第二章 その2 帰宅
炭坑と漁業とで栄えていた頃、グアナにはガアプという街があった。
漁業を行っていたのは元から島にいた人々が中心だが、炭坑で働こうという人間は、ほとんどが各地から流れ流された食い詰め者だ。そんな彼らが好き勝手に家やら小屋やら建てまくって、やがてガアプの街を造りあげた。
古い町だ。
立ち並ぶ粗末ばかりの小屋には、だがそれでもさまざまな人間がたくましく暮らしている。籠いっぱいの魚介類を地面に並べて、売っている男。魚なんだか蛇なんだかよくわからないものが、籠の中でにょろにょろと絡み合い、たまらない生臭さを放っていた。
ひたすらにミシンを廻しているおばちゃんもいる。彼女の生み出す、ボロ布から生み出される衣服は、おばちゃん独特のファッションセンスが輝く逸品である。
居住者がひしめき合う小屋の合間は巨大なゴミ捨て場。堆積し、地層を成すゴミの山を、子供達が漁っている。肉片のついた骨などは、なかなかのご馳走なのだ。
クスリをキメた男が道ばたに座り込んでいる。口を半開きに、呆然と天を仰いで、なにやらぶつぶつと呟いて、なかなかにイッてらっしゃるご様子だ。欠損した片手と片足は、今、彼を天国に引きずりあげてくれている天使様と交換したのだろう。
「や、やあ、ゆ、ゆぐ、ど。バトル、お、おめでと。肉、ど、どう?」
と、たどたどしく声をかけるのは、樽のように太った、顔なじみの肉屋だ。
ブルーシートを敷いただけの地面に、解体された生肉が山と積まれて売られている。蠅が大量に飛び交い、取りすがるその肉は果たして牛か豚なのか、あるいは犬なのか猫なのか──もしかすると、もっと大きくて知的な二足歩行の生物なのかもしれない。得体の知れない謎肉は、百グラム九十八ラダーとお買い得だ。
「ああ、いいなあ。んじゃ、ちいっと包んでくれよ」
赤身の濃い塊を指さして注文する。
「さ、ささ、サオリちゃんは……だ、だいじょう、ぶ?」
「ああ、もうぴんぴんしてら」
「ま、また、アルバイトにきてっ、て、いっといて、よ」
と、ちょっとばかりおまけまでしてくれた。
「あらユグド。どう、今夜?」
家路の中途には、露出度の高い格好で街角に立つ娼婦たちの通りがある。
値段と外見とが比例する彼女らが、蟻が砂糖にたかるみたいに群がってくる。ユグドが、報奨金を手にしたばかりと知っているのだろう。
「やめとくわ。他の女の匂いさせると、後が怖いからな」
それになにより──今日はサオリと一緒でないからだ。
サオリがいるとそもそも女が近寄ってこない。ユグドに近づく女には、殺意の籠もった一睨み。それだけで、危険なものには触れるべからずと女の方から去っていく。
「ああん、もう。あなたの戦いっぷりで、濡れちゃったのにぃ」
と、しなを作って誘うのはAランクの極上女だ。
「安くするわ。あんたなら、今日はタダでもいいわよぉ?」
濡れた声音が股間に絡みつく。豊満な胸、でかい尻。男を喜ばせるためだけに産まれてきたような身体だ。だが、サオリの顔を思い浮かべ、「悪いな」と首を横に振る。
今のところサオリは、有用だ。下手なことで機嫌を損ねるのもよろしくない。
「また今度な」
手を振ると、「期待してるわよ」と投げキッス。それを受け取って家路につく。
ユグドとサオリが暮らすのは、二階建ての、元は何かの事務所であったのだろう建物だ。
丸々ひとつ譲り受けて生活している。
これもバトルに参加して勝利することで得られる恩恵の一つである。
自分たちの暮らす、その建物を見上げ――ひとつ、嘆息する。
サオリが、待っている。
「さて──今日もせいぜい、優しくしてあげますか」
ユグドにとって彼女はただの人切り包丁だ。それ以上でも以下でもない。有用だから、優しくするし、体調や健康にも気を使う。
そうしていたら、いつのまにか懐かれていた。
──初めて会ったときのサオリはまるで人形のようだった。問いかけにも僅かな返事をよこすだけで、視線すら、合わせようとしなかったのに。
「よぉ、帰ったぞ──」
「お兄様っ、お兄様っ! ふぁああっ、クンクンっ!」
……なんでこう、人様の洗濯物を鼻に押し当てて、匂いを嗅いで興奮するような、そんな娘に育ってしまったのだろうか。
「お兄様、いい匂いですぅっ! んんっ、ああっ! 頭、頭が焼けちゃうううっ! ンンン、クフゥウウン! スーハースーハー、ふああっ! 天国が、天国が見えてくるっ……お兄様の下着の向こうにヘヴンが見えるぅう。はうううう~~~んっ」
部屋の奥、据え付けのソファに寝転がって、激しく身悶える少女が一人。左手にユグドのトランクスを握って、右手はスカートの中に突っ込んでいる。
サオリは制服姿だった。もぞもぞとミニスカートの内側が蠢く様は小動物が紛れてでもいるかのようで、まあなんというか情熱的だ。
「お兄様……お兄様……わたし、わたしぃっ、お兄様ぁあっ!」
懸想する本人が帰宅したことにも気づかすにひたすら自慰に励んでいる。赤らんだ頬、潤みきった瞳、華奢な四肢が快楽に悶える様は、それなりにエロティックだ。
