交わした約束 少年と少女
広大な真夏の星空に、明るく輝く三日月が佇んでいる。
その美しい光景を、オレは縁側に寝転びながら眺めていた。
この季節になるといつも思い出す。あの夏の日、オレは約束を交わした。
『必ず少女を幸せにする』
と。
今でもその気持ちは変わっていない。
もしその少女が望むのならば、オレはその子を幸せにしよう。
だが、できることならオレの前に姿を現さないでほしい。
その少女が悲しむことになるかもしれないから。
そんな思いを胸にしまいこみ、オレは立ち上がる。
明日は終業式。
そして明後日からは高校生活二度目の夏休みが始まる。
朝に待ち合わせもあることだし、もう寝るとしよう。
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十年前
青々と木々が生い茂り、その枝を足場にリスが駆ける。
木々の根本には青紫色の紫陽花が咲き、その葉の先端からは、先程まで降り注いでいた雨滴が垂れている。
僅かな雲の割れ間から漏れでる陽光が、そんな山の所々を照らしている。その山の中腹にある一つの病院。
その白い外壁は周囲の緑によってより際立ち、遠くからでも人目を寄せ付ける。
この病院には、重病人が大勢入院していて、自らの足で歩くことも儘ならない者が殆どである。
その病院のとある一室で、一人の少女がベッドで横になっていた。
小学校低学年程の少女は、仰向けに寝ていながらも、首だけを傾けて、不安げに病室から窓の外を眺めていた。
───────彼女の名は白峰千歳
県外のとある名家に誕生しながらも、生まれもっての病弱な体のせいで、幼少の頃から様々な重い病を患ってきた。
そのため、彼女の両親は、周囲を豊かな自然に囲まれ、空気が綺麗なこの病院へと、半年ほど前に入院させた。
しかし、その当の両親達は、仕事の都合などで少女が今いるこの地へは来ていない。
少女は単身この病院で寝泊まりしているのだ。
そんな少女は今、とあることを懸念していた。
その瞳に、不完全な曇天から漏れ出る陽光を映していると……
……ギィ
と、音を立てて少女のいる病室の扉が開いた。
不安げな表情を一転させ、パッと明るい笑顔で扉の方を振り向く少女。しかし、その入室者の顔を見ると、途端に表情を曇らせた。
「あら、失礼ね。人の顔を見てそんな表情するなんて。私、そんなに酷い顔をしてたかしら?」
咎めるようなことを言いながらも、入ってきた看護婦は穏やかな笑みを浮かべている。
そして少女がいるベッドへと歩み寄っていき、ベッド横に設置された椅子に腰かけた。
「お熱を計る時間よ」
そう言い、胸ポケットから取り出した体温計を少女へと差し出す。少女は無言でそれを受け取り、自身の脇へと差し込んだ。しばらく看護婦は少女の不安げな表情を見つめ、口を開いた。
「どうしたの? 何か悩みごと?」
コクンと頷く少女。
「…………もしかして、あのこと?」
しばらくして、またコクンと頷く少女。
「……そっか。まぁ、不安な気持ちも分かるけどね。でも、貴女には必要なことなのよ?」
宥めるように言う看護婦。
しかし、少女は今度は首をフルフルと横に振った。
「それもそうだけど......一番気にしてるのは勇也くんのこと」
「え?」
「私が気にしてるのは、勇也くんのこと」
その言葉を聞き、看護婦はフッと笑みを溢した。
「そっか……まぁ、そうだよね……彼にはもう伝えたの?」
またも首を横に振る少女。
「彼には伝えるつもりなの?」
「うん。ちゃんとお別れの言葉がいいたいもん」
決意を滲ませて言う少女。
「そっか」
そんな少女を、やはり看護婦は優しく見ている。
「もうそろそろ、彼が来る時間ね」
看護婦がそう言った直後、またも軋むような音を立てて病室の扉が開かれた。
そこに立っていたのは一人の少年。
体格は少女と同程度で、小学校低学年程度のもの。
そのみてくれどおりの無垢な笑顔を浮かべている。
「遊びにきたよ! シロちゃん!」
そう言い、ツタツタとベッドへと駆け寄っていく。
───────少年の名は八重雲勇也
少女がこの地へ来て、初めて交流を持った同世代の者だ。
ある日、少女が病院を抜け出し、山を下った先の街の公園でブランコを漕いでいた時に出逢い、それ以降、一人で闘病生活を続ける少女を気遣い、こうしてよく山を登りお見舞いに来ている。
そんな心優しい少年の登場に、思わず少女は頬を赤らめる。
そして、近くまで寄ってきた少年と挨拶を交わす。
「こ、こんにちは勇也くん」
「うん、こんにちは!」
恥ずかしがり声が霞む少女に対し、少年はハキハキと答える。
「今日はね、お花を持ってきたんだ! 前に来たときに、シロちゃんの病室に花瓶があったのを見たから」
そう言い、手に持っていた何本かの花を差し出す。
その花は、花屋で売っているような綺麗で可憐な花ではなく、いかにも道端に生えていそうな花だった。
「! ありがとう!」
そんな少年の気持ちが嬉しくて、少女は華やかな笑顔を浮かべた。
