スピードを落として走れ
発車案内のアナウンスのあと、4階バスターミナルのロータリーをゆっくり下っていくバスは、出口で突然パラパラと雨に侵されてずぶぬれになる。
事務所の通路から直結している地下街を抜ければ、外気に触れないでバスに乗れる。今日は忙しくて、天気予報も確認していない。
いつから降っているのだろう。向こうでは先に行ってる旦那が車で迎えに来てくれることになっているし、このまま着くまでしっかり寝ておこう。
着いてからのことは今は考えたくない。とにかく体を休めておかなければ。
そう自分に言い聞かせながら、険しい顔をしたつもりが、逆に少し口元が緩む。
ぎりぎりに乗車してきた斜め前の男の子が、ちょっとかわいかったからつい見とれちゃって。
急に思い出しちゃったよ。こんな時なのに、こんな時だから、かな。でも……
名前何だっけ、あの子。
あの日もこうして、バスの中で、雨粒が窓に当たって流れ落ちるのを、じーっと見てた。学校から一番近い、ジェットコースターがきしきし鳴る遊園地。遠足で、一番楽しみにしていたのにバスは科学博物館に行先変更。うっすらとした小学校の記憶がよみがえる。
あの子…笑うと片方だけえくぼができて……
え、待ってよ。本当に忘れてる。ぎゅっと目をつぶる。眉間にしわがよるのは極力避けたい。最近一本深いしわが刻まれつつあるんだから。用心用心。顔の筋肉を緩める。
ふん、笑っちゃう。初恋の人の名前を忘れるなんて、我ながら末期だと思う。好きだったのに。あんなに好きだったはずなのに。
中学からだと30年。初恋なんかに浸る余裕もなく、前を向いて生きてきたんだ。就職して、結婚して、旦那の転勤でやっと過干渉な姑から離れられたと思ったら、先月舅が倒れて。姑まで具合が悪くなったと言い出す。
ふーーっと大きく息を吐いて、目を閉じる。明日のこと考えると途端に憂鬱になるから、とりあえず、何も考えないで寝よう。
次の停車は新横浜。
四年生のクラス替えで初めて一緒になった子。
五月の遠足、バスの中で、うらめしそうにしていた私の目に飛び込んできた、斜め前の席の彼の横顔。視線に気づいて目が合った瞬間、そらした目に飛び込んできたのが、窓に当たる雨のしずくだった。
背はクラスでは真ん中へんで、私よりもちょっと低い。丸顔で、右の口元にえくぼができる。二重瞼のかわいい系。そう、顔ははっきりと思い出せる。いや、本当にこの顔なのか、もしかしたら思い出補正かかっているかもしれないけれど。
勉強はできない方ではなかったけれど、目立つのは体育で、かけっこはクラスで一番速かった。そして、私だって、女子では結構速かったんだ。
運動会のクラス対抗リレーの選手に二人とも選ばれて、放課後一緒に残って練習した。
そうだった。したな、一生懸命練習を。
隣のコースを走る彼に追いつきたくて、私は必死で走った。
必死で走っても、いつも、トラック一周するころには、一メートル近く離された。私が悔しそうな顔をしていると、彼は涼しい顔をして、「新田、女にしては速いなあ。」と言ってくれた。それがとても嬉しかった。私の旧姓は新田。旧姓久しぶりだなあ。自分で自分につっこみながら思い出を紐解いていく。
そうだ、あの時も、練習の後、急に雨が降ってきたな。他にも何人かいたけれど、彼と、よーいどんで、校門まで走った。校門からは右と左に分かれて帰る。バイバイって言った笑顔が雨に濡れてきらきらまぶしかった。
五年生でも一緒のクラスになれた。二年連続。嬉しかった。四年生のバレンタインデーでは恥ずかしくて、誰にも言って無くて、チョコレートは渡せなかったけれど、今年こそは渡そう、そう決心した。なんでバレンタインデーにこだわったのかよくわからないけれど、あの頃は、それが一大イベントだったからね。
私は五年になって仲良くなった美咲ちゃんに、こっそり彼への気持ちを打ち明けた。美咲ちゃんは物珍しそうに私の話を聞いて、私に協力すると約束してくれた。その日から、美咲ちゃんは何かにつけて、彼にちょっかいを出すようになった。多分私のために。私が喜ぶと思って。
そしたら彼の方も、ちょこちょこ美咲ちゃんに構うようになった。教科書で猿の写真をみつけたら、「これ、美咲みたい。」と言ったり、校庭で飼っているチャボを指さして、「美咲みたいな歩き方。」なんてからかった。
