本当は会えてうれしいのよ。でもそんなこと言えない。だってあなたは――)
サァァ……と音を立てて降る雨がわずかに激しくなった気がした。
「ごめんなさい、ちょっと意地悪してみたの」
「だろうと思った。はぁ……。このままここにいられればいいのに」
長いため息をついたロージスに、私は苦笑いを浮かべた。
お茶会の主催者は私の異母妹レナ。
国王である父によく似た青い瞳と、美しい第二王妃に似た豊かなブロンド。無邪気な性格でたくさんの友人に囲まれ、慈善活動も欠かさない。心優しい彼女は、紛れもなくこの国の「王女」だ。
――だけどそれは「私以外」に見せる顔。
穏やかな時間は長く続かなかった。ガゼボの静寂は甘ったるい声によって破られた。
「――あ、ロージス様! ここにいらっしゃったのねぇ」
レナだ。少し離れた渡り廊下からでも、トレードマークの大きなリボン付きカチューシャで彼女とわかる。レナはこちらに向かって、ぶんぶんと子どものように手を振っていた。
ぞろぞろと傘を持つ侍女を引き連れて、こちらに向かってくるレナは真っ白なドレス姿。泥跳ねが気になるのか、しきりに足元を気にしている。侍女たちもレナの先に立ち、歩みに合わせて慌ただしく足元に布を敷いている。
レナの歩みは遅い。彼女がガゼボにたどり着く前に、私は早くここを去らなければならない。さもなくば――
「ロージス、私行くわね……」
「まあ! またあなたなの、デルフィナ姉様!」
私の判断が少しだけ遅かったようだ。
まだ距離があるにも関わらず、私が立ち去ろうとしているのに気づいたのだろう。レナの甲高い声が私を呼び留めた。
「ロージス様に近づかないでちょうだいと何度言ったらわかってくれるの?」
離れていてもレナの勝ち誇ったような笑みがわかる。
私はグッと唇を噛み、その次に聞こえるであろう言葉に備えた。
「何度も言うけれど、ロージス様は私の婚約者なの。正統な王女じゃない姉様が気安く話せる相手じゃないのよ」
「レナ殿下! デルフィナは私が――」
「ごめんなさい、ロージス!」
「デルフィナ!」
私は耐え切れず、雨の中に駆け出した。足元に泥が跳ねても、元からボロボロの私が汚れた所で大した違いはない。私を呼び留めようとするロージスの声を振り切って、私は必死で走った。
あの日、私とロージスが初めて出会った茶会の日、レナはロージスを一目で気に入ったらしい。
父に何度も頼み、時には甘えたり泣きわめいたりしながら、「王命」という形でようやく彼の婚約者の座を手に入れた。
「実質、レナしか世継ぎがいない王家ですもの。次期女王となるレナと結婚するロージスは、将来の王配ね。優しい彼のことだから、幼馴染の私と仲良くしてくれているだけ。何も期待したらいけないのよ、デルフィナ」
粗末な小屋に逃げ込んだ私は息を切らしながら自分に言い聞かせた。
黒い髪からはポタポタと雨の雫が垂れ、足元に小さな水たまりを作り、私の涙もそこに吸い込まれていった。
雨は上がり、良く晴れた日の事。
私は突然小屋を訪れた兵に囲まれ城に連れて行かれた。久しぶりの城に入ると、慌ただしく集まってきた侍女たちに湯浴みや着替えを済ませられ、謁見の間に通された。
謁見の間――つまり国王が私に会おうとしているということだ。
(まさかお父様が私を呼び出すなんて思わなかったわ……。とうとう城の庭さえも出されるのかと思ったけど、身支度を整えさせられた以上その可能性は低くなったわね)
城に招き入れられた理由がわからず戸惑っていると、ようやく国王が現れた。
久しぶりに見る父の姿には老いが感じられ、私の知る父の姿とはかけ離れたものだった。
「お久しゅうございます、国王陛下」
私が形式だけの挨拶をしたものの、国王はそれには返事をしなかった。
国王は難しい顔をしたままおもむろに口を開く。
「……デルフィナ、簡潔に伝えよう。お前は隣国に嫁いでもらうことになった」
「え……ど、どういうことですか」
耳を疑う言葉に、私は思わず聞き返していた。
それすらも不快だったのだろう。父は顔をしかめ、あからさまに不機嫌な声で答える。
