婚約破棄された令嬢は、前世から美貌の神様に執着されています~生まれ変わったら、神様が国一の貴公子になっていました~
「すまない。シオン・クロレンス嬢。只今を以て、貴女との婚約を破棄させていただきたい」
目の前の男、バレル・リーガン伯爵が青ざめた顔でそう告げた。
その隣には、婚約破棄を宣言された彼女の妹である、マリエッタが座っている。彼女は芝居がかった動作で、バレル卿にしな垂れてみせた。
「ああ、お姉さま。本当に申し訳ございません。私たち、心から愛し合ってしまったのです」
そうか、そうか。とシオンは心の中で相槌を打つ。
この不貞の妹マリエッタが、シオンの婚約者を奪ったのはこれで3回目だ。怜悧な印象を与えやすいシオンとは相反した、可愛らしい顔立ち。豊かで鮮やかな金髪は緩くうねり、よく手入れされて艶やかだ。その下には、小柄ながらも出ることは出ている、豊満な体がドレスに包まれている。
彼女が本気を出せば、この国の男で落ちない者はいないだろう。マリエッタは絶世の美女なのだ。
「……そう」
シオンはそれだけ言うと、応接室の柔らかいソファからすくっと立ち上がり、その場を後にした。
この後の顛末は予想できる。熱しやすく飽きやすい、美しい妹マリエッタは、かの男を1週間以内に捨てるのだ。そして、何食わぬ顔で「おはようございます、お姉さま」と廊下で挨拶してくる。
――何という悪夢だろうか?
シオン・クロレンス子爵令嬢は今年19歳になる。
腰まであるストレートの黒髪に同じ色の瞳。マリエッタよりも少し高いくらいの身長で、顔立ちも可愛らしいというものではない。どちらかというと吊り上がった猫目のそれは、美人に振り分けられるだろう。
彼女には、前世の記憶があった。
それは、決して幸せなものではない。今世と同じ紫苑という名前の、普通のOLだった彼女。ある寂れた神社でお祈りしてしまったばかりに、厄介な神様に好かれてしまい――。
男神であった彼、「初雷」は、シオンに近づく男という男すべてを排除した。
すらりとしながらも、筋肉を纏った逞しい体躯。顔立ちは神にふさわしく完璧に左右対称で、美しい。雷を頂く名前からだろうか、髪色は迅雷を想像させる、襟足まで伸びる金髪で、同じ色の瞳。魔物を一刀両断すると言われる刀を帯刀し、平安時代の貴族が着るような、金色を基調とした狩衣を纏っている。
見た目は彼女の、好み中の好みだった彼だが、中身はクレイジーサイコパスであった。
「君は、消えかけていた私を救ってくれた唯一だ」として、死ぬまでシオンに付きまとったのである。
実体のない彼は、あらゆる手段でシオンに近づく男たちを脅した。枕元に立って別れろと毎晩囁いたり、運気を下げて事故に合わせたりなど色々だ。
最終的に、恐れをなした男たちは彼女の下から去っていった。そうして、彼女は孤独の身となっていく。
初雷は、シオンに深く執着し、愛を囁いたが、シオンがそれに応えることはなかった。なんせ、実体のない男だ。どうやって愛せというのだろう。
しかも、逆にシオンを不幸にしてくる神だ。彼女は憎々し気に、無理難題を初雷に言った。「生身で、まともで、財も地位も合って、私を幸せにしてくれる人じゃないと結婚できない」と。
やがてストレスからか、シオンは病に伏せた。
涙を流してシオンに寄り添う初雷は、死の床につく彼女にこう告げた。
「死ぬことで、私から逃げるなんて許さない。絶対に、君を私の伴侶にする」
最後まで狂ったストーカー野郎に付きまとわれたシオンの前世は、そこで終わった。まだ、28歳だった。
「だから、今度こそ幸せな結婚をしてみせるって思ってたのに……!」
ぐしゃりと、彼女の手に握られた号外が音を立てる。シオンは焦っていた。
記事の内容には、こう書かれている。
『勇者ハツライ、出征から僅か1ケ月で魔王を打ち倒し、王都へ凱旋!』
シオンはちらりと窓の外を見た。ひらひらと、色とりどりの紙吹雪が宙に舞っている。
世間は、勇者の凱旋パレードでにぎわい、浮立っているのだ。
そう。考えたくはないが、前世でシオンに付きまとっていたあの美しい神様は、この世界にも存在した。
最初は名前が同じだけだと思っていた。貴族の晩餐会で、令嬢たちがまことしやかに囁く噂話を耳にしたのだ始まりだった。
――勇者ハツライは絶世の美丈夫である。東洋の珍しい武器、刀で、魔物たちをなぎ倒す益荒男だ。彼に微笑みかけられて失神してしまった令嬢もいるほど。王宮で宰相を務めていた彼は、身分も財も申し分なく、間違いなくこの国一の貴公子である、と。
シオンは耳を疑う。
そして、背筋をゾクゾクと撫でる悪寒に、身を震わせた。
(まさか、他人の空似よね?)