彼はいつも私の隣の美咲ちゃんを見て、美咲ちゃんに話しかける。
美咲ちゃん、違うよ。私は美咲ちゃんとふざける彼なんて見たくない。私は、「新田かなえ」を見てくれる彼が見たいの。言いたかったけれど言えなかった。
六月、水泳大会の練習をしている時、不意に美咲ちゃんが耳元で囁いた。
「ごめん、かなちゃん。わたし、彼のこと好きになった。」
私はとっさに何も考えず、口だけでしゃべった。
「いいよ、そんなの。私はもう、彼のこと好きじゃないし。」
美咲ちゃんの顔がぱあっと輝いた。
「ほんと?そしたらかなちゃん、私に協力してね。」
なんであんなこと言ったんだろう。多分、友達の美咲ちゃんと彼を取り合いたくなかった。ううん、そうじゃない。自分の気持ち、もう誰にも言うものか、心を閉ざしてカギをかけよう。美咲ちゃんに言ってしまったからこうなっちゃったんだ。きっととっさにそう考えて、自己防衛が働いたんだ。協力なんて、するつもりなかった。美咲ちゃんが私にしたように、彼にちょっかいを出せばいいのなら、逆に好都合。今度は私が彼と仲良くなれる、「これ新田みたい」って言ってもらえるかもしれない。
私は水泳大会の日、更衣室の裏手に彼を呼び出した。美咲ちゃんが、彼の好きな人を聞き出してほしいというから。私も聞きたかった。誰の名前が出るかどうかなんて二の次で、ただ、彼とふたりっきりで話がしたかった。美咲ちゃんのためという大義名分があると、不思議と大胆になれた。
「なに?」
彼は照れたような、はにかんだような顔で、えくぼを浮かべながら私を見た。頬が日焼けして赤くなってる。額から流れる汗をてのひらで拭う、そんなしぐさにどきどきしたけれど、少し目をそらして、
「ん、友達に頼まれたんだけど、」
そう言いおいて、
「好きな人いるの?」
ストレートに聞いた。彼は少し考えて、
「いる。」
ちょっと上を向きながら、はっきりと言った。
「だれ?」
なんだか妙な気持ちになった。胸の鼓動が速くなる。
「新田は?」
問い返されて、答えに詰まる。
「いないよ。」
少しの沈黙の後、彼は小さく言った。
「新田が言わないんなら、俺も教えない。」
そして、ぷいと回れ右して校舎の陰へと消えて行った。
私はしばらくそこに立ったまま、動けなかった。
「どうだった?」
心配そうに、それでも期待も半分覗かせて、遠くから盗み見ていた美咲ちゃんが駆け寄ってきた。
「いるって。」
「誰?」
「教えてくれなかった。」
落胆と安堵と両方のため息をついて、美咲ちゃんは微笑んだ。
「やっぱり私、バレンタインデーまで待ってみる。バレンタインデーに告白するんだ。」
それから平穏な何の変化もない日々が続いた。運動会では、また、リレーの選手に選ばれたけど、女子は女子、男子は男子で固まってしまって、一緒に走ることはなかった。四年生と五年生は全然違う。私は彼を遠くから見てるだけ。
彼の好きな人が誰なのか、ずっと気にはなったけれど、私も2月14日を待つことにした。
その日はとうとうやってきた。美咲ちゃんは前日に、電車で街中の大きなデパートに行って、この秋からサッカーを始めた彼にぴったりの、サッカーボールのチョコレートを買ってきたらしい。私は一緒に買いに行こうと誘われたけど、用事があると言って行かなかった。そして密かにママに習って、ハートのチョコレートケーキを手作りした。一つはパパに、一つは友達と一緒に食べるとママに言って、二つ作った。小さなカードにメッセージを入れて。
「このケーキが私の気持ちです。 新田かなえ」
ケーキに合わせた箱に入れて、青い包装紙で包んで赤いリボンを結んだ。
準備OK。でも問題は、どうやって渡すかだ。
放課後まで、何事も起こらなかった。美咲ちゃんは掃除時間の時、私に放課後彼を呼びだしてほしいと言った。私はうなずいた。その時に、私は自分の告白をしようと思った。美咲ちゃんにはばれないように。
終わりの会の前に、私は彼の席まで行って、
「放課後、ちょっといい?」
と聞いてみた。
今日はバレンタインデー。クラスの男子は神経過敏になっている。さっそく隣の席の男子が興味津々の目で見てる。私はすかさず、
