第三章 その2 再会
汚濁を詰めた街中を、スーツ姿と豊満美女が並んで歩いている。
「連中に連絡はついたのかい?」
と、ヘクマが訊いた。ヴェルミは頷きながら、不満げに鼻を鳴らす。
「ああ。でも、いいのかい? バトル当日まで手出し禁止なんだろう?」
「かまわないさ。こんな、辺境の流刑島――バカンスには最低にすぎる」
「アージ社の、あの女がうるさいんじゃないか?」
「べつに。アージ社なんて、うちに反抗はできないよ」
「……私でも、いいんじゃないか。あんな連中に頼まなくとも」
と、ヴェルミが言い募るのに、ヘクマはかぶりを振った。
「一応は、僕たちと関係がないことにしないとね。互いのメンツというものもある」
そうして彼は、意味ありげにヴェルミを見上げた。
「キミは戦いたいんだろうね、ユグドと」
「…………」
「かつて愛した男と──」
そう、ヘクマが言いかけた瞬間であった。
殺意が、吹き荒れた。
それは燃えさかる焔の如く、ヘクマは一瞬、世界そのものが、噴火口に落ちたのかと錯覚した。地割れから吹き出す溶岩に似て、意識を灼く灼熱の殺意。
ざっ、と、二人の周囲が丸く開く。悪所に住む罪人の危機意識である。
「──死にたいかい、ヘクマ?」
煉獄そのもののような殺意を前にして、だがヘクマは飄々と肩を竦めた。
「冗談だよ。悪いね。口が滑った」
その物言いに、ヴェルミが舌打ちをする。
「まったく、柳だねあんたは」
「はは。ともあれ──」
と、ヘクマはにこやかな笑みを浮かべた。
邪気なく、飄々と。
「じゃあま、ユグドには、さっさと死んでもらうことにしようか」
──夜道に渺々と風が吹いている。
薄闇を歩くユグドには、酒が入っていた。
千鳥足になるほどではないが、頭の中はどこか茫洋としている。
アルシュのビルを離れてから、その足で呑みに行った。
追いかけてきた過去は、ユグドに追慕の念を抱かせた。それを酒で紛らわせようとして、ついつい店に居着いてしまい、思っていたよりも遅くなってしまった。
サオリは心配している事だろう。まあ、構うものではないが。
いつもの店で、キープしておいた酒を呑んで、常連客や娼婦と話をして。
「……いつのまにやら。この街にも馴染んだもんだ」
ユグドが尊属殺人の犯罪者としてこの流刑島に流されて、もう二年になる。初めてガアプの街を見たときは、驚いたものだ。牢獄とは思えない島と街並み。朽ちかけたビル、バラック、無数に並ぶテント、そんなところに人々が、たくさん暮らしていた。
男も女もまとめて詰め込まれたグアナという牢獄も、管理もされず代を重ねれば人口は増える。人口が増えれば食い扶持も必要になるし、商売だってできるようになる。
それなりの秩序も生まれ、昼と夜の顔も出来て、営みというものが循環していく。
人間とは、逞しいものである。
「ハ。どうにも、感傷的になりやがるな」
頭を振って、とりとめのない思考を停止させる。
ようやく、古巣の連中が訪れたのだ。これからなのである。
どうして妹があんなことをしでかしたのか。
カモッラはどう関与しているのか。それを、知らなければならない。
空を見上げる。
天に浮く月は半円を描いて、灰色の雲海が流れるのを見てとれる。
──ふと。道の先に何か、暗い影が立っていることに、ユグドは気がついた。
道の真ん中に、こんもりと黒い山。なにか背の低いものが布地を被っているのだ。
(──なんだ、こいつは?)