その願いも空しく、度々目にする彼の肖像画は、かつての初雷そのもので、彼女は絶望した。
であったら、彼に見つかる前に早く婚姻してしまえばいい。
だが、彼女の目論見は空しく、冒頭に遡る。
「前世は神様に、今世は妹に恋路を邪魔されるなんて、前々世で一体どんな悪行を積んだのよ私は」
淑女に相応しくなく、床に座ったシオンは、自室にある寝台に顔を伏せた。
「バレル様、本当にお慕いしていたのに……っ」
恋愛経験がないに等しい彼女にとって、バレルは唯一、ときめきを与えてくれる相手だった。身分も申し分なく、紳士で、撫でつけられた黒髪はかつての故郷を思わせた。顔立ちも中々に整っていて、何度か二人で出かけたこともあった。激しくはない恋心だったと思う。しかしそれでも、結婚したら二人で愛を育んでいけそうだと、期待していた。
はらはらと、シオンの瞳から涙が零れ落ちる。
悔しくて、寝台に拳を打ち付け、彼女は声をくぐもらせつつ泣いた。
彼だけは裏切らないと思っていた。でも、天から与えられし美貌と手管の前には、彼も無力で、一人の男だったという事だ。心の臓が砕けた硝子を浴びたみたいに、彼女の心は傷ついて、その血が涙となって溢れていく。
その時であった。
「見ーつけた」
何度も、耳にしたことのある美声。
床に座り込む彼女の腹に、長い腕が巻き付く。
嗅いだことのない、気品ある香の匂いがして、シオンを包んだ。
彼女は顔を上げ、勢いよく背後を向く。
「は、は、ハツ、ライ……」
名前を呼ばれた彼が、美しく、妖しく、顔に笑みを浮かべる。
あの頃と何も変わっていない、彼女の神様がそこには居た。
少し癖のある、輝く金髪。同じ色の睫毛に縁取られた金眼が、鮮やかにシオンを映している。傷一つない真っ白な肌は滑らかで、国中の娘たちの恋心を一身に集めている勇者、初雷。
白い軍服には金の刺繍が施されていて、胸元には幾つもの勲章。腰には、彼の愛刀が携えられている。
ハツライはシオンの涙を、指で掬った。
そして、前世では考えられないことに、彼女から離れ、その場に立つ。
「ごめんね。つい気持ちが高揚して、君を抱きしめてしまった」
「……」
黙っていると、ハツライはハンカチを取り出し、跪きつつシオンに差し出した。
(まともだ)
前の彼とは違い、紳士で優雅な対応。前なら絶対にシオンの涙をなめとっていただろう。四六時中シオンを監視し愛を囁いた、ストーカーと同一人物とは思えない。シオンはハンカチを受け取り、目元を拭う。
(いいや、騙されてはダメ。今ならまだ知らんぷりで通せる)
ハッと我を取り戻し、シオンが口を開いた。
「あ、あの。勇者様がなぜこのような子爵家に……?」
それを聞いたハツライが、くつりと喉を鳴らす。
「君って、つくづく、悪い男に捕まりやすいみたいだね」
「は……?」
「前の2人の婚約者。脱税に、恋人への暴行……。君の愛するバレル君、だっけ? 奴隷たちを……ああ、口にするのも憚られるよ」
「何、言って」
「兎に角、前世から男運が悪すぎる。ああ、3人とも逮捕したから安心してね」
ニコリと彼が笑った。証拠の書類を手渡され、目を通す。
信じられない彼らの悪行に、シオンは身を震わせた。
「ここには、身柄確保のために来たんだ。すると、なんとびっくり、君が居た」
「バレル様が、犯罪者だったなんて」
ショックを受けていると、開いてある扉から、マリエッタが顔を出した。
「……勇者様、ですか?」
