第三章 その1 夢
「ねえねえ、お兄ちゃん。どう、この花。綺麗に咲いたでしょう」
ニナの顔に浮かぶのは可愛らしい笑顔。彼女の小さな手の平は、丹誠込めた花園を誇らしげにユグドへと披露している。
二人が暮らすアパートはベランダが広くて日当たりも良好。家庭菜園をするのには、うってつけの住環境だ。そのベランダに咲き誇る赤い薔薇は、一輪一輪が艶を帯びて、艶めかしくすらある。
丹誠と根気を込めて造りあげた小さな薔薇園は、妹のご自慢だった。
「ああ。まったく大したモンだ」
素直に褒めてやれば、ニナはその薔薇に劣らない愛らしい笑顔を見せてくれる。彼女の育てた花よりもその顔を見ている方が好きなのは、内緒だ。
ニナは薔薇の一つ一つに、良く育ったね、とか、お前はもう少しだね、とか声をかけてあげている。そうすることで、綺麗に咲くのだと信じているのだ。
微笑ましい光景だった。
「お前本当に、薔薇が好きだよなぁ」
「うんっ。だって、お兄ちゃんの髪の色と一緒なんだもん」
そう言って朗らかに笑う妹を抱きしめたくなる。
最愛の妹、ニナ。
ユグドにとって何よりも大事な存在だった。
彼女を守るためならばなんだってできる。それはすでにユグドの存在意義と化していた。
──ポケットの中で野暮を知らせるバイブが鳴る。
仕事である。
「うげ」
うめく。今日、仕事の予定はなく、ニナにも一緒に居られると言っていたのだが。
ぼりぼりと髪を掻きつつ、ユグドは言い難いその事実を告げる。
「お兄ちゃん……また、なの……っ!」
先ほどまでのご機嫌が一転、ニナは、不安げに眉をひそめて見上げてくる。
「え、と。ごめん。なるべく、早めに帰ってくるから。許してくれ、な」
両手を合わせて拝み倒す。
だがニナの顔に浮かぶ不安の色は消えない。
「お兄ちゃん。お仕事って……大丈夫、なの」
――妹に、自分がなにをしているのかは教えていない。
知る必要すらないことである。
そのことでニナが、不安を抱いていることは知っている。
「大丈夫だ。ただのゴミ処理だぞ。湾岸に溜まったのを、片づけて欲しいそうだ。まったく、カモッラの連中は、テメエらで受けた仕事もまともにまわしゃしねえ」
おどけたように言って、妹の頭を撫でてやる。
「……うん。わかったよ。待ってるからね、お兄ちゃん?」
「ああ、早めに帰るから、飯でも作ってまっててくれや」
頷いて、背を向けた。
「……お兄ちゃんっ」
玄関のノブに手をかけたユグドの背中に声。首だけを回してそちらを見やると、薔薇を背にした妹が、ユグドを引き留めるように、右手を伸ばしていた。
その手が上がって、ばいばい、と振られる。
綺麗な薔薇を育てる妹。
その兄が向かう先が、赤い薔薇を散らせる世界だとは何の皮肉か。
「……じゃあな。いってくるぜ」
片手を上げて、扉を開く。
さて、これから一仕事である。ゴミ処理の、時間だ。
目が、覚めた。
「……なんつう、悪夢だ」
ソファへ横たえていた身体を起こして、ユグドは苛立たしげに赤い頭を掻く。
窓の外は暗闇で、朝日を拝むにはまだ四時間はかかる。サオリは床に敷いた毛布の上で寝息を立てている。時折聞こえる、「お兄様、そこはらめぇ……」とやたら色っぽい寝言は、果たしてどんな桃色ドリームを見てのものだろうか。
嘆息する。寝直す気にはならなかった。
ソファに座って、天を仰ぐ。
古い夢であった。
ただ一人の妹、その存在を守ることだけが全てであった時間がユグドにはあった。
妹を、ニナを守りたかった。いつまでも守っていたかった。
そんな兄としての矜持を胸に、ユグドは自身のできる精一杯で生きてきた。
だが現実は非情なものだ。
守るべきものを自らの手で壊し、何もかもを台無しにして、ユグドは今ここにいる。