「言ったとおりだ。お前を隣国に嫁として渡すことになった。お前の身一つで国を助けられるんだ、ようやく役に立ててうれしいだろう」
(国を助ける? 役に立つ? 意味は解らないけど、きっと何かの政略なのね……もう、覆せない国同士の約束なんだわ)
私は不義の子というだけで政略の道具にされる。その一方で、両親に似たレナは自分の好きな人と結ばれようとしている。
(こんなの理不尽すぎるわ……)
だが私には何も反論する権利はない。口を挟むことなど、絶対に許さないという空気が流れている。
諦めた私が項垂れると、それを父は承諾と捉えたらしい。
「一ヵ月後に迎えに来るという。それまで少しは立ち居振る舞いを学んでおくんだな」
話しは終わったとばかりに立ち上がり、謁見の間を去る間際、父が一瞬足を止めた。
「レナが生まれる前に体調を崩して以来、私は薬が欠かせない生活だ。おまえは私が元気なうちに、その身を生かしてもらった恩返しくらいするんだな」
最後にそう言い残し、父の姿は城の奥へと消えた。
「ああ、あの姉姫様か。よかったんじゃないか、一応『王女』として扱ってもらえるだろうし」
「隣国の噂を知らないのかい。金持ちだし、国としては立派なもんだけど、王様は後宮を作るほどの女好きだというじゃないか。一時の慰み者になるだけさ、かわいそうに」
炊事場近くの井戸で下働きたちが談笑していた。
私が隣国に嫁ぐという話はあっという間に広がった。
もちろんレナの耳にもその話は伝わり、
「かわいそうなお姉様。でも、あなたにはぴったりの場所じゃない? 不義の子であるお姉様が王女として扱われて、亡き正妃様も草葉の陰できっとお喜びになっているわよ」
そんな嫌味をわざわざ言いに来たりした。
(理不尽だけれど、もう私にはこの結婚から逃れる術はないのね……)
絶望、諦め……。私の居場所はもうどこにもない。
(もう隣国に行くしかないのね。一ヵ月なんてあっという間ね。せめてロージスに別れを告げられたらよかった……)
でも本当に告げたいのは「別れ」なんかじゃない。
私の足元にポタリと雫が落ち、土に丸い染みを作った。
「わっ、雨だ」
「いけねぇ、早く洗濯を中に入れないと!」
下働きたちがわっと騒ぎ出す。
だけど私はその場から動けずにいた。はじめはぽつぽつと数粒落ちて来るだけだった雨は、やがてサァァ……と音を立てて降り出した。
「……デルフィナ」
雨音に混ざり、私の名を呼ぶ声が聞こえた。
それは今一番会いたくて、でも会いたくない人物のもの。
「ロージス……」
急いで来たのだろう。息を切らしたロージスは傘もささず、マントを羽織った姿だ。
彼の紫色の瞳が揺れていた。
「どうしたの? 今日はお茶会はなかったはずよ」
「デルフィナ、僕と逃げよう」
わざと明るい声を出した私は、ロージスの言葉にピタリと固まった。
「え、な、何……急に? 冗談はやめてよ」
「君が隣国に嫁ぐと聞いた」
もちろんレナの婚約者でもあるロージスの元にも、遅かれ早かれその話が伝わると思っていた。
意味を理解できずに私が固まっているとロージスは一歩踏み出す。
「ずっと好きだったんだ」
「え……?」
戸惑う私の目に飛び込んできたのは、真剣な眼差しのロージスだ。絹糸のような髪はすっかり濡れ、ぽたぽたと雫が落ちている。
「初めてあったあの日から、君とならうんざりする雨の中でも幸せな気持ちになれた」
いつの間にかロージスが私の手を取っていた。熱い手だ。
「僕が一番大切なのは君だ。王命を破棄できないか、それが無理なら君を我が家の養子に出来ないかとずっと掛け合っていたけれどもう時間がない。僕は君とずっと一緒にいたいんだ」
息が止まる。
今、ロージスの瞳に映っているのは私だけ。
もし、今ここでロージスの腕の中に飛び込んでしまえたら――。
「止めて!」
私は思い切り手を振り払った。私の手に移ったロージスの熱を雨粒が急速に奪っていく。
「私はどこの誰の子とも知れない人間なの。王配になろうとしているあなたにはふさわしくないのよ――」
