序章:深い森で密かに起こった事件。
【毎日昼の12時と夕方の18時の2回更新します】
死がちらつき始めていた。
頭上にあるはずの真夏の強烈な日差しがまったく届かぬ深い森の中で、霧島はその長身を青々とした下草の上に横たえていた。
辺りは濃厚なクリームスープのような白くて深い霧で覆われていた。
葉も枝も石もそして軽装の登山服を着た霧島の顔や服もしっとりとしめらしている。
霧島と言うこの男、年の頃は四十を軽く超えているが皺ひとつないよく日に焼けた精悍な顔つきと、極限まで鍛えられた格闘家のような肉体のお陰でふだんは十歳以上若く感じられる。
だが今は身を起こすのもままならなかった。
全身がだるい。
あまりにもおびただしい出血で気力も体力も生命を維持するのに限界に達しようとしていたのだ。
それは顔から脛まで身体中裂けた切り傷が原因だった。
肉を削がれところどころ白い骨が露出している。常人なら到底生きてはいられない状態だ。
遠くで音がした。草むらをかき分けるかすかな音だ。
「……来たな」
霧島はよろよろと立ち上がった。
そして身構えた。武器はない。素手だ。
やがて茂みの中から灰色の獣が二匹現れた。
それは全体的にはイヌに似ていたが前足が長く後ろ足で歩いていた。
鼻はそれほど長くなくむき出した口には長くするどい牙があった。
体長は一メートルほどでその顔つきは凶暴なサルに似ていた。
手には長い爪を持っている。
それはこの地にいるはずのない獣だった。いや、この地上にいてはならない生物だった。
辺りに響くのはのどの奥の唸り声だ。
それは獲物を見つけた飢えた肉食獣の低い唸りだった。
……その距離十メートル。
がうッ! と短い咆哮がした。
先頭の一匹がいきなり襲ってきたのだ。
間合いもなにもあったものではないが驚いたことに獣はたったひと飛びで軽々と霧島に肉薄した。
次の瞬間、先頭の獣がぎゃうんッ、と悲鳴を上げた。
全身でけいれんを起こしたかと思うとすぐさま動かなくなる。
霧島の手によって太い幹にすさまじい衝撃で叩きつけられて頭蓋を割られたのだ。
「くッ……」
霧島は声を漏らした。
脛にもう一匹が噛みついていた。
化繊の生地を食い破り足の肉に深々と牙を突き刺している。
ふだんの霧島ならこんな醜態はあり得ない。
ごりッ……、っと、にぶい音がして獣が足からするりと落ちた。
とっさに伸ばした二本の指先で頸骨を砕いたのだ。
獣は一瞬で絶息していた。
人間を遙かに上回る身体能力を持つこの獣たちだが相手が悪すぎた。
だが霧島は片膝を落とした。
やはり限界なのだろう、呼吸が荒く視界も定まらない。
「……さすがだな霧島兄さん。まだ余力が残っているとはな」
ふいに声がした。見るとグレーの作業服姿の男が立っていた。
年齢は三十歳ほどの細い男だ。
髪はていねいになでつけた短髪で胸ポケットにはボールペン、足下は黒い革製の安全靴のその姿は、工場の点検を行うライン責任者にしか見えない。
まったくもって場違いな姿である。
「逃げられやしないさ。……もし方法があるとしたら、たったひとつだ」
「……お前を殺すしかない、か」
霧島の言葉に作業服姿の男はうれしそうに頷いた。
笑顔のこの男はこの場所の地理にとても明るかった。
だから先回りして待ち伏せしていたのだ。
「……影郎」
のどの奥でうなりながら霧島は影郎と呼んだその作業服の男と対峙した。
「悪いけど死んでもらうよ。正体を知られてしまったのだからね」
「影郎……我らの決まりを忘れたのか?」
「覚えてるさ。だから十年ぶりの再会にも関わらずこうやって相手してやってるだろう?」
身構える霧島。
だが視界は暗くなってきた。もはや立っているので精一杯だった。