「うん! どういたしまして!」
その少女の笑顔を見た少年は、益々笑顔になっていく。
「ふふっ、あなた達、本当に仲がいいのね。妬けちゃうわ」
二人の様子を温かく見守っていた看護婦がそう言って微笑む。
そうしてしばらくの間、楽しい談笑が続いていたのだが……
ふと、少女が少年へと向き直る。
そして俯きながら、悲哀に満ちた表情で言葉を発した。
「あのね、勇也くん。……伝えたいことがあるんだ」
「うん、どうしたの?」
少女の心境など知るよしもなく、いつもと変わらぬ能天気な声で聞き返す少年。
「……あのね、私、外国の病院に移ることになったの」
小さな声で言葉を発する少女。
その目尻からは涙が溢れていた。
「……だから、もうお別れなんだ」
最後まで言い切った少女は、今まで堪えていた嗚咽を上げ始めた。少女のすすり泣く声だけが病室に響く。
少女の言葉を聞いた少年は、状況を飲み込めずただ呆然と立ち尽くすだけだ。
すると、その場を見ていた看護婦が、少女に続いて説明を続ける。
「勇也くんも知っての通り、千歳ちゃんは体が弱いの。このままだと、おそらく三年もせずに命を落とすことになるわ……でも海外のとある病院なら、もしかしたら助かるかもしれないの。だから、千歳ちゃんは一ヶ月後にはその病院に移ることになったの」
ひとしきり説明を終えた看護婦が口をつぐむ。
その表情には、少女と同じく悲哀が浮かんでいた。
事態を徐々に理解した少年が口を開く。
「じゃあ、シロちゃんにはあと一ヶ月しか会えないの……?」
そう言うと、少年の瞳からも涙が零れ出した。
しばらくの間、誰も口を開くことなく、ただただすすり泣きが響いていたが、突然少女が手の甲で涙を強引に拭い、少年を見据えた。
「ううん、あと一ヶ月なんかじゃないよ」
「え?」
少女の言葉の意味が掴めず、少年が聞き返す。
「最後なんかじゃないよ。だって、必ず体を治して、私は此処にまた来るから」
そう言って、少女は力強く笑った。
「でも、シロちゃんの病気は治らないって……前に……」
「それでも治すの! それで、必ず此処に戻ってくる! ……だから!」
普段では考えられないほどに強気な少女。
しかし、途端に頬を赤らめ、俯いてしまった。
「……シロちゃん?」
その少女の変わりように、少年は怪訝な表情を浮かべる。
少女は何回か深呼吸を繰り返したあと、こう言葉を続けた。
「……だから、その時は何かご褒美を頂戴?」
「ご褒美?」
「……うん。わたしは頑張って病気を治すから、そしたら……」
そう言って、またも口を閉ざしてしまう少女。
しかし、やがて決意の表情とともに言葉を発した。
「わたしを……幸せにして!!」
真っ赤な顔でそう言いきった少女。
対する少年はしばし呆然とし、やがて答えた。
「……うん、約束するよ。いつかまたシロちゃんに出逢ったら、その時は、シロちゃんを幸せにするって」
そして二人は笑顔で見つめあい、指切りを交わすのだった。そんな二人を見ていた看護婦が二人に話しかける。
「二人とも、また出逢う約束をするのはいいけど、出逢ったときにちゃんとお互いのことが識別できなきゃ意味がないわよ?」
「しきべつ?」
「えぇ、誰が勇也くんで誰が千歳ちゃんか分からないなんてなったら嫌でしょ?」
そう言って、看護婦は懐から何かを取り出す。
「だから―――――はいコレ。あなた達二人にミサンガをプレゼントするわ。これがあれば、どんなに時が経ってもお互いのことを見つけられるでしょ? あ、腕とか足にくくり着けてね」
ミサンガを受け取った二人は各々の腕へとそれを着ける。
しばらくそのミサンガを眺めていると、少女が口を開いた。
「じゃあ、約束だよ勇也くん。必ず、わたしを幸せにするって」
「うん、ずっと待ってるから」
一ヶ月後、少女は海外へと旅立ち、少年はその地へ残り、少女を待つと心に決めた
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現在
オレの前に一人の女が立っている。
頭にかぶっているその麦わら帽子と、着ている白いワンピースが、この季節にとても合っている。女はオレを優しく微笑みながら見つめている。僅かながら、その瞳も潤んでいるようだ。
オレと出逢えたことがそれほどまでに嬉しいのだろうか。
女はそっと口を開き、オレに問いかけてくる。
「......勇也くん、私と付き合ってくれませんか?」
頬を赤らめるでもなくそう言ってくる女。
まるで既にオレの返答が分かりきっているかのようだ。
対して、オレも微笑みを浮かべて返答する。
「断るよ」
ほんの少し、目を見開く女。
その微笑みが消える。
昨夜、あれほど出逢いたくないと願ったのに......
しかし、約束は果たさなければならない。
オレはこの女の子を幸せにするのだ。
本心からそう思っている。
しかし......それはオレであってはならない。
オレと結ばれるということは、この女の子には辛く苦しいことだから。