「デルフィナ!」
その後の記憶は曖昧だ。気がつけばいつもの小屋の中にいた私はぶるりと震えながら、冷え切った自分の身体を強く抱きしめた。
「……このまま、全部なかったことになればいいのに」
私の存在も、ロージスへの思いも――私にまつわること全部が雨に流れて消えてしまえばいい。
けれどもう雨は降っていなかった。そしてきっと、私がこの庭で雨に打たれることはもうないだろう。
「……ロージス。さようなら」
ぽつりとつぶやいた別れの言葉は湿った空気の中に消えていった。
思っていたよりも一ヵ月が過ぎるのは早かった。
城でそれなりの手入れを受けた私は、なんとか「王女」として見られるようになっていた。この日私はいつもよりも入念に肌を磨かれ、艶のあるアイボリーのドレスに流れるような黒髪が良く映えている。
(なぜなら、今日は隣国の使者が私を迎えに来る日だから……)
表向きは「王女の輿入れ」である。
父をはじめレナや、レナの母である第二王妃も客人を迎える用意を整え、エントランスホールで使者の到着を待っていた。
「結納金は先にもらっていたが、あの国では輿入れの時にもたくさんの宝物を置いていく習わしらしい。他国では城が一つ建てられる程だったそうだ」
「まぁ、それなら新しいティアラをレナに誂えられるわね」
父と第二王妃は金の話ばかりだ。
(つまりそういうことだったのね……)
うすうす気づいてはいたものの、私はどうやら豊かな隣国に「売られた」ようなものだった。
レナも第二王妃も豪奢な装いが好みだ。特に栄えた産業のない我が国の財政状況で、二人の望みを叶え続けるのは難しいはずだ。
厄介払いと同時に金が手に入るのだから、輿入れの話もきっと二つ返事で承諾したのだろう。
さらに第二王妃はまるで私に聞かせるかのように声を高めた。
「バイロン侯爵も爵位をロージス様に譲って、海向こうの国に隠居なさったわ。私たちもそれを見習って、早めにレナに即位してもらえばのんびり過ごせるかしら」
「うむ。あれこれ言ってはいたが、ロージスも爵位を返上するつもりらしい。王配として頑張ってもらわねば」
「そうよ、お父様お母様。国の事は任せて、ゆっくり旅行にでも出かけたらいいわよ」
仲睦まじい親子の談笑が聞こえて来る。
ロージスの両親は爵位をロージスに譲り、海向こうの国に生活の場を移したらしい。穏やかな気候で過ごしやすい国なので、余生を過ごすにはぴったりだろう。
(ロージスもきっともう王配として生きる準備は出来ているのね。でも、最後にもう一度会いたかった……)
あの雨の中、ロージスとはじめて会った日のことを思い出し胸が締め付けられる。
(私もきっと、あの時からずっと……)
ぎゅっと唇を噛んで堪えていると、バタバタと慌てた様子の大臣がホールへやって来た。
父の元へ駆け寄った大臣が何か報告をすると、父の表情が変わる。
「なに? 迎えの馬車が雨で足止めされているだと?」
「はっ。ぬかるみに車輪を取られてしまい、抜け出すのに時間がかかりそうだと」
大臣が告げたのは私を迎えに来るはずの使者が遅れるという内容だった。
「ええっ! ようやくこの姿を見なくて済むようになると思ったのに!」
「はぁ……。全く、最後まで王家にしがみつくなんて悪運の強い子ね」
レナは吐き捨てるように言った。第二王妃もあからさまに迷惑そうな顔をしている。
だが大臣が告げた次の言葉に私は耳を疑った。
「それともう一件、ロージス様がお目通りしたいと――」
「伝達ありがとうございます。ですが、もうロージス・バイロンはここに」
だがその人物はすでにホールにたどり着いていた。周りで護衛が困惑しているところを見ると、だいぶ強引に通って来たのだろう。
「まぁっ、ロージス様! 会いに来てくださったのね!」
真っ先に反応したのはレナだった。大きな頭のリボンを揺らしながら駆け寄ろうとするが、ロージスはさっと身軽にかわした。そして私の前に跪いたのだ。
「ロージス……っ?」
「遅くなってすまない。証拠を探すのに少し手間取ってしまってね」