「つらいだろう?」
くッ! 霧島は地を蹴った。
五メートルはある距離を一瞬で縮め影郎の首をもぎ取ろうとしたのだ。
が、……すんでのとこで影郎の姿がふっとかき消えた。
「おいおい、そんな身体でどうやって挑もうとするんだ?」
気がつくと遙か頭上の枝に影郎の姿があった。
幹に手をやり足下の霧島を見下ろしている。
「……それに力任せのお前がどうやって俺に勝てるんだ?」
高らかな嘲笑が響いた。
悔しいがそれは事実だった。
霧島の武器は豪腕だ。腕力だけの話であれば霧島は影郎ごときの相手ではない。
だが、影郎の能力はそれではない。
神業としか形容できない異常な投擲能力……。それが影郎の武器だった。
霧島の全身を切り刻んだ裂傷はさっきの獣がつけたものではない。
すべて影郎の仕業だった。
霧島はとっさに影郎が乗る幹に両腕を回し抱きかかえた。
そして、むんっ、と唸る。すると幹が瞬時に砕けた。
グシャ、と言う音とともに直径一メートルはある大木の幹が圧壊し破裂した。
木っ端が雨のように辺りに降り注いだ。
だが影郎は霧島の意図をすでに読んでいた。
支えを失った大木の枝からふわりと宙に舞いつま先から着地した。
質量をまったく感じさせない蝶のような身の軽さだった。
そして足下の落ち葉を両手ですくい上げるとにやりと笑った。
「……さらばだ。霧島兄ちゃん!」
落ち葉がひゅッ、ひゅッと空気を切り裂きするどく飛んできた。
霧島は振り向きもせずに走り木の陰にとっさに身を隠す。
何枚かがたたたとリズミカルな音をさせ幹に深々と突き刺さる。まるでナイフだ。
隙を見て再び走り出した霧島だったが、ぶんッ、と音が追い越して前方の茂みがちぎれ飛んだ。
クマザサの葉だった。クマザサが斧のような破壊力を持って飛んできたのだ。
霧島は飛んだ。
その向こうの崖の下に光る湖面があることを知っていた。
霧島は影郎以上にこの場所を熟知していたのだ。
宙を舞う霧島の身体に空中で向きを変えた葉たちが襲いかかる。
数枚が背に刺さり、数枚が手の指を切り落とした。
そしてとどめともいえる一枚が頸動脈を切断した。
噴水のような血潮をまき散らしそして激しい水飛沫を上げた霧島はその巨体を湖に沈めた。
湖面をにらみ続けた影郎が立ち去ったのは波紋がすっかり消えてから十分以上後のことだった。
■
夏の朝は早い。
東の彼方が赤紫色に焼けている。
冷めた空気がすがすがしい見事な朝焼けだ。
真っ白に煙る森の中を歩くハイキング姿の女性が二人。山上絵里香と水嶋若葉である。
視界が悪いのは朝霧だからなのであるが、ここはいつでも一日中霧に閉ざされた場所であった。
二人はつい先日初めて実際に会った。
もともとは『異形たちの森』と言うどこの誰かが運営しているのか不明なネットのブログに、毎晩のように書き込みをしていた仲であった。
新幹線の駅で互いに実物を初めて見た二人は、始めは互いに思い描いていた相手のイメージと実際に会った印象のギャップにとまどいを感じていたがすぐにうち解けた。
二人には共通する話題がいっぱいあったからだ。
絵里香は二十四歳のOL。若葉は二十一歳の女子大生だった。
「ねえ、エリーさん。朝ご飯の時間までには戻ろうよ。管理人さんに悪いから」
エリーと呼ばれたのは背の高い絵里香の方である。
長い髪をきれいにまとめて頭にはキャップをかぶっている。
防寒用に薄手のジャケットをはおり下はジーンズ姿である。
ふだんは仕事柄濃い目の化粧を怠らないが今はノーメークで足取りも軽やかである。
エリーとは『異形たちの森』での絵里香のハンドルネームだった。
「そうだね。善意で泊めてくれた恩をあだで返しちゃ女がすたるしね」
