第一章 その2 制服とチェーンソー
「こーらー、待てー。まーてーよーっ」
「待てるかボケけぇえッ!」
ユグドは走りながら、唾を飛ばして言い返す。
空は曇りで日の光は薄い。じめっとした空気が周囲を包み込んでいる。どこか、廃棄された工場の敷地内だろう──表面の剥落したコンクリートの建物や、雨染みに黒ずんだプレハブ小屋、錆び付いた車が放置され、もののあはれを感じさせる。
ひび割れたコンクリ床を蹴りたくり──ユグドは必死に走っていた。
真っ赤な髪の、目つきの悪い男だ。全体的に痩せ気味である。引き絞った、体つきだ。
そんな彼――ユグドはいま、汗だくの逃走を行っている最中である。
「いいから逃げるなー! 肉えぐらせろー」
どこかとぼけた物言いに重なるのは、唸りを上げるエンジン音。
チェーンソーである。大木なんかを切る、あれだ。
「待ーてー」
女の子は重そうなチェーンソーを軽々と振り回しながら、逃げるユグドを追いまわすのだ。
「腕断たせー。脚断たせー。腹割らせー」
「いやいや怖いっ! 怖いっつーのっ!」
なんなんだよ、と呪うようにうめく。
まるっきりカートゥーンから抜け出てきたような女の子だった。
得物が、チェーンソーだということはまだいい。いや良くはないが。
唸りを上げる木材切断器具を軽々と振り回すのが、「あいつ」と年の頃が似通った女だということにも首肯しよう。そもそもあいつからしてまともな女ではないのだから。
だが、チェックのプリーツスカートとブレザーという、女子高生な格好と、さらにはその面貌を、真っ白なホッケーマスクで覆っていては、もうどうしたものだろうか。
チェーンソーはなにかごてごてとビーズやらキーホルダーやらでデコレーションされて可愛らしさなぞを演出していた。
「ねえー。逃げないでっ、てばー」
膝上二十センチくらいのミニスカートから健康的な生足を晒して、レベッカと名乗った女に追い回されている。というか、追いつかれそうだ。
「つか足速っ! ヤベっ……!」
目前に工場の入り口が見えてくる。ようやくそこへと跳び込んで──
「てやー」
イマイチ気の乗らないかけ声とともに振り回されるチェーンソーを、しゃがみ込んでかわす。振り抜かれたチェーンソーは、壁をがりがりと引き裂いて――食い込んだ。
「あれー。とれないー」
「いまだオラぁああっ!」
動きを止めたレベッカを見やり一気呵成。拳を振り上げ襲いかかる。だが。
「うそー」
チェーンソーはまるで豆腐を斬るかのように壁面を切り抜いて――
「うおぉおおおおっ! あっぶねぇええっ!」
ユグドの目前、もう眼球のスレスレを唸りをあげるチェーンソーが薙いでいく。
顔を引きつらせながらユグドは、ごろんごろん転がり距離を取った。
「ひぃ、ひぃい……」
「ふふーん。私のモップゲラ君を舐めないでよぉー」
と、実際の所、あり得ない切断力を見せつけたチェーンソーにレベッカが頬ずりをする。
まともに木を切るためのものではないだろう、よほど、危なっかしいチューンナップが施されているようである。
「ち……ほんと、なかなかステキな切れ味ですこと」
皮肉げに言い捨てて、立ち上がる。
「……白か。いいね。わかってるね」
「んー?」
ホッケーマスクが小首を傾げる。なんか可愛い。
「いやまああれだ。そんな短いスカートで動き回るもんだから、なあ?」
にやにやと笑うユグドの目は少女の股間に伸びていた。
「あー。エッチだー」
と、レベッカは挑発的にスカートの裾をつまみ上げてみせる。
「やっぱり制服には白でしょー」
「いやまったく。紫とか赤とか履くヤツぁ、わかってないよな」
ねー、と、二人して頷いた。
「ふふふー。意見も合ったところで、またいくよー」
レベッカが地を蹴る。短いスカートがひらりと舞って、肌色も艶めかしい生足やら、白く清らかな下着やらをはしたなくも見せつけながら跳躍する。
ぎゅいんぎゅいん唸るチェーンソー。落雷が如き上段からの打ち下ろしだ。
その軌道からユグドは斜めに一歩足を運んで避ける。刃が、空しくも床のコンクリートを削り──
「っらぁっ!」
容赦のないヤクザキックがいたいけな女の子の下腹に叩き込まれた。
「げほっ!」
舌と涎を吐きながらレベッカが膝を落とす。
追い打ちにと顔面に横蹴りを撃ち込もうとするが、それは避けられた。
「ん、ごほっ……」
咳き込みながら、恨みがましい目線をマスクの向こうから放ってくる。
「ひ、ひーどーいー。女の子のお腹を蹴っちゃいけないんだよー」
「悪いがマスクにチェーンソー装備の殺人鬼は女の子のカテゴリに入らねえんだ」
ふん、とユグドは鼻を鳴らした。