「違うよ。頼まれたんだよ。」
何も聞かれてないのに言い訳した。
終わりの会が終わって、さようならのあいさつをして、みんなが教室から出る。美咲ちゃんは、待ち合わせの校舎の裏で、先回りして待っていることになっている。彼は私からの指示を待っている。まだ、どこに行くとも言っていなかったから。
足が震えた。どう言っていいかわからなかった。チョコレートケーキを渡したい。だけど、渡せそうにない。教室にはまだ何人か残っている。美咲ちゃんは待っている。彼はじれったそうにこっちを見てる。
「あのね、美咲ちゃんが、北校舎の花壇のところで待ってるから、行ってあげて。」
彼の眉毛が一瞬動いた。
「それから、…」
その後が言えなかった。
「何?」
彼がいぶかしそうにじっと見る。
「あたしも…話があるんだけど。」
それ以上は言えなかった。
彼に見つめられて、下を向いて、
「先に、美咲ちゃんの所に行ってあげて。」
そして、それでも、私の話を聞きたかったら、ここに帰ってきて。
そう言いたかったけれど、言えなかった。先に、とは言ったけれど、後のことは言えなかった。彼は、すぐに教室を出た。下を向いてた私には、彼のぐるりと青いゴムの付いた上靴しか見えなかった。なぜか上靴が怒っているように見えた。
教室の窓から見下ろしても、北校舎の花壇は死角。だけど、私はこっそりと、窓から外を覗いてみた。花壇に向かう、彼が見えるかもしれないから。
けれど、彼の姿は全然見えず、ただ、時間ばかりが過ぎていった。
ここから見える所を通って行くのが一番近道だったけれど、彼は、中庭を抜けずに遠回りして花壇に向かったのかもしれない。
教室の、時計の秒針が、かち、かち、一定のリズムで冷たく動く。あれから何分たっただろう。手提げ袋の中のケーキが気になった。どうやって、渡そうか。家まで、行こうか。でも、もしも美咲ちゃんとラブラブになってたら、恥ずかしくて渡せない。
教室を出る。靴箱に向かう。靴を履き替えて、外に出ると、コンクリートのたたきのところで美咲ちゃんがうずくまるように座ってた。
「どうしたの?美咲ちゃん。」
美咲ちゃんは、一瞬ふっと笑って私の目を見ないで答えた。
花壇で待ってても、彼は来なかった。だから、靴箱で、靴を見てみたら、もう靴はない。今度は反対側から回り道して花壇に行こうと南校舎の前を通り抜けようとしたら、彼が、隣のクラスのありさちゃんと話してた。手に、かわいい包みを持って。うれしそうに。
美咲ちゃんは自分の事じゃないように淡々と話した。
「それから?」
私の方が、取り乱していた。
「さあ、見てないよ。」
もともと美咲ちゃんはあっさりした性格。うじうじしないところ、好きなんだけど、次のことばは 私には信じられなかった。
「3組の吉田君が通りかかったから、私、吉田君にチョコレートあげちゃった。」
そう言って、顔を紅潮させた。
手提げ袋の中のハートのチョコレート。
メッセージつきの。
私はどうしても、これを彼に渡したい。髪をいつもリボンで結わえてる、かわいいありさちゃんのことは少し気になったけれど、私の気持ちはそれとは別。誰かに左右されて気持ちにウソをつくのはもうこりごり。
美咲ちゃんちとの分かれ道までいつものように二人で帰って、それから一人でしばらく進行方向に歩いて、私はゆっくりと立ち止まった。
彼の家は前に美咲ちゃんと見に行った事がある。私の家とは学校をはさんで逆方向。私はきびすを返して、早歩きで歩いた。空が急に薄暗くなり始めた。だけど、走るとケーキが崩れるかもしれないから、私は手提げ袋が揺れないように用心しながら、できるだけ早足で歩いた。分かれ道で確認したら、美咲ちゃんのピンクのコートが遠くにぽつんと見えた。
学校をとおり過ぎ、彼の家に一歩一歩近づく。何も考えないようにした。家に着くまでは、ただ、チョコレートケーキが崩れないよう、落とさないよう、そればかり考えて歩いた。
大きな門構えのチャイムの前に立った時、初めて、どうしようか、途方に暮れた。コンクリートの門が、重々しく目の前にのしかかってくる。玄関ドアはだいぶん先にある。チャイムを押して、彼を呼んで、ケーキを渡して…それからどうしたらいい?