まだ未練が残っているのか。懐かくも暖かい、あのひとときが忘れられないのか。
(……忘れられるはずもねぇわな)
そう、忘れる事などできはしない。砂浜に作られた砂の城は、幾度も波に洗われてその形をなくしてしまったけれど、城を造ったのだという、その事実は消えはしない。
ひたむきに生きた過去。それこそが、今のユグドを形作っているのだから。
「にしても……」
ここしばらくは見ることのなかった夢だった。なにか今日、特別に、過去への感傷に触れてくるような出来事があったわけではない。それなのに、何故だろうか。
それはもちろん偶々なのだろうけれど──どうしてかユグドは、これからまったくろくでもないことが起きるような、そんな予感をひしひしと感じていた。
次のバトルが決まりそうだと連絡を受けたのは、明くる日のことである。
「……こき使ってくれるねェ。わかった。すぐに行く」
嘆息しながら、アルシュからの連絡係にそう伝えて帰させる。
バトルが決まればアルシュの元へ赴いて、バトルの日付や相手のデータ、現場となる場所や報酬額など、ある程度の打ち合わせを行う必要があった。囚人同士の相争いといえど、まったく野放図というわけではない。
「つうわけだ。サオリ、留守番を──」
「私も一緒に行きます、お兄様」
ユグドのセリフを遮って、サオリが立ち上がる。
「いや……」
サオリとアルシュが顔を合わせる。非常に胃の痛む話だ。
ユグドに対して近づいてくる女にサオリは容赦がない。威嚇し、睨み、事によっては暴力すら辞さない──対象がこと女に対しては、サオリは肉切包丁から質の悪い番犬へと早変わりする。
「その、なんだ。まあ打ち合わせだけだし。大丈夫だって」
「駄目です。お兄様に何かあったら、私、生きてはいけません」
と、お出かけの準備をはじめるサオリの荷物はよく研いだ肉切包丁のみ。絶対に、着いていくと物語るその態度に、ユグドは朝も早くから疲れを感じ始めていた。
とはいえこのままサオリを連れ歩くわけにはいかない。たぶんもっと疲れる事になる。
「──なあ、サオリ」
彼女の傍に歩み寄り、その黒髪を手に取る。
「お、お兄様……?」
「一緒に来たいという、その気持ちはとても嬉しい。でもね、サオリには、この家を守っていて欲しいんだ。帰ったとき、お帰りなさいって言ってくれる、俺はそんな存在が欲しいんだ」
「え、えっ……そ、それって、つまり、お嫁さ──」
「だからさ」
墨のように黒く艶やかな髪にキスをする。にゅひぅと奇妙な鼻息が聞こえた。
「サオリにお願いしたいな。疲れた俺を出迎えてくれる、その役目を。だめかな?」
顔に、ほんのわずか憂いを秘めて眉をひそめて見せる、これがコツ。
するとサオリは、胸の前で手を握り、頬を赤らめ嬉しそうに、
「いえっ! いえいえいえいえいえいえいえいえいえいえっ! 我が侭を言って申し訳ありませんでした、お兄様っ! 私、ここに居ます。私が家を守り、お待ちしておりますから、お兄様は後顧の憂いなく、お役目を果てして下さいませ」
キラキラと輝く黒瞳を向けてくるのだ。ユグドは愁眉を開くと、
「そうか。じゃあ、頼まぁ。行ってくるぜ」
ひょいと手を挙げて、家を出る。
──なんというか、まったく、ちょろい。
いつか自分以外の誰かに騙されやしないかと、心配になるほどだ。
そんなことをつれづれ考えていると、やがてアルシュの住まうビルに辿り着く。
周囲をスラムに囲まれて、そのビルだけは場違いな威容を放っていた。朽ちかけた墓石の群れ、そのただ中に大理石の墓をおったてたような、そんな場違い。
正面玄関にはカウンターがあり、社員が居て、来社の目的を訊いてくる。まるっきり、まともな会社のようではないかと苦笑しながら、エレベーターに乗り込む。