「ん? 私の名前はハツライだけど。シオンの妹君かい?」
「まあ、まあ!」
美しい妹が、涙を浮かべながらハツライの胸に飛び込んだ。ハツライは目を見開き、僅かに身を引く。しかし構わず、マリエッタは上目遣いで彼を見上げた。
「恐ろしゅうございました。まさか、バレル様が身の毛もよだつ行いをしていただなんて」
(どうせハツライも、マリエッタに夢中になるに決まってる)
美男美女が寄り添う合う光景を目の前にして、シオンは目をそらした。
すると、ハツライが手袋をはめ、マリエッタを押しのける。
「馴れ馴れしく触らないでもらえるかな。初対面の男に抱き着くなんて、はしたない」
冷たい目で見下ろされ、マリエッタがよろけた。
「それに私は……。シオンにしか興味がないんだ」
流し目で彼がシオンを見遣る。
彼女は気まずくて、さっと目を逸らした。
「ひどいですわっ」
かくもか弱げに、マリエッタが悲劇のヒロイン如く顔を覆いながら駆けて去っていく。
「……追わないのですか?」
「なんで? ここに君が居るのに」
ハツライが体を、シオンの方へ向き直した。
つくづく美しいこの男は、子爵家の少し寂れた屋敷から浮いているように映る。彼に似合うのは、神殿や、王宮の大理石や黄金に囲まれた空間だろう。
「婚約破棄されたんだよね」
「……ええ」
「なら、改めて――。前世では、君の嫌がることをして悪かった。言い訳じゃないが、君は悪いものに魅入られやすい。まだ未熟な私じゃ、君を守ることが出来なかったんだ。だから、死なせてしまった」
ハツライが、シオンに向かって跪く。
「今世では、君の望む通り、“生身で、まともで、財も地位も有って、君を幸せにする人”になるつもりだ。君を守り、永遠に傅く。それにいくつかは、実現したよ。シオン・クロレンス嬢、どうか私と婚約してほしい」
絶対に断る、とシオンは口に出したかった。
しかし――。
シオンは驚愕していた。
自分を苦しめていると思っていた男は、実はずっと自分を守っていてくれていたのだ。もちろん、それでもシオンが若くして死んだ一因になっていたのは確かではあるが。
一時でも愛していた男に裏切られ、ずっと孤独だった心は、寂しいと叫び声をあげている。
ハツライは、絶世の美女であるマリエッタに見向きもしなかった。
不安げに揺れるハツライの瞳をじっと見つめて、シオンは頬を染めながら再び目をそらした。
「……なんで早く言ってくれなかったの? それに、あの時言った無理難題、まだ覚えていたなんて」
「うん」
「今度ストーカーしたら、許さないから。あと、親しい人が犯罪者なときはそう言って」
「うん」
「浮気も嫌だし、私ってあなたほどきれいじゃないから虐められるかも。身分も釣り合わないし、性格も可愛くないわ」
「私はシオン以外いらないし、必ず守る。それに君は、世界一可愛いよ」
そっと、ハツライの指がシオンの頬に添えられる。
「返事は?」
「……いい、わ」
「っ、シオン!」
我慢できないと、ハツライがシオンに抱き着いた。
「ちょっと! 離れて」
「ごめん」
少女の如く頬を染め上げるハツライに、シオンも強く非難できない。こうして、前世から彼女に忌み嫌われていた彼は、シオンの伴侶となる、という目的を達成したのだった。
「あっ、あの……。仰せの通りに、いたしました。どうか、解放してください」
暗い路地裏。
シオンの妹であるマリエッタが、声を震わせて赦しを乞うている。