ううん、お母さんしかいなかったら、それとも誰もいなかったら…
しばらく門の前で立ち尽くしていると、道の向こうから大きな犬を連れたおばさんがこっちをちらちら見ながらやって来た。
私はとっさに何食わぬ顔で、隣の家に向かって足を進めた。どこかの家を探して迷っている風に装って。
「何かご用かしら?」
そう言われて振り向くと、さっきのおばさんが話し掛けてきた。
「いえ、あの…。」
そう言って、後ずさりのような格好で立ち止まっていると、横から犬がしっぽを振って飛びついてきた。ゴールデンレトリバーかな、不意をつかれてはずみで思わずよろけてしまった。私は手提げ袋を抱えたまま、電柱に崩れかかった。ぐしゃっとにぶい音がした。私だけに聞こえるような小さな音、ううん、音じゃなかったかもしれない。でも、たしかにぐしゃっと箱はつぶれた。
「ごめんなさい。大丈夫?」
おばさんが犬の鎖をきつく引っ張ると、犬は申し訳なさそうに「くーん」と小さくのどの奥で鳴いた。抱え込んだままの手提げ袋から、少しだけ、チョコレートケーキの包みが覗いてる。赤いリボンがちらりと見える。でも、案の定、さっきのはずみで箱の角がへしゃげてる。
家の明かりが灯って、窓に人影が見える。私は恥ずかしくて、真っ赤になって、
「いえ。」
早口でそう言って、その場をダッシュで立ち去った。家までの道、息が切れて倒れそうだったけれど、立ち止まりたくなくて、ずっと走り続けた。もうケーキが崩れることは気にしなくていい、どうせ崩れてしまっただろうから。どうせもう、渡すことなんてできないから。
自分の部屋にこもって包みをそっとほどいてみる。箱のふたを開けると、ケーキは全然崩れてはいなかった。箱が少しゆがんだだけだった。
「このケーキが私の気持ちです。」
我ながら上手く書けたカードの文字が、うらめしそうにこっちを見てる。ため息をつきながら、またふたをした。
「かなー、電話よー。」
ママの声で目が覚めた。晩御飯の後、いつの間にか眠っていたらしい。
「男の子よ。」
ママが意味ありげに目を細めた。私は焦って階段から転げ落ちそうになりながら、リビングの電話まで走った。
「もしもし。」
受話器から、機械音でくぐもった、ぶっきらぼうな彼の声がした。声だけ聞くと、なんか違う人に聞こえる。
「話って、なに?」
「え?」
いきなりだったから、なんのことかわからなかった。まさか、私が家まで行った事、気付かれてないよね。
「話があるって言ってたじゃん。」
「ああ。」
そのことか、とようやく思考能力が回復してきた。そうだ、チョコは渡せなくても、まだ間に合う。告白だけでも……今なら間に合う。ストレートに言えばよかったのに、私は放課後のことを思い出して、別の話を始めた。
「ありさちゃんに、チョコもらったの?」
一瞬沈黙。そして、
「おまえに関係ないだろ。」
投げやりに言われた。その言い方にむっと来た。
「関係あるよ。美咲ちゃんのところ、行かなかったでしょ。」
また沈黙。
「行ったけど、いなかったんじゃないか。」
「それは…遅かったから、だから美咲ちゃん…」
「なんで人の事いちいち気にするんだよ。そんなの美咲が自分で言えばいいだろ。おまえ、人の事ばっかりじゃん。話ってそんなこと?」
何も言えなくなった。違うよ。自分の事が言いたいんだよ。でも、彼が言わせてくれないんだ。私はあなたの事、好きなんです。それだけが言いたいのに、話が勝手に違う方に流れていく。
「じゃあ、切るから。」
そう言って、電話はぷつんと切れた。ツーツーと小さく鳴る受話器を握ってしばらく私はボーッとしてた。涙が出そうになるのを壁を見つめて我慢した。ママと目を合わせないようにして階段を上った。