絵里香は足を止めて遅れがちな若葉を振り返る。
そうは言ったものの別に意にとめた顔はしてない。
一応は返答してみたと言う雰囲気だ。
エリーさんと呼んだもう一方の若葉はリーフのハンドルネームを持つ。
エリーに比べ背が低くやや太めだが笑うとえくぼができるその顔は愛嬌に溢れている。
「おかしいな……。ちょっと風景が違うみたい」
「ここだったの?」
「うん。でも山道ってどこも似てるのよね」
山道にはときおり山が偶然作ったようなぽっかり開いた広場のような空間がある。
高い木が生えていなくて下草だけが茂っている空間である。
「霧が多くなってきたみたい。道に迷わないかな?」
「リーフちゃん意外と心配性なんだ」
「そうじゃないけど……うん、そうかも」
「万が一迷っても大亀池まで降りていけば平気じゃない」
「あ、そうだね。エリーさん、頭いい」
絵里香が無言になったので若葉は黙った。
「ねえ、聞こえない?」
「なにが?」
けけけ……、と、動物の声のような聞き慣れない鳴き声がかすかに聞こえてくる。
「鳥じゃないみたいね。やっぱり昨日見たあれなのかも」
「……天狗なの? でも天狗ってミイラしかないって話じゃない」
「ミイラなんて後でいいのよ。いるのかもしれないじゃない。あれがそうならば」
怖いよ……。
と呟いた若葉が絵里香の袖にしがみつく。
「大丈夫よ。もし危ない存在なんかだったら、ここに住んでる管理人さんたちが、すでに襲われているはずじゃない。
だからその辺は安心だと睨んでいたのよね」
管理人たちの生存で安全を確かめたと言う問題発言だが、エリーも別に本気でそう言っている訳じゃない。
自分たちの気休めのためだとリーフもわかっていた。
「そう言えば、そうね」
「ね、それにもし天狗だったら大発見じゃない。
……ううん、天狗じゃなくてもいいの。私たち有名になれるわよ」
「でも天狗ってあんなに小さいのかな。
エリーさんが撮影したやつは一メートルくらいしか身長がないんでしょ?」
「だからこの際天狗はどうでもいいんだって。だって人間型の未知の生物なのよ。わかるでしょ?」
「あ、UMAってこと?」
「そう、それよそれ!」
辺りは静かで先ほどの鳴き声は聞こえなくなっていた。
「……聞こえなくなっちゃったね」
「もうちょっと先まで行ってみようよ」
「時間、大丈夫かな?」
「平気よ。ちょっと遅れちゃったら謝ればいいんだから。
山奥に来て朝の散歩をするのは普通じゃない」
「そっかな」
「だって続きは明日アップします、って書き込みしちゃったんだから後へは引けないよ」
「そうだね。タツノコさんとか『風の民』さん、シンシアさんなんかの常連の書き込みもあったしね」
二人は先へと歩き出した。
『異形たちの森』に昨日絵里香たちは記事をアップしたのだ。
△ △
件名 天狗の撮影に成功?!
投稿者 エリー&リーフ
投稿日時 20××年7月×日 14:09
エリーとリーフは公約通り双主の里にやって来ました。
(もう知ってると思いますが、天狗と大きな亀と言う二つの主の伝説があるから双主の里と呼ばれてる場所です)
道の途中で車を停めてたり、入り口にはフェンスがあったりしてかなり大変です。
山に入ったら思いっきり道に迷いかけました。
でもね! そのかいあって大亀の背中と言われている池の島と天狗? の写真撮影に成功しました!
スマホからの写真だから拡大すると不鮮明です。
下にアップした2枚の写真がそれです!
そのあと偶然にも双主の里にやって来られて親切な管理人さんに宿泊させてもらうことができました!
泊まる部屋は管理棟にあるんですが、なかなか快適です!