その声を余所に、ハツライは昔を思い出す。
掃き溜めに鶴。
彼女と初めて会った時の印象は、それだった。
シオンの周囲には、人間の汚い部分を詰め込んだ者たちが集まりやすかった。裏切るもの、犯すもの、暴力に身をゆだねる者。……殺すもの。
だが、彼女は純真無垢で。まるで泥沼に咲く一凛のシロユリ。
美しくて、手に入れたくて、顕現したばかりの彼はがむしゃらに彼女を守り、シオンを欲した。
その結果、彼女には言葉通り死ぬほど嫌われてしまったが。
生まれ変わって受肉した彼は、どうすれば彼女を守り、共に息をして生きて行けるか考えた。そのために彼は彼女に気づかれないよう暗躍し、シオンが望む人物になるため努力を怠らなかった。
「演技、ご苦労様。こういう言葉を知っているかい? 因果応報。この国にはない、仏教という宗教の教えでね。良い行いをした者には果報が。悪い行いをした者には、行いに対する報いが与えられるという意味だ」
「よく、意味が」
「わからない? じゃあ、体験してみよう」
ハツライが手を翳すと、そこに黒い靄が現れる。
マリエッタは、それをみて更に体を震わせた。
「君は、バレル卿と共に奴隷売買を行って私腹を肥やした。君らが奪った魂たちに、君の罪に対する罰の答えを聞こうじゃないか」
「ひっ……! ごめんなさい、どうか、許して……!」
沢山の靄がマリエッタにまとわりついて行く。彼女は地面に蹲って、うわごとのように謝罪の言葉を口にした。
「許してって言葉は、私に言うべきじゃない」
「いやああああああ!」
靄が晴れた頃には、そこに美しいマリエッタは存在しなかった。干からびて乾燥した肌。抜け落ちた髪。醜い姿となった彼女は、半狂乱で泣き叫ぶ。
「あーあ、壊れちゃった。ごめんね、君が逮捕されたら、シオンの評判も悪くなっちゃいそうだから。死ぬより辛い人生を送っておくれ。まあ、想像を絶する呪いだ。すぐ息絶えてしまうだろうけど」
ハツライは、マリエッタを利用していた。
今世ではシオンに近寄る悪い男どもを、積極的に排除するわけにはいかなかった。故にマリエッタの存在は都合が良かったのだ。
最初の2人をマリエッタが誘惑して奪うのを、彼は傍観した。
そして、男たちを調べてみると思った通り、様々なボロが出てくる。婚約破棄されたのち、ハツライは男たちを捕らえた。最後のバレル卿でも同じように機を伺っていたのだが。
ハツライの知らぬところで思わぬ悪行が発覚し、このような結果に終わったのだった。しかし、マリエッタを脅して、シオンに“絶世の美女にも靡かない男”を演出できたのは、愉快だった。
「汚いなあ。ああ、早くシオンのところに行きたい。消えかけていた私を救ってくれた、唯一。簡単に掻き消えてしまいそうなほど脆弱で、柔らかくて、美しい、君。愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる、愛してる――。
君に触れる汚いものは全部、私が排除してあげる。君が望むなら、君の望む私で居よう。ね、シオン」
ハツライは、足元に縋りつく黒い手を踏み潰した。
「羨ましいだろう? あげないよ」
掃き溜めに鶴。
美しい花に群がる闇たちは、シオンを手に入れたいと蠢く。だが、どんな魔物より恐ろしいハツライによって、何も知らない、彼女の日常は守られていくのであった。
読んでくださった貴方様、ありがとうございました!