部屋に戻って、壁にかけている鏡を覗くと鼻の頭が少し赤い。
まださっきのぬくもりの残ったベッドにごろんと横になる。
チョコレートケーキのゆがんだ箱が机の上で私を責める。まだ間に合うかも、早く早く。
もうだめだよ。
完全に嫌われちゃったよ。
翌朝、少し上まぶたが腫れていた。チョコレートケーキに追いかけられる夢を見て、なんだか熟睡できなかった。朝、半分だけ自分で食べた。昨晩遅く帰って来たパパが、「ケーキ、おいしかったよ、ありがとう」って言ってくれた。
学校へ行くと、彼はいつもと同じ、えくぼが時折浮かんで消える、おだやかな顔をしていた。
美咲ちゃんは澄ました顔で、教科書を見てる。隣のクラスの吉田君は美咲ちゃんとすれ違っても別に何の反応もしなかった。ありさちゃんだけが、休憩時間のたびに廊下の窓から、何度かはじけるような笑顔をこちら側に向けていた。
体育の時間は持久走。もうすぐ校内持久走大会があるので連日走らされている。二組合同での授業だ。200メートルのトラックを、女子はみんな、仲良しグループで固まって加減して走っている。私もいつもは美咲ちゃんと、ペースを合わせてゆっくりめに走る。
だけど、今日は、わだかまりをふっとばすために目いっぱい走った。女子の固まりから一気に抜けて、男子のトップグループに着いて走った。彼のいるトップグループに、離されないように必死で着いて行った。彼が振り返って私を認め、それから一気にスパートした。本気になった彼に、私はぐんぐん追い放された。背中がどんどん小さくなった。
もっと、もっと、彼に近づきたい、追いつきたい。必死で追いかけた。
周遅れの子をぐんぐん抜いて、夢中で走った。何も見ないで、彼の背中だけを見つめて。彼はただならぬ足音にもう一度ちらっと振り向いて、ますますスピードを上げて走る。二人の距離は縮まらない。だけど、開きもしない。必死でついて行った。その差、約一メートル。視界の隅で、先生やみんながなぜか手を伸ばしたり、手を振ったりしてる気がしたけれど、気にしないで、走り続けた。さっき抜いた子がまた目の前にいた。髪を左右に揺らしながらのろのろと走ってるありさちゃんだった。そのとたん、ありえない力が足に湧いてきて、私の体が一気に彼に近づいた。そして、急に止まった彼にどんとぶつかってこけた。
「大丈夫?」
彼のドアップが真上にあった。
「俺ら、一周余分に走ってたみたい」
見渡すと、みんなもう走り終えて座ってこっちを見ていた。先生はにやにや笑って
「すごいデッドヒートだったな。本番もこの調子でがんばれよ。」
「あたし必死で手を振ってもうおわりだよーって言ったのに、かなちゃん、全然気づかないで一生懸命走ってるんだもん。」
「でもなんかかっこよかったよ、みんな、いけいけーって応援してたし」
美咲ちゃんが興奮してまくしたてた。ほかの女子たちも、すごくうれしそうだった。「かなちゃんかっこいい」って。男子に勝てそうだった女子ってことで、英雄扱い。
本番の公道を走る持久走は男女別だったから、私はダントツ一位だった。男子では彼が一位だった。五年生の部で、二人で並んで表彰された。
一ヶ月があっという間に過ぎた。3月14日、ホワイトデー。
美咲ちゃんは、期待して待ってたのに、吉田君は何も言ってこなかった。
「もう、サイテー。吉田になんかチョコやるんじゃなかった。」
美咲ちゃんはそう言ってほっぺたを膨らませながら教室を出た。私は彼の事が気になって、ちらちらとずっと目で追っていたけれど、普段通りで変わった様子はなかった。ただ、翌日、ありさちゃんが彼からキャンディをもらって、二人は付き合っているのだという噂が一気に広まった。美咲ちゃんは、冷めた声で「ホワイトデーにお返しするのはあたりまえじゃん。」と言った。でも、私はありさちゃんがうらやましくて、ねたましくてたまらなかった。チョコレートを渡して、お返しにキャンディをもらう、それができたありさちゃん。私だったかもしれないのに。それは私だったかもしれないのに。