最上階から一つ下のフロアが、アルシュの事務室だ。ついでに言うと最上階のまるまるワンフロアが彼女の住居である。
「よ。来たぜ」
「はぁい。なにか手みやげくらいはないのかしら?」
ノックもせず扉を開いたユグドに、アルシュは気軽に応じる。机の上にはいくつもの書類が堆積して、彼女は常にそれと向かい合っていた。
「生憎と。俺の顔が土産だと思ってくれ」
「それはそれは。上等な土産ね」
肩をすくめて彼女の前に立つ。アルシュは、いつも以上ににこやかで、だがその様子はユグドに警戒心しか抱かせない。彼女の上機嫌とは、餌を前にした肉食獣のそれなのだ。
「それで? もう、次の相手が決まったのか?」
「ええ。それも、相手からのご指名よ」
「……へえ」
その言葉にユグドは口の端を吊り上げる。
この酔狂な殺し合いに、出場したがっている者は意外と多い。バトルに出場したというだけでも箔がつくし、勝てばそれなりの報酬もいただける。元々が犯罪者の集まりである。荒事には、自信のあるものも多いだろう。
指名。つまりは──ユグドとサオリになら勝てると、そう思われているのだ。
それはそれで結構。侮られていた方が戦いやすいというものだ。
「それで? 相手は、どんな奴らなんだ?」
「その前に。あなたに、会いたいという人がいるの」
ほら来たとユグドは身構える。アルシュの上機嫌には嫌な予感しかしなかったのだ。
「案内して」
備え付けの内線に、アルシュが命じる。
ほどなく扉の外から、連れてきましたと声がした。
入りなさい、とのアルシュの声に、扉が開く。
ユグドも、そちらに身体を向けて──
「…………おい」
過去が、蘇る。
刹那、頭蓋の内に広がった、赤く生臭い情景に目眩を覚えた。
「シニョーレ、アルシュ。お会いできて嬉しいよ。評判どうりにお美しい」
軽薄な声が、執務室に響き渡った。
茶色の髪をオールバックに撫でつけた、スーツ姿の男。顔つきの細い、優男だ。オーダーメイドのスーツは均整の取れた彼の体格にぴたりと合って、胸ポケットから垂れ下がった懐中時計の銀鎖と、派手に過ぎない銀のカフスが洒脱である。
高級そうな皮靴で、床を踏みしめ歩み寄るそいつは──
「そうして、久しぶりだね、ユグド。元気そうでなによりだ。君に再会できたことは、僕にとってたまらない喜びだよ」
「……ああ。久しぶりだ。ヘクマ」
ユグドの良く知っている男であった。
「ヘクマ・ルッソーニ……またお前の顔を見ることになるとは思わなかった」
渋い顔をして、ヘクマに応じる。
彼はその軽妙な笑みを崩さない。
「まあまあ、そんな顔をしないでくれよ。久しぶりに会えたのに」
「は。……ま、いいや。あんたが、俺をバトルに指名したのか」
「うん。いやだってさあ、君、目立ちすぎだよ。テレビやネットであんなに姿を晒したら、そりゃあ上だっていい気はしないさ。変装でもしてればよかったのに」
やれやれ、ヘクマは首を振り、
「ま、そういう訳で。僕が、君の始末を命じられたというわけさ」
実に気軽な様子で、彼はユグドの死を受けたと言った。
「……そうかい。中間管理職も大変だな」
「まったくだ。さて、シニョリーナ。バトルの段取りなど、教えて貰いましょうか」
アルシュマの要求に、ユグドも彼女のほうを向く。
「バトルは一週間後。場所や対戦データはこの書類に記載されている」
と、アルシュが大きめの茶封筒を二人の前に差しだした。
「過去からの因縁。かつての仲間が敵にまわる。ふふ、いい広告が打てそうだわ。今回のバトルは、とてもよいものになりそう。ああ、愉しみだわぁ」
期待に大きな胸を揺らして、アルシュは浮かれている。視聴率至上主義である彼女の、上機嫌の理由は、その対戦相手がユグドと因縁があるからであった。
