青年が出した答え
そのまま黙々と登り続け、やがて開けた場所にたどり着いた。この山の山頂だ。
山頂には一本も木が立っておらず、ただ野原が広がるだけだ。
膝ほどまで伸びている野草が、絶えず穏やかに吹き続ける風になびいている。
ここで風鈴の音でも聞けば、季節も相まってとても心が和みそうだ。
オレ達二人は並んでその野原の入口に立っている。
「覚えていますか? 昔、あじさい病院にいた頃に、私をここに連れてくるって言ってくれたことを」
あぁ......そんな話もあったな。
「覚えてるよ。たしか、高い場所から景色を眺めてみたいってお前に言われたんだっけ」
「そうですよ。昔、勇也くんがテレビで見たというスカイダイビングの話を聞いてそう思ったんです」
昔の思い出を懐かしむような、穏やかな表情をする千歳。
その表情を眺めていると、こちらを向いてきた千歳と目が合った。照れ臭そうに笑う千歳。
そして歩き出し、一人で野原を進んでいく。
オレも遅れて歩き出す。
「ずっとこの日を待ちわびていました。約束をした十年前には来られなかったから......だからここに戻ってきた時には、まず最初に勇也くんとここに来ようと思っていたんです」
後ろを歩いているためその表情を伺い知ることはできないが、恐らくあの穏やかな表情をしているのだろう。
そのまま歩き続け、やがて野原の最奥部にたどり着いた。
あと数歩歩けばその先の山の斜面を転落するだろう。
無論、そんなことにならないように崖の前には柵が設置されている。
千歳はその柵に手を置き、眼下に広がる町並みを眺めている。
オレも千歳の横に並びその町並みを見下ろす。
よく見慣れたオレの住んでいる町だ。
奥の方には、この山とは正反対の西に位置する大きな川も見える。
「......綺麗ですねぇ」
恍惚とした表情で呟く千歳。
「......そうだな」
やはり特に感動は無いが、かといって千歳の感動に水を差す必要もないだろう。
適当な返事を返しておく。
千歳はしばらくの間その風景を眺め、そしてオレに話しかけてきた。
「他の約束も......覚えていますか?」
尚も吹き続ける柔らかな風にその髪をなびかせながら、頭に被った麦わら帽子を手で抑えている。
そう言った千歳の声は、不安と期待を織り混ぜたようなものだった。
「あぁ、覚えてる。たしか、一緒に川遊びに行く約束もしてたな」
そう言うと、千歳は微かに頬を膨らませた。
「それもそうですけど......そっちじゃなくて」
そこまで言うと、一息ついた。
そして、微かに頬を赤らめて言葉を続ける。
「私を......幸せにする約束の方です」
僅ながら風が強くなってきた。
「......ああ、覚えてる。オレの中で最も大切な約束だからな」
オレの返答に、千歳はさらに頬を赤く染める。
「......じゃあ、勇也くん?」
目をつぶり、スッと息を吸い込む千歳。
そして体をオレの方へと向ける。
次に目を開いたその表情は小さな笑みを浮かべていた。
まるでオレの返答が分かりきっているかのように。
「私と、お付き合いしていただけますか?」
そして生まれる沈黙の間を、ますます強く吹き始めた風が埋める。
その風は絶えず吹きすさぶ。
まるでオレの返答を遮るかのようだ。
オレは体を横にいる千歳へと向け、確かに、優しく告げる。
「断るよ」
微かに目を見開く千歳。
昨夜、あれほど出会いたくないと願ったオレの心は、こんなにも早く裏切られてしまった。
「理由を......お聞きしてもよろしいですか?」
顔を伏せながら、小さな声で言葉を紡ぐ。
麦わら帽子のツバのお陰で、その瞳を見ることは出来ない。
いや、出来なくていい。
そう思うのは、覗く彼女の頬に涙が伝っているのが見えてしまったからだろうか。
「単純な理由だよ。あの頃のお前は、そして今のお前にはオレしかいない。お前はオレ以外の他人を知らない。異性を知らない。そんな状況で交際を申し込まれても、それが本当にお前の幸せのためになるのか分からない。それは『お前を幸せにする』という約束に反する」
それが一つの理由。そしてもう一つは......
「それに、もし仮にオレとお前が交際してもお前は幸せになれない。いいか? お前が知っている心優しいお人好しの勇也くんなんてもういない。今お前の目の前にいるのは......自分のことで手一杯の、他人を気遣う余裕なんてない普通の男だ」
そう言い切ったと同時に、あれだけ吹きすさんでいた風が穏やかなものに戻った。
そう、これでいいのだ。
オレが交わした『白峰千歳を幸せにする』という約束は、最早こういう形でしか果たせない。
そしてまたも生まれる沈黙。
流石にこの状況に長く堪えられるほどオレの心は強くない。
早期決着を望もう。
「せっかく体が治ったんだ。これからは色んな人間と関わっていけばいい。オレよりも優しくて魅力的な人間なんて他に幾らでもいる」
しかし、変わらず千歳は俯いて涙を流しているだけだ。
「......じゃあな」
言うべきことを言い終え、オレはその場を去ることを決める。
「......勇也くん!!」
後ろから声が聞こえるが、無視して歩き続ける。
やがて野原の入口にたどり着くと、そこに一人の初老の男が立っていた。
細い体に長身、そして黒いスーツが特徴の男だ。
掛けている眼鏡から覗くその優しげな瞳が、オレの姿を捉えている。
「お久しぶりでございます」
男の横を通り過ぎるその瞬間に声をかけられた。
「なるほどね。同行者は親じゃなくて使用人のあんただったのか」
以前にも会っている男だ。
どうやら向こうもオレのことを覚えていたらしい。
「お嬢様はどちらに?」
「この先の柵の所にいる」
ここからでも柵は目に入る筈だが。
オレと話し出すきっかけを作りたかったのだろうか。
そうですか、と返事を返され、予想通り質問を続けてくる。
「件の約束は......どうなりましたか?」
その好好爺のような表情が不安の色に染まる。
オレはハッと笑みを浮かべて返答する。
「今オレと千歳が別々にいることが答えになってないか?」
聞かなくても、この男はオレがどうするかなんて分かっていそうなものだ。
「......そうですか。お嬢様には、このまま貴方に執着せず、新たな人生を歩んでいって欲しいものですね」
「同感だな」
それだけ言葉を交わし、男は主を迎えに行くべく野原の中へと入っていく。
その姿をしばらく見届け、オレは下山するべく野原を出た。