何の進展もないままに、六年生になった。私も美咲ちゃんも、彼も、それぞれ違う組になった。私は四組、彼はありさちゃんと同じ二組だった。二人はいつも、一緒に帰っていると、四組にまで噂が届いた。
六年生の靴箱の前で、ありさちゃんと鉢合わせした。いつも四組の先生は終わりの会が長くて、おまけに、ドアの前で一人ずつと握手をしてさようならを言うので、他のクラスより遅い。私は同じ方向に帰るえりかちゃんと話しながら上靴を脱いでいたら、職員室の方から彼が来た。彼が上履きをスニーカーに履き替えて、無言で外に出る。それについて、ありさちゃんも後から外に出る。私とえりかちゃんも、同じタイミングで靴を履いてしまったから、同じタイミングで外に出た。えりかちゃんはちょっと口の端を上げて、意味深な顔をしていた。
別について行くつもりはないんだけど、私たちは先に出た二人のすぐあとを、歩く格好になった。二人はずっと無言だった。そして、一緒に帰っている、というよりも、ありさちゃんが必死でついて行っている、という感じに見えた。校門を出ると、二人は私たちとは逆方向に行くので、そのあとのことは知らないけれど。
「なんか、変だったね。」
えりかちゃんが先に言った。
「なにが?」
私はちょっととぼけた。
「あの二人」
「ああ」
確かに変だった。
最初は二人はつきあっているという噂だったけれど、最近は、ありさちゃんの片思い説がもっぱらの噂らしい。彼は、ありさちゃんと話さないし、帰りもありさちゃんが勝手に待って、ついて帰ってるだけだって。今の場面、まさにその通りに見えた。
えりかちゃんは小さな声で、でもはっきりと言った。
「かなちゃんだけに言うんだけどさ、わたし、ありさちゃん、嫌い」
その意味は多分
―わたし、彼が好き
6月、町内の6年生全員が参加する、陸上記録大会があった。町内には3つの小学校がある。ここでいい記録を出せば、次の地区大会に出場することが出来る。
5月からずっと、放課後の練習が続いている。練習は、自由参加なのだけど、習い事とかしていない私は毎日出ていた。彼は、サッカーの練習がある金曜日は休むけれど、それ以外はいた。
幅跳びや、高跳び、ソフトボール投げなど、いろいろ種目はあるのだけれど、私と彼の出場種目は全く同じで、100メートル走と60メートルハードル、そして、400メートルリレーだ。
準備体操のランニングで、彼と並ぶように走ることが続いていた。気がつくと、視界に彼がいる。私も意図的にさりげなく近くに陣取って練習したりもしたけれど、明らかに、向こうの方からこちら寄りに来ている気がする。話をしたり、目が合ったりするわけではないけれど、私はいつも近くに彼を感じていられるこの時間に、すごく幸せを感じていた。
その頃の私は、鏡に映る自分にちょっとした変化を感じてた。ありさちゃんほどじゃないけれど、髪を伸ばして、両耳の上で結んだら、私だって、もう少しかわいく見えるかもしれない、なんて思い始めていた。
陸上記録大会、彼は、100メートル走で2位に、ハードルでは3位に入った。私は校内トップではあったけれど、他校にはもっと速い子が何人かいて、表彰台には届かなかった。表彰台に立つ彼をじっと見ていたら、えりかちゃんにそっと耳打ちされた。
「彼って、もしかしてかなちゃんのことが好きなんじゃないかな」
どうして?と問うと、だって、いつもかなちゃんのこと見てたよって言う。