そしておもむろに立ち上がった彼は、ある人物を呼んだ。
「ガードナー殿、どうぞお入りください」
「ガードナー?」
「ま、まさか……」
その名に反応を示したのは父と第二王妃だった。
ガードナーと呼ばれたのはすでに老年に差し掛かった白髪の男性だった。不安げに目を泳がせ、真っ直ぐ顔を上げようとはしない。
老人がようやく自分の元へ着くと、ロージスは父に向き直り頭を下げた。
「陛下、今少しデルフィナ姫の出立をお待ちください。大事なお話がございます」
「だ、だめよ! デルフィナはすぐに出ないといけないの」
焦った声を上げたのは第二王妃だ。
レナも私も何が起こっているのか全く分からず、ただ事の成り行きを見守ることしかできない。
「迎えはまだ来ないと聞きましたが。もしや、私や彼が話すと何かまずい事でも?」
「ま、まずい事など――」
第二王妃に問いかけるロージスは挑戦的だ。第二王妃もなぜか動揺し、声が上ずっていた。
その時だ、突然父が声を上げた。
「思い出したぞ! お前は昔ここにいた医者ではないか! 突然姿を消して、今まで何をしておった?!」
父は老人を指して叫んだ。後に聞いたことには、私が生まれるずっと前から彼はこの城で医者として勤めていたらしい。
「た、大変申し訳ございませんでした!」
「まったくだ! あの後レナが生まれるというのに、また体調を崩してはいかんと気を揉んでいたのだぞ!」
ガバッと頭を下げた元医者に、父は怒りをぶつける。
それを止めたのはロージスだった。
「そうお責めにならないでください、陛下。彼はレナ殿下の秘密を知ってしまったせいで、ここには居られなくなったのです」
思わせぶりなロージスの言葉に父が反応する。
「レナの秘密だと?」
「な、何を言っているの? この子は確かに陛下の子よ!」
「おや? まだ誰もレナ殿下の出自について、疑っている者はおりませんが?」
「――っ!」
不敵な笑みのロージスに、第二王妃は言葉を詰まらせた。その隙を狙ったようにロージスが元医者に声をかけた。
「さあ、ガードナー先生お願いします。先生や、あなたの家族の身は保証いたしますので」
「あ、は、はい……」
(『レナの秘密』って、いったい何のこと? ロージスはいったい何を考えて……)
そこにいるすべての人間の視線が集まっているせいか、元医者の顔色は悪い。しかし震える声が聞こえ始めた。
「へ、陛下……。恐れ多くも申し上げます。そこにいらっしゃるデルフィナ殿下がお生まれになった直後、陛下は高熱の病に倒れられたことを覚えていらっしゃいますでしょうか」
「ああ、覚えているとも。それもこれも取り上げられた赤ん坊が私の子ではなかったという衝撃が大きかったせいだがな!」
父は私に冷たい眼差しを向けながら元医者の問いに答えた。私が耐え切れず目を伏せると、そっと肩に温かな手が添えられた。
「ロージス?」
「大丈夫。僕は君の味方だ」
きゅっとロージスの手に力が込められる。見上げたロージスの瞳は力強い光を宿していた。私にも前を見るよう伝えてくれているように――。
(そうね……きっといつもの私なら雨の中に逃げ出している。でも今はしっかりと前が見えるわ……)
今の私に何も視界を遮るものはない。横にはロージスがいてくれる。
私もロージスと同じように前を向いた。
「実は一つ、陛下にお伝えできていなかった事実がございます」
「――あなた、今すぐ話をやめなさいっ! どうなるかわかっているの!」
話を続けようとした元医者を第二王妃の金切り声が遮る。しかし元医者の声は二度と揺らぐことはなかった。まっすぐ父を見据え、静かに告げた。
「陛下はお体こそ回復されたものの、残念ながら子を成す能力は失われておりました」
「な……っ」
その言葉に父が絶句する。
「申し訳ございませんでした。デルフィナ様の件も数代前の王家に黒髪黒目の方がいらっしゃったとお伝えすべきでしたが、第二王妃様に秘密にするよう命じられ……。私も家族を守りたい一心だったのです」
シン……と静まり返ったホールは、しばらく誰もが魔法にかかったように口を開けなかった。