明日はいよいよ双主の里に祭られてる天狗のミイラと亀の背中が本当に動くのかの写真をアップします!
もう眠いです。なんだかとっても眠いです(疲れたのかな? リーフさんはもうすっかりダウンしています)。
△ △
投稿された二枚の写真のうち一枚は大亀池の写真で霧に煙る湖面にぼやけた島が写っていた。
これはとくに興味を惹かれる写真ではない。どこにでもありそうな一枚だったからである。
だがもう一枚の方は違った。
森の中、深い霧に覆われた木々の幹に高速で移動する人間型の生き物らしきものが写っていたからだ。
写真は不鮮明で細い手足が黒いシルエットとして写っている。
見ようによっては枝などの誤認ともいえそうだがライブ感ある現地からの投稿だったので反響はすごかった。
『異形たちの森』とは主にUMAやUFO、オーパーツなどの話題を中心としたオカルト専門のブログである。
二人が話題とするUMAとは未確認生物のことでネッシーとか雪男とかツチノコとか正体がわからない謎の生物のことを指す。
絵里香も若葉もそれらの存在を熱心に信じていて一年前から互いに投稿を続けていてすっかり意気投合していたのだ。
□ □
「あれ? 道間違えたかな? あれ管理棟じゃない?」
先頭を歩く絵里香がふもとを指さした。
「あれ? 変だね。あれ管理棟だよ」
二人が見下ろす前方には二人が管理人の善意で宿泊させてくれた木造のロッジ風の管理棟が見えたのだ。
「おかしいね。まっすぐ登ってきたつもりだったんだけど……」
「この霧だから、エリーさん間違えて戻ったのよ」
「うーん。納得できないけど論より証拠か」
「でもちょうどいい時間じゃない?」
若葉が時計を指し示す。
それは昨夜管理人から告げられた朝食の時間だった。
「すみませーん。すみませーん。管理人さーん」
絵里香は大声で叫んだ。
だが返事は返ってこない。管理棟の中は明け方の冷気ですっかり冷え切っていた。
「事務室にも厨房にもいないよ。どうしちゃったんだろ」
「ホント?」
ロビーに戻ってきた若葉が絵里香に告げた。
「なにかあったのかしら?」
「なにかって?」
「わかんないよ。手分けして探そう!」
二人はそれぞれ管理棟の中を探索した。
管理棟はそれほど広くない。
一階が駐車場になっている木造の三階建てで部屋数は十もない。
「駐車場に管理人さんの車がないの。出かけたのかな?」
再び戻ったロビーで絵里香が若葉に告げた。
「エリーさん。なんか変かも……。私のリュックがないの」
「え?」
絵里香は若葉の案内で三階にあてがわれた若葉の部屋に向かった。
部屋は昨日双主の里に迷い込んだとき管理人が親切にも与えてくれた個室で、大きく作られた窓とふかふかのベッドとクローゼットやサイドテーブルなどが用意されたものだ。
ここは社員が出張してきたときに宿泊するための設備とのことで、テレビやネット回線や電話はないが最高の宿とも言えた。
なにしろ無料でいいとのことだったのだ。
若葉はクローゼットを開けた。
には空のハンガーが並びその他にはなにもない。
「私、ここにリュックを置いてたの。でもないの」
絵里香はうーんとうなった。絵里香の部屋もこの階にある。
「私の部屋に行ってみよ」
絵里香と若葉は廊下に出て突き当たりの部屋に向かう。
そこが絵里香が与えられた部屋だったからだ。
「変ね。私鍵かけなかったのに……」
ドアをがちゃがちゃさせた絵里香が不審顔で言った。
そしてポケットから鍵を取り出して解錠させる。
カチャリと音がしてドアはなんなく開いた。
「……確かに変ね。私のバッグもパンツもない」
若葉と約束した時間に起きられず寝坊した絵里香はベッドの上にリュックを放り出していたのだ。
ベッドの上には昨日着た下着とかを散乱させたまま部屋を出たはずなのにそこにはなにもなかった……。
「もしかして泥棒?」
若葉が泣きそうな顔で言う。
「ありえないわ。
こんな山奥で下着ドロなんてありえない。それに管理人さんもいないし……」
絵里香の頭はパニック寸前だった。
が、それよりも若葉がパニックになっていた。
顔は無表情なのに涙だけがぽろぽろと流れ落ちるままになっていた。
やばいよ!