「そんなことないよ、目が合ったことないもん」って言うと
「かなちゃんとなら、お似合いだと思うよ」ってにこっとした。
家に帰ってから、えりかちゃんの言葉にどきどきした。第三者がそう言うんだから、もしかしたら、私がずっと感じていたこと、本当なのかもしれない。彼は私の事、気にしてくれている。そして、私たちはお似合いなの。
嬉しかった。単純に嬉しくて、それ以上どうこういう思いにまではならなかった。
こんな幸せな毎日が、このままずっと続いたらいいな、そう思っていた。
いつの間にか、ありさちゃんと彼は、一緒に帰らなくなっていた。
今年こそ、絶対に絶対に、彼にチョコレートを渡そう。私は心に誓っていた。
やっぱりバレンタインデー。私の心ははるか2月に飛んでいた。
1学期が終り、そのすぐ翌日は水泳大会だった。
朝、廊下ですれ違うとき、彼に呼びとめられた。彼の目がなんだかいつもと違って、緊張していて、私もその緊張感が伝線した。
「ちょっといい?」
彼が早足で歩くから、私も早足でついて行く。北校舎の渡り廊下の手前で彼がやっと振り向いた。
右ほっぺにえくぼがうかんだ。ちょっとはにかむと出てくるえくぼ。
「新田、前に俺がだれが好きか聞いてきただろ。」
「……うん。」
少しの沈黙。
そして、
「俺、ずっと新田が好きだった。」
「え」
「それだけ。」
そう言って、彼はそのまま教室に向って走って行ってしまった。水泳大会では、クラスごとに座る位置が違うし、出る競技も違うので、接点はまったくなくて、表彰台に立つ彼を見てるだけ。私は水泳では凡タイムしか出なかった。
せめて帰りの時間が合えばと思ったけれど、彼は、大会が終わってすぐに、見に来ていたお母さんと、車で帰ってしまったらしい。
家に帰っても、落ち着かなかった。どうしていいかわからなくて。
もう夏休みだから、登校日まで、学校では会えないし。
どうしたらいいんだろう。
どうしていいかわからなかった。
ぐずぐずと悩んで、翌日を迎え、その日もどうしようどうしようとやきもきしていた。次の登校日は十日後だ。登校日に、今度は私が彼を呼び出して、自分の想いを伝える。そう決心してやっと心が落ち着いた。
でも、登校日に、彼は来なかった。
夏休みの登校日は、家々の都合で、欠席するものも多い。
どうしよう。
そうだ電話をしよう。彼だってかけてくれたじゃない。去年のクラス連絡網で彼の家の電話番号を確認し、3回深呼吸をして、プッシュボタンを押していった。
ぷるる、ぷるる、かちゃ。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
どういうこと?電話番号が変わったの?
とっさに私は走っていた。彼の家めざして走った。
もう、私の頭の中には彼しかなかった。彼に一目会いたい。会って、思いを伝えたい。
だけど、彼の家は、この前とはなんだか様子が違っていた。カーテンがかかっていないし、車も自転車もない。なんだかがらーんとしていた。隣の犬がワンワン吠える。隣のおばさんが窓からのぞいてる。
どういうこと?どういうこと?
しばらく様子をうかがっていたけれど、やっぱりチャイムは押せないまま、下を向いて帰った。
それでも、新学期になったら、彼に会えると思って、新学期を指折り数えていた。
でも、彼は二学期になっても、学校には現れなかった。
新学期が始まった日、彼が、引っ越ししたことを知らされた。
お父さんの転勤で、県外に行ってしまったんだと。水泳大会の翌日に家族で越して行ったそうだ。
同じクラスの子も知らなくて、誰にも知らされていなかった。
なんですぐに電話しなかったの?なんですぐに会いに行かなかったの?