「あー、もしもし? サオリちゃん?」
「お兄様ぁ……! 大好きですぅ、お兄様ぁあっ! あ、ああーっ!」
ビクビクッ! と少女の身体が痙攣して、虚脱する。
蕩けきったその顔はなにかをやりとげた求道者のそれに似て満足げだ。
「ああ、またお兄様のでイッちゃいました……私ったら、ほんとうにもう」
「またっつーのは、いままでもやってたってことか?」
「はにゅんっ!?」
ようやく届いた兄の声にサオリがウサギのように飛び上がった。
「お、おおおお、お兄様っ!? い、いつからっ……」
「結構前からだが。お前ぜんぜん気づきゃしねえし」
嘆息してみせると、ばたばたとこちらに駆け寄ってきた。
「も、申し訳ありませんっ! その、お兄様の声が、聞こえなかったわけではないのですっ! ただその、頭の中のお兄様の声と混じり合ってしまってあのそのっ!」
「ああわかったわかった、もーいーから」
「いえ、それでは私の気が済みませんっ! 罰を与えてくださいっ!」
と、サオリは、ドアの隅に立て掛けてあった防犯用の金属バットを手に取る。
「これでっ! これで私のお尻を撲って下さいっ!」
それをユグドに押しつけて、自分は四つん這いになると尻をぐいっと持ち上げた。
「………………………………………………」
ひたすら途方に暮れて、ユグドはフルフル揺れる小ぶりな尻に向かい合う。この女、罰を与えてなんぞとほざいてはいるが、どう考えてもプレイの一環だ。
とりえあずその尻を踏んづけてみた。
「ああんっ」
響く甲高い声にはあきらかな悦びの彩がある。
そのままサオリの尻を蹴り飛ばした。ごろごろと床に転がされてそれでも嬉しそうだ。
「お兄様ぁん……」
このドMめ。
嘆息し、サオリの横を素通りすると、買って帰った生肉を冷蔵庫に収める。
「あらお兄様、言って頂ければ、買い物なんて私が行きましたのに」
立ち上がるサオリは澄まし顔で、このへんの切り替えの早さは大したものだ。
「……なかなか、似合ってんな、それ」
「あ。えへへっ、そうですかっ」
照れながらくるっと廻るサオリの制服は、いわゆるジャパニーズスタイルだろうか。濃紺ベストと白い半袖シャツに、首元の赤いリボンが可愛らしいアクセントである。
チェックのプリーツスカートはひどく短めの膝上二十センチ。ちょっと動いただけでひらひらと、目に毒なほど揺れ動いてくれる。
どこか青春の匂いを残すしなやかなサオリの身体に、その制服によく似合っていた。
レベッカが着ていたものだ。彼女の血は綺麗に落ちていた。ガアプの街では流血沙汰など日常茶飯事で、哀しいかな、布地から血を落とす技術もそれなりに進んでいる。
「お兄様、こんな格好が大好きだというので。どうです、嬉しいですか?」
「まあ、悪くはねえんじゃねえの」
あくまで見目で言えば、サオリは上等の部類だ。
「それではお兄様……い、いつ襲いかかって来ても、良いのですよ?」
「いや、襲わねぇよ」
「私のこの青いバディを思うさま陵辱して下さいませ。どんながいいですか? こちらから積極的に? それとも、人形みたいにじっとしているほうが好みですか?」
「ああもう、落ち着きやがれっ!」
ハァハァと鼻息荒げ迫ってくる馬鹿女──その目がすぅと細まった。
「……お兄様。アルシュに……抱きつかれでもしましたか」
いやなんでわかる。
「あの女の匂いがします。濃い、薔薇の匂い」
サオリの声が硬くなる。瞳が危険な色を帯びる。
「この間のバトルの報酬を受け取りに行っていただけだ。問題ねえよ」
「お兄様、あの女にあまり近づいてはなりませんよ。あの女は──危険です」
「わぁってんよ、そのくらい」
視聴率を稼ぐためなら、どんな事でもする。人間の悲哀、憎悪、そんなものは彼女の内ではドラマを彩る添え物に過ぎない。アルシュとはそんな女だ。番組を盛り上げるために重宝されているとはいえ、ユグドとて利用されていることに違いはない。
サオリの物言いも、むべなるかなというものだろう。
「それと腐れマ○コどもの匂い。図々しくもお兄様に近寄ってきたのですね」
いつのまにやら手品のように、右手に出現した肉切包丁をぎりりと握りしめている。
放っておけば飛び出して行きかねないサオリの肩を掴むと、
「あんな女どもはどうでもいい。俺には、お前がいればいいのさ」
瞳を見つめて、その頬を柔らかく撫でてやる。
「も、もうっ、お兄様ったらぁ。えへ、えへへっ」
とたんに顔を赤くしてタコみたいにぐねぐねと身体を揺すりサオリが照れた。
ちょろい。
「お、お腹すきましたでしょう? 食事にしましょう、食事に。そ、それで、精をつけてもらって、今日こそお兄様に……きゃっ」
プリーツスカートを翻して、キッチンへと駆けていく。しなやかな両脚とチラチラしているピンク色のショーツをなんとはなく眺めながら、ユグドは胸中で苦笑する。
まったく、扱いやすい女ではある。