私も混乱した頭で、必死に状況を理解しようと試みていた。
(数代前に私と同じ色を持つ王族がいた? それに私が生まれた後、お父様は子を成す能力を失っていたということ? それってつまり……)
ちょうど私の頭が動き始めた頃、父の震える声がホールに響く。
「それならレナは……。レナは誰の子なのだ……」
「な、何よ! 私を疑っているというの? 嘘よ、全部こいつの嘘に決まっているわ!」
青い顔をした父と対照的に第二王妃の顔は真っ赤に染まっていた。
「そういえば出入りの宝石商が同じようなブロンドだったな」
「お抱えの画家ともしばらく二人で部屋に籠っていたわね」
使用人たちの間からポツポツと上がった声は、やがて大きなざわめきに変わって行った。
あちらこちらから上がる疑いの声に耐えられなくなったのはレナだった。
「――黙りなさい!」
甲高い声が響く。
「何を馬鹿なことを! 王女は私よ、デルフィナ姉様に王家の血なんか流れていないわよ!」
レナは私を指さして叫んだ。憎悪に満ちた目が私を睨みつける。
その時どこからか声が上がる。
「その発言、いったいどういう意味ですかな?」
「そのままの意味よ! あいつは王家の血を引かないそこら辺の娘と同じよ! 王女なんかじゃないわ!」
「――レナ! 黙るんだ!」
レナを止めたのはそれまで固まっていた父の声だ。突然慌て始めた父の様子に辺りを見回すと、見慣れない装束の男性が立っていた。あたりには同じような服を身に纏った従者たちが付き従っており、一目で高貴な身分であることがわかる。
男性はゆっくりと歩みを進めると、国王の前に進み出た。
「雨も止み、ようやく到着できたと思えば……。あなた方は我々の王に身分を偽った娘を嫁がせようとしていたのですね」
私はそこでようやく気付いた。この男性たちは私を迎えに来た隣国の使いだったのだ。
「我が国に素性のわからぬ娘を迎え入れることはできない。今回の話はなかったことにしてもらいます」
「そ、そんな!」
「ああ、それとこちらが支払った結納金はそのままお返しください。王に報告の後、改めて使いを出すのでそのおつもりで」
「なんということだ……」
父はがっくりと膝をついた。その隣では第二王妃が何やら喚き、レナは侍女に抑えられながら顔を真っ赤にして何か叫んでいる。
思わず一歩踏み出そうとした私の肩をグッと抑える人がいた。ロージスだ。
「……デルフィナ、行こう。君の居場所はここじゃない」
「え、ええ……」
私はロージスに促されるまま三人に背を向け、その後二度とこの城に足を踏み入れることはなかった。
なぜなら――
半年後、私は小さなチャペルの庭に降る雨を眺めていた。
「ごめんよ。こんな日もまた雨を降らせてしまって」
隣にいるロージスが申し訳なさそうに眉を下げた。あの日城で見せた凛々しい彼とは違う、いつも通りの優しいロージスだ。
私はロージスと共に、彼の両親が移り住んだ海向こうの国に生活の場を移した。
外交手腕に長けたバイロン元侯爵が手を回してくれたおかげで、私は王家とは縁のないただの「デルフィナ」として生きる道を手に入れた。
ちなみにレナの出生の秘密が明らかになり王家は大揉めに揉めているらしい。隣国からの結納金もすでに使い込んでいたせいで返還要請にも応じられず、いずれ国ごと乗っ取られるのではないかという噂だ。
レナとの婚約を破棄したロージスは、今はこの国の官僚として生き生きと働いている。ただしロージスの雨男っぷりはいまだ健在だ。職場でもできるだけ室内で過ごすよう言われているくらいには……。
私は視線を外に移した。庭では緑が気持ちよさそうに雨を浴びている。
「いいのよ」
私は純白のドレスについた水滴を払いながら、ロージスの紫の瞳を見つめた。
「私、雨が好きなの。あなたがいないと干からびてしまうわ」
「デルフィナ……」
「愛しているわ、ロージス。ずっとそう伝えたかったの」
ようやく口にした思いは、もう雨に消えてしまうことはなかった。
雨の中で出会った私たちは、雨の中で永遠の愛を誓った。