後悔が行き場を探して、私は教室で、ポロポロ涙を流して泣いてしまった。
どうして、言えなかったのかな。チャンスはいくらでもあったのに。私、四年生の時からずっと、彼が好きだったのに。あの時も、あの時も、チャンスはいくらでもあったのに。
彼のお父さんが事業で失敗して、逃げるように引っ越して行ったんだと噂がとびかった。
私は彼に手紙を書いた。
「水泳大会の時言ってくれたこと、とてもうれしかった。ありがとう。
わたしもずっと好きな人がいます。私の好きな人はあなたです。
新田かなえ」
だけど、彼がどこにいるのかわからないから、手紙はそのまま机の中で眠ったまま。
中学になって、私は陸上部に入った。小学校のメンバーが、そのまま中学生になる。新しい出会いも無く、私はずっと彼のことばかり考えていた。相変わらず色黒だけど、ずっと短かった髪を伸ばし、少しは女の子らしくなっていたと思う。さすがにリボンはつけなかったけれど。ありさちゃんは、逆に髪を短く切っていた。
中三の二学期に、彼が帰って来た。だけど、違うクラスで、接点はない。廊下でちらっと見掛けても、三年間のブランクで、別人のように大人っぽくなった彼に、私は近づくことができなかった。
十月、体育の日。私は町民体育大会に区の代表で選手で出る。ウォーミングアップをしていると、選手の中に、彼がいた。向こうから近づいてきてくれた。
あの日のように並んで走る。でもあの日と違って、彼は、気さくに話しかけてきた。
「久しぶり、元気だった?」
「うん、背、高くなったね。」
小学生の時には、私よりも少し低かったのに、今は見上げるくらい高かった。
「新田、髪伸ばしたんだな、最初誰だかわからなかった。」
彼の口からまた、「新田」って聞けるのが、なんかくすぐったい。
「私ね、手紙書いたんだよ」
せめて、思いを伝えられていたら…
なんて書いたの?そう言ってくれたら、きっと言えたのに。でも、彼は聞かない。
「あのね、最後に言ってくれたこと…」
「え?」
「小学校の、水泳大会の…」
何かを思い出したように、彼の眼が宙を舞った。
「ああ、そんな昔の話、もういいよ。」
彼が片手を振って、照れくさそうに笑った。そんな子供の話なんて、もう忘れたよとでも言うように。
だからやっぱり言えなかった。練習コースを走りきって、彼が手を振って離れていく。私は、やっぱり言えなかった。
相変わらず右にできるえくぼだけが、昔の面影を感じさせた。あの時の顔はもう思い出せない。私の思い出の中の彼は、小学生の彼だけだ。
そのあとは高校も違うし、何も接点のないまま。結局それが最後の会話になった。
ずっと机のすみにしまっていた手紙も、もうどこにあるのか、捨ててしまったのか、思い出せない。
はっきりとしてるのは、片方にできるえくぼ。上靴のゴムの青。追いかけてぶつかった背中。唯一堂々と見つめられた表彰台に立つ彼。
私の中の彼は、ずっとずっと変わらないまま。切り取られた一瞬、一瞬だけが、鮮明に残っている。
ぷしゅー、のっぺりとした音とともに、バスのドアが開く。
バスに乗り込む人の足元を眺めながら、ワープした心を取り戻す。
惰性で乗り込んだ金曜日の夜行便がまた動き出す。スマホを開くと、お天気情報は雨降りの動画。スクロールすると、明日の天気は晴れだ。液晶画面の中で太陽がきらきら光ってる。
あ
「太一君」
口が勝手に動いた。声が漏れたかもしれないけど大丈夫。発車のアナウンスでかき消された。
名前を口にすると、胸がきゅんとした。思い出の中の太一君があまりにもかわいくて。
太一君のことばかり想ってた自分があまりにも愛おしくて。私もそんな時代があったなあと、口元が緩んでくる。
中学を卒業してからは運動らしい運動は、もうずっとしてなかったけれど、
もう一度走ってみようかな。そう思ったら、少し元気が出てきた。この土日でどう転ぶかわからないけれど、私の人生は私のためにあるのだし。
斜め前の席の男の子が、背もたれを目いっぱい倒して本格的に寝る体制に入った。
「無事乗りました。6:40着予定です。」にやけたまま送信を押す。
すぐに「了解しました」のスタンプが返ってくる。
旦那にも少しは優しくしてあげようなんて、ほっこりした気持ちもわいてくる。
明日になれば、また眉間のしわを気にしなくちゃいけなくなるかもしれないけれど。