「殺人鬼って、ひどいなー。十人も殺してないよぉー」
「十分だと思うが。それにあれだ、死体、ぐっちゃぐっちゃだったらしいじゃん?」
呆れたように、ユグドは苦笑する。
九人連続通り魔殺人。それはレベッカ・マクレディの犯した罪である。
夜となく昼となく現れては、無惨極まる死体を量産した殺人鬼。男も女も子供も分け隔てなく、血と肉と臓物を分け隔てた、それが目の前にいるレベッカという少女だ。
「えへへ。だってー。モップゲラ君が、そうしたいっていうからー」
彼女は愛おしげにチェーンソーを撫でている。人を斬って、抉って、潰して壊しまくった、その時でも思い出しているのだろうか、その声は、どこか恍惚としていた。
「楽しかったなー。あのねあのね、お腹を割るとね、ぷりゅんって腸が飛び出してくるんだよ。寒い時期なら、ほかほかの湯気が出てたりして、それを見てると私もほんわかしてきちゃうんだー。あんなに楽しいことなのに、やっちゃダメなんて、なんでー?」
「あー、ま、楽しすぎることってのは、大概禁止されてるもんさ」
「なるほどー。そういえばそうかもー。だからあなたもここにいるんだねー」
「……いや、お前さんと一緒にされるのは、さすがにその、心外だなぁ」
頭を掻いて、苦笑してみせる。
だがレベッカは、そんなユグドに小首を傾げ、
「えー? だってあなた、私なんて比じゃないくらい殺ってるでしょー?」
「……さぁて? 何を言ってるのか、わからねえが」
「わーかーるーよー。私にはわかるんだもんー。すっごい、血の匂いがするよー?」
マスクの向こうからフゴフゴと聞こえる鼻息は、実在しない匂いを嗅いででもいるのか。
「ぷんぷん匂ってくる。あなたの後ろ、死体ばっかり。すごいなぁー」
本当に、心底から、感心したような声だった。
「兵隊さんじゃないよねー? なんか違う感じー。どうしてそんなに死体をひきずっているのかなぁ?」
興味津々な問いかけは、疑問を親に問う子供のようだ。だがそんな子供の疑問というのは、時として物事のありようを深く抉ったりもするのだろうか。
「……ちっ」
ユグドは小さく舌打ちすると、
「……あー、もういいから、続きやろうや。お客さんも退屈してるだろうし」
天井を見上げる。
すすけきった天井に一台のカメラが無機質なレンズをこちらに向けていた。それは古びた周囲にそぐわぬ新しい艶を帯びている。
「うんっ、そーだねーっ」
プリーツスカートをひらめかせ、レベッカがぴょんと立ち上がる。
そうして腰溜めにモップゲラ君を構え、
「てやー」
気の抜けるような気合いの声とともに、踏み込んできた。
唸りをあげるチェーンソーがユグドの胴体を両断せんと横へ薙がれる。重心を前足に残したまま、彼は上半身を後方へ引く。回転刃が胸の前を通過した刹那、前足へと身体を戻す。さらに後ろ足を前へ一歩。レベッカと、触れ合わんばかりに接近して。
マスクの向こうに露出するこめかみに、頭蓋を砕く肘打ち――のイメージ。
「はにゃぁああああっ!?」
レベッカの口から素っ頓狂な悲鳴があがった。
もにゅもにゅ。むにゅむにゅと。ユグドの手はレベッカの胸を揉んでいたのだ。
うむ。ほどよく大きくてよい揉み心地である。
「にゃ、にゃにをしているのかなー?」
動揺して照れたような声は、案外と可愛らしかった。
「おっぱいを揉んでいるのですが、なにか?」
「はううっ、な、なんでっ……っ。このっ! いいかげんにしなさいーっ!」
振り回してくる刃から飛び離れ、ユグドは口の端を歪ませる。
「なかなかいいモンもってんじゃねえか。カラダ売った方が金になるんじゃねえの?」
わきわきと指を蠢かせてみせるユグドを前に、少女の身体がプルプルと震えた。
「う、うううっ……うるさいぃいいーっ! 死ね死ねぇえーっ!」
狂ったようにチェーンソーを振り回して襲いかかってくる。
もう狙いも何もなく、触れるものは全て断たんと爆走するレベッカを、
「ほらほら。鬼さんこちら」
手を叩き、挑発するユグドであった。
「うわーんっ! ぜったい殺してやるぅううっ!」
チェーンソーを持った鬼から逃げながら、ユグドはにぃいと笑みを深めた。
逃走経路を頭に浮かべる。駆ける。駆ける。
「待てーっ! 待て待て、待てえーっ! ハラワタぶちまけさせろぉーっ!」
無体を叫ぶ女子校生との間に一定の距離を保ちつつ逃走を続ける。レベッカの腹部に叩き込んだ一撃は、少女の足を重いものにしていた。
通路を抜けて、古びた工場の中へ。
掻き回された床の埃、そこに残る足跡を辿る。そして。
「――着いた」
ようやく目的地に到着する。