絵里香は若葉を見て自我が崩壊するのを踏みとどまる。
年上の自分がしっかりしなきゃならないと自覚したのだ。
「ねえ、とにかく探しましょう。
管理人さんを見つけましょうよ。きっと大丈夫よ。管理人さんさえ見つかればきっと説明がつくわ」
二人は玄関やロビー、そして事務室がある二階に降りた。
「ねえ! ちょっと見て! もしかして島が動いたんじゃない?」
先頭を歩く絵里香が若葉に叫んだ。
偶然霧が晴れていた。
全体的にはまだ霞がかっていたが視界が急に開けていたのだ。
二人がベランダに出たとき足下に大亀の池が見えた。
大亀池はそれほど大きくない。
ほぼ円形のその池の周囲は一キロほどで歩けばたぶん二十分くらいだと思われた。
湖水は透き通っており丈の長い水草がたなびいているのが見える。
ときおりサカナが跳ねた波紋が広がるのがわかる。
「えー。そうかな、わかんないけど……」
「きっとそうよ。朝起きたとき、管理棟のベランダで撮った写真と比べてみてよ」
絵里香は今朝早くに撮影したスマホの写真を表示させた。
「うっそー! ホントだ!」
写真に写っている島は大亀の池の右端に写っていた。
だが今見える島はもっと手前、二人のほぼ正面にあったのである。
「この島って伝説では大きな亀の背中って話だったよね。
大昔に若者がお嫁さんを連れて逃げるときに助けてくれた亀なんだよね?」
若葉が言った。
絵里香は背中に悪寒が走るのがわかった。
「どう言うことよ。これ?」
「伝説はホントだったってこと?」
二人は見つめ合った。
「ね、エリーさん、池まで降りてみようよ。もしかしたら見間違いってこともあるし……」
若葉はそう言った。
だが絵里香はここで見た島がそうならば池まで降りても同じであるとわかっていたが、とにかく不安なので行動したかった。
「そうね。降りてみましょう」
二人は玄関を抜け階段を降りて池を目指した。
風がごう、と鳴り、霧がいくぶん晴れた。
「やっぱり変だよね。やっぱりあの島って亀の背中なのかな?」
池を見下ろす崖まで来たときだった。
写真よりも近くに見える島には大きく育った木々と古ぼけた鳥居が見えた。
島は直径が二十メートルほどで人の背丈くらいの高さがある。
その中央には祠らしき石の塊が見えた。あそこに大亀を祭った神社があるに違いない。
絵里香はその島を無言で凝視していた。
だがやがて気がついてスマホを取り出すと数枚撮影した。
「信じてもらえるかわからないけど、とにかく見たのは事実なんだから……」
絵里香はそういってスマホから『異形たちの森』にアクセスしようとした。
が……。
「あれ? 圏外だ」
スマホの画面には圏外の文字が表示されていた。
「圏外? 昨日は送信できたのに」
「うん。変ね」
「でもスマホの電波って天気とかそう言うのに影響があるって聞いたことあるよ」
「そうか、うん、私も聞いたことある……。しかたないね」
電波が圏外と言うことは通話だけじゃなくて、もちろんネットもメールも使えないことを意味するので解決策はまったくない。
「きゃ……!」
強い風が吹いて若葉が悲鳴をあげた。
若葉はスパッツを履いているが基本的にはミニスカートだ。
こんな山奥にめくれたスカートを見る誰かがいるはずもないが、つい反射的に叫んでしまった。
「ねえ、リーフちゃん。あれ、なんだろう?」
絵里香がふもとを指して言った。
突然の風に更に霧が晴れたのだ。湖畔に降りる一本道に段々になっている部分が露見していた。
「畑……かな?」
「行ってみようか? なにかわかるかもしれないし」
絵里香と若葉は先に進んだ。