追い剥ぎかなにかだろうか。治安の悪い街で、夜道に一人。強盗にとっては理想的なシチュエーションだろう。
「──見つけた」
嗄れた声だ。まるで老婆のようなそれが、黒影から漏れる。
そして黒影が飛ぶ。半月を遮ってひるがえる。
──ユグドへ向かい落ちてきた。
後方へ跳ぶ。
影の握るナイフがそれまでにユグドのいた地面を貫いた。
明らかな殺意。地面に食い込んだ凶器を影は引き抜く。
満月の光を照り返すそれは、ごっついコンバットナイフだった。
「ちっ」
舌打ち一つ吐き捨て、腰を落とす。軽く拳を握り、相対する。
「……俺ぁ、たいして金なんて持ってねぇよ? 割に合わねえと思うんだがなぁ」
とりあえず、声をかけてみる。無言。黒影の応えは、こちらに向けての疾駆。
(──速いな)
ユグドは素手だ。黒影は短躯だが、ナイフを手にしているから間合いは互いにほぼ同じ。だがこの影は、その布の内に何を隠しているのかわからない。
突き放そうと、飛び込む影に向けての前蹴り。爪先が影の内に吸い込まれる。
衝撃、だがそこに体躯を穿つ重みはない。
受けられたのだ。だがとりあえず、影の動きは止まる。
「シッ!」
ユグドが踏み込む。腰を回転させる。廻し蹴りが、影の胴体部に襲いかかる。
だがそれは、とっさに飛び下がる影の黒布を払いのけただけに終わった。
──少女の姿が、月光に照らされ浮かび上がる。
その顔は、まだ幼い。
「──────」
十一、二ほどだろうか。あどけない面貌は冷たく凍っている。
ユグドの髪に金を混ぜたような、ワインレッドのボブヘアが、風に揺れている。
「なん、で」
この腐った街にまるで似合わない、ゴシックロリータのドレスは、だが、風の捲く月下においてのみ、その退廃の美を燦然と輝かせるのだ。
「なんで、……お前が……っ」
黒と白の相克するその少女は、冷えた顔で──狼狽するユグドを見つめていた。
「ようやく、ようやく見つけた」
どろりと、その愛らしい唇から声が漏れる。老婆のような、嗄れた声。
老婆のような? 否──それは湧き上がる感情を、必死で抑えているが故である。
瞳は昏く煮えていた。
沸々と滾る感情を、その眼だけは如実に映し出していた。
柔らかな慈愛を秘めてユグドを見つめていたはずの、彼女の目が。
「ニ……ナ? ニナ……なのか?」
忘れようとも忘れられぬ、月下に咲く幼い花は、まさしくユグドの妹、ニナであった。
「ええ。そうよ。私よ、兄さん。ようやく会えたわね」
兄の呼びかけに妹が応える。その声は年相応の幼さを少しだけ取り戻して、だが込められた鬼気は肉親に向けるものではない。
憎悪している。憎まれている。
それも当然だろう、この兄こそが命を絶った張本人なのだから。
「……生きていたのか」
「因業なことに。良かった? 悪かった?」
小首を傾げて、答えにくいことを訊いてくる。死んだはずの、殺したはずの妹が、目の前にいる。幽霊と出会ったようなものだ。存在が信じられない。
「喜んではくれないのね。そうよね。だって兄さんが、私を──殺したのだから」
殺したのだから。殺したのだから。
脳内でリフレインする妹のコトバ。
「う──あ」
思考は痺れ、理性が頽れる。自身を暗闇に見失っていく。
「……何を、しに。何のために、俺の所へ、来た」
目的。そう、目的だ。
ニナは、ついと目を伏せた。二年前よりも睫が伸びていると、そんなことを思う。
「妹が会いに来て、何をしに来たっていうんだね」
「……それは」
「……よく、わからなかった」
と、ニナは言った。
「……実際ね。私、その時をことをよく覚えていないの。どうして私が、兄さんに殺されないといけなかったのか。その時に、何があったのか。ぜんぜん覚えていない。気がついたら、一人きりだった。だから、それを知りたくて。でも」
ニナの顔は、様々な感情が入り交じって、混沌としていた。
「兄さんの顔を見て……ああ、そんな疑問、ぜんぶなくなっちゃった。ねえ――」
そうして一つの感情が滲み出す。以前のニナには不釣り合いであったコンバットナイフがどうしてか、今の彼女にはよく馴染んでいた。
「どうして、私を置いて行ったの、兄さん?」
震える声を吐露する顔は、置いてけぼりを喰らって泣く子供のそれで、そこに兄はかつての妹を想いだす。仕事に行くからと、一人アパートに残されるニナ。
何日も何日も、ひとりぼっちにさせてしまった。
「っ、うっ!」
追想のシナプスに囚われて、刹那、間合いに潜り込んできたニナへの対処が遅れてしまう。腹腔へ突き出すナイフは何とか避けられたものの、その時、「何か」に足を払われて、地面へと押し倒されてしまった。
「あっ、つっ……」
呻くユグドの腰の上に、ニナが乗っかってくる。
月光を背後に、少女は兄を組み敷いた。
(──なんだ、この、ちから。それに、重いっ……!)
ニナの体はずしりと重くユグドを圧迫する。明らかに見た目の体重を超えている。彼女の背負っている、真っ赤なバックパックに、なにか重いものでも詰まっているのか。
「……兄さん」
ニナが上体を屈め、顔を寄せてきた。
あまりにも懐かしい妹の顔だ。
「兄さん、兄さん、兄さん、兄さん──おにい、ちゃん……」
生暖かな吐息が頬を撫でる。ナイフを持たない左手が、胸板を撫でる。
「ねえ、兄さん。──殺して、いいよね?」
ニナが訊く。果たしてユグドの胸中を満たすのは、柔らかな諦観であった。
(──ああ)
彼女に殺されるのならそれもいいかと、そんなことを、思う。
「そうしたら、私も死ぬから。一緒に、ね?」
あるいはそれをこそ望んでいたのかもしれない。
ニナがナイフを振り上げる。ユグドは他人事のようにその行為を眺めていた。
──ぎぃんっ!
いましも彼の命を奪おうとしていたナイフが、その時飛来した鋼に弾かれる。上体を跳ね起こすニナが、ユグドの上から飛び退いて、その残像を肉切包丁が切り裂く。
ユグドの枕元に生足が現れた。白くぬめやかな肌である。
サオリが、そこにいた。