「バトル当日まで、お互い手出しは厳禁よ。毛ほどの傷も付け合っちゃ駄目。じゃないと、キッツいペナルティを課すからね」
「わぁってんよ」「了解しました」
頷いて、二人して退室する。
当然の成り行きながら、二人で一緒のエレベーターに乗り込む事になる。
狭苦しいエレベーターに、因縁の相手と二人きり。だがことヘクマにおいては、そんな微妙な状況なんて口を紡ぐ理由にもなりはしない。
「それにしてもこの島は熱いねえ。スーツだとたまらないよ。魚の臭いがひどいし。あのアルシュって女は美人だねえ。ユグド、彼女のプライベートナンバー知らない?」
「……知らねぇよ」と、肩を竦めて。
「んで? お前は、今、カポか?」
訊く。カポとはカモッラにおいて、幹部クラスに相当する。
「うん。それなのに、ねえ。こんな僻地まで来ることなった。しくしく」
「出世したもんだ。んで? 俺を始末できなきゃあ降格か?」
「そうだろねぇ。だから上手いこと死んでくれよな」
「……相変わらずだな、お前」
呆れたように、ユグド。ああそうだ、こいつは昔からこういうヤツだった。
「……一緒に戦ってた黒髪の女の子。キミの女かい?」
意味ありげなヘクマの目線が舐めるようだ。
「んにゃ、そういうのじゃねえよ。ま、相棒ってとこか」
「ふうん、そうか。……ニナちゃんと、なんか似ていたから、さ」
ユグドの中の何かを推し量るような、ヘクマの台詞に押し黙る。
胸中に湧き上がるざわめきを克己にて押し殺し、
脈動高まる心臓を自己制御で沈ませる。
「あいつのことは、忘れた」
掠れきったその呻きに、ヘクマはひょいと肩を竦めて見せる。
その目ははっきりと、こう言っていた──下手な嘘を、と。
エレベーターがすうと停止する。一階だ。ゆっくりと、扉が開く。
「それじゃあな、ユグド。正々堂々と、勝負をしようじゃないか」
と、片手を上げて先をゆくヘクマ。
その先に、一人の女が待っていた。
「……正々堂々が、聞いて呆れる」
うめく。
あまりにも特徴的過ぎる、ショッキングピンクのボブヘアー。モデルのような長身に張り付いた、拘束具じみたレザースーツは豊満な形を描いて男の目を魅了する。その女が全身から発する蠱惑的な色香は濡れた毒蛇に似てどこかグロテスクで、真っ赤な口紅で彩られた口唇は、ユグドに向けて牙を剥いていた。
それが女の笑みなのだ。
「ヴェルミローザ……こんなとんでもねぇモン、連れて来るんじゃねえよ」
無骨なブーツを打ち鳴らし、近づいてくる女──ヴェルミから、ユグドは一歩退く。
無意識に間合いを取っていた。
「おや、つれないねぇユグド。あんたと私の仲じゃないのさ」
ヴェルミが見下ろしてくる。業腹なことに、ユグドより背が高い。
「ふふ。ユグド。まさか、あんたと戦うことになるとはねぇ」
──冗談ではない。
胸中で毒づく。こんな化け物と戦うなどと、考えたくもなかった。
「そんなに怯えなくてもいいじゃないか。こんないい女を前にして」
「……いい女すぎてな。俺みてぇな草食系には、毒がキツすぎるんだ」
「っ、はっ、かはははははははっ!」
ヴェルミが胸を揺さぶり豪快に笑う。
「なぁに猫被ってんだか、なあユグド? あんたに比べりゃ、誰だって──」
「ほら、そこまでにしておこう、ヴェルミ。勝負は一週間後だ。やる気はその時までとっておいたほうがいいんじゃないかい」
横合いから声を差すヘクマへ、ヴェルミは頷くと、
「それじゃあね、ユグド。ファミリー・バトルで、会えたらいいねぇ」
ヘクマと二人、去っていく。
その後ろ姿を目で追いながら、ユグドは深々と嘆息する。モンスターと戦うことになった運命を呪い、旧知の相手に死を願われるこの身を厭う。
……けれど彼の顔に浮かぶのは、隠しきれない歓喜の笑みだ。
「──ようやく、来たか」