なだらかな土の道を降りた。
「ねえ……! ちょっと!」
絵里香が立ち止まった。
「これ、なんだろう?」
足下に緑色の玉のような植物がびっしり群生していた。
大きさはミカン大。露にぬれて白い花を咲かせていた。
「サ、サボテン?」
「……みたいだね」
それはサボテンだった。
段々になっているすべての斜面全体を覆い尽くしていた。まるで花畑だ。
「きれいだね。持ち帰ろうか?」
若葉が尋ねた。
「うーん。
これって勝手に花が咲いたんじゃなくて、ひょっとして管理人さんがわざわざ植えたのかもしれないよ」
「そっか……」
サボテンに手をかけていた若葉が立ち上がる。
「でも……、もしかしたら管理人さんに言えば少しくらいもらえるかも」
「そうだね」
絵里香と若葉は、腰が低く人の良いあの管理人ならば、これだけあるのだから少しはくれるかもしれないと想像した。
さざ波が聞こえた。
湖畔が近いのだ。
ゆるやかな風に流された霧の固まりが去り、湖面が少しだけ見えた。
「あ……! あれ!」
若葉が叫んだ。
そして二人は絶句した。
大亀池の波打ち際の土の上になにかが打ち上げられていた。
それは……俯せに倒れた人間だった。
軽装の登山服姿の男性で、土に爪を立てて必死に陸にあがろうとしていたのがわかる。
「ど、どうしよう?」
地面に動かない人がいる。
そんなあり得ない状況の中で二人ができることなどたいしてない。歩み寄って声をかけるのがせいぜいだ。
だが絵里香と若葉は代わる代わる声をかけたのだが返事はなかった。
「……死んでいるのかな?」
絶望的な声で若葉が尋ねる。
絵里香はただ頷くだけだった。
医者でない二人も男が絶息しているのはわかった。
呼吸をしない身体、そして青ざめた顔からそれは確かだった。
もし、二人に少しでも医学的知識があれば彼が溺死したのではなく、ここで事切れたのがわかったに違いない。 死体は水を飲んでいない。
そして全身に深く刻まれた深い裂傷……。
出血多量が死因だとわかったはずだ。
だが、今この場所でそんな知識を持ち合わせていても何の解決策にはならなかった。
目の前に死体がある。
それだけが事実だった。
ふと我に返り、スマホに手を伸ばそうとした絵里香だったが、ここが圏外だったと言うことを思い出し立ち上がった。
「ど、どうするの?」
「……管理棟に戻りましょう。あそこなら電話くらいあるはず」
「そ、そうね」
そのときだった。
けけけ……。と、いきなり気持ち悪いたくさんの声が聞こえたのだ。
ひッ……。若葉が絵里香にしがみついた。
背後を振り返るがうっそうとした霧の中ではその声の位置も方角も定まらない。
けけけ……けけけ……けけけ……。
薄気味悪い笑い声は数を増やしていた。
「ひっ……! 天狗」
絵里香は思わず息を飲んだ。
いつのまにか絵里香の周りには身長一メートルに足らないいびつな小人が群れていた。
小人たちは尖った長い爪を持ち、灰色の毛むくじゃらで充血した目とするどい牙があった。
背には葉っぱのような形の鱗が背びれのように生えている。
「困ったお嬢さんたちだ。強すぎる好奇心は身の破滅を招くってことだ……」
絵里香は声に振り向いた。
「……か、管理人さん」
そこには小人たちを押しのけて背の高いグレーの作業服姿の見知った人物が立っていた。
そしてその顔はさも残念そうだった……。
よろしければなのですが、評価などしてくださると嬉しいです。
私の別作品「空から来たりて杖を振る」「その身にまとうは鬼子姫神」「こころのこりエンドレス」「沈黙のシスターとその戒律」もよろしくお願いいたします。




