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髪を切る日  作者: ちわみろく
髪を切る日
56/93

マジックミラーの日

 入院後15日目の昼に美夜子が診療所に行くと、それまで毎日そこにいた秀の姿が無かった。

「そういえば、昨日出動するって言ってたような気がするな。今日は面会出来るかも知れないのに、気の毒。」

 着替えを持って病室に面した廊下を通りかかると、窓から起き上がっている親友の姿が見えた。面会謝絶の表示も消えている。

 嬉しくて大慌てで病室のドアを開けようとするが、ロックがかかっていて開かない。もどかしくなってガラス窓を叩くと、ベッドの上の由良がこちらに顔を向けて笑った。

 ガラス越しでもわかるほど、面やつれしていた。しかし繋がれていたたくさんのチューブもはずされて、ちゃんと自身で上半身を起こして笑っている彼女の表情は明るかった。ガラスを叩く音に気がついた隣室の看護師が驚いて廊下に出てくると、

「ここに、面会希望の方はブザーを押してくださいって書いてあるでしょう。さあ、どうぞ。」

と呆れたように教えてくれた。その表示に言われてはじめて気がついた美夜子は恥ずかしくなって肩を竦める。

「今日は、あの方見えてないんですね…せっかく面会出来るようになったのに。」

 残念そうに言う看護師は、ドアのロックをはずして開いてくれた。美夜子は礼を言って飛び込むように病室に入る。

「由良!やっと会えたわ。」

「心配かけたね。ごめんね、美夜子。もう大丈夫だよ。」

 彼女にしては緩慢な動作で、立ち上がって両手を広げ美夜子を迎えてくれた。その胸に飛び込むように抱きつく。

「痩せたね…腕もこんなに細くなってしまって…たった二週間ちょっとなのに、胸が小さくなったみたい。」

 何を見ているんだ、と突っ込みを入れるのも忘れない。由良は、入院する前の由良だった。

「…美夜子は相変わらずとっても可愛いんで嬉しい。元気そうだし、安心したよ。」

 すぐにベッドに横になるように促して、美夜子はベッド脇の備え付けられた椅子に腰を下ろす。ゆっくりとベッドに戻った由良は、横になるとすぐにリモコンを操作して上半身が起き上がれるようにベッドを調整した。

「何キロ、落ちたの?」

「測ってないからわかんないよ。でも、すぐに戻るって。食べられるようになったから大丈夫って刀麻さんが。正直ダイエットになったんでこのままでもいいんだけど。」

 見た目で分かるほどの体重の増減だ、少なくても5キロ以上は減っているだろう。たった2週間でそんなに痩せるなど普通ではない。

 骨が浮き出てしまっている首や鎖骨、肩の辺りは、包帯でびっしり巻かれたままだがそれでもはっきりわかる。

「…毎日包帯を替えてくれているらしいんだけど、入院した日より、今日のほうが少ないって看護師さんが言ってた。それだけ良くなってるんだね。点滴も取っちゃったんだよ。まだ歩いたりするとふらつくけど、自力で立てるし、トイレも自分で行けるよ。」

「…腕も、針の跡がたくさん…痣になってる、こんなにも。」

「脚にもあるよ。血管が縮んじゃってなかなか針が通らなくて苦労したんだって。意識が無くてよかったよ。」

 注射が嫌いな由良はそう言って笑った。つられるように美夜子も笑う。

 少しやつれてはいたが、親友は相変わらずだった。生死の境を彷徨ったとは思えない程の明るさで現状を笑い飛ばす。声音も元気そうでしっかりしているし、彼女が本当に治りつつあるのを確信した。

「皆にも、心配かけちゃったかな。なんて、心配なんかしてないか、それどころじゃないもんね。」

「そんなこと無いよ。流河さんだって毎日あたしをここまで送ってくれるんだよ?セイラはその度に足りないものは無い?って聞いてくれるし、それに…」

 数秒だけ躊躇して、思い切ったように美夜子は言う。

「秀さんは、昨日まで毎日来てたのよ。面会時間の開始から終わりまで、ほぼ一日中あそこの廊下で、あんたを見てた。」

「…うん、朝、看護師さんに聞いた。ずっとあそこでじっとしてるんですよって教えてくれた。」

 なんとも言えない切なそうな表情になった由良が、視線を下げてリモコンをいじりだす。

「今日は、…出動要請があったみたいで、来られなかったみたいだけど。」

「そ、そうか。そうだよね、今まで来てくれてただけでも、有り難いよ。私殆ど意識ない状態だったから、全然知らなかったけど。」

「毎日来てくれてたって知って、嬉しい?」

 顔を赤くした親友は少し顔を伏せた。小さく頷きながら答える。

「う、うん。」

 美夜子は、照れて顔を上げようとしない由良がかわいくなってしまい、つい追求してしまう。

「本当は今日、会いたかった?」

「美夜子に会えたから、いいんだよ。それに余り疲れちゃいけないって言われてるから…。」

 恥ずかしそうに目を伏せて今度はシーツをいじりだす。やつれた頬に赤みが差して、まるで重症の怪我人とは思えない由良だった。

 秀と最後に言葉を交わした時の事が思い出されて、由良は顔だけでなく耳や首まで熱くなるのを意識する。2週間も前の話だが、殆ど眠ってすごしていた自分にとっては昨日のことのような生々しさだ。

 恥ずかしそうな恋する乙女になってしまった親友を見ると、嬉しいような、からかってみたいような、少し寂しいような、複雑な気持ちになる。

「ね、由良は秀さんのどこが好きなの?何をきっかけに好きになったの?」

「え?や、優しくしてくれたから?」

「優しい!?」

「うん。色々教えてくれるし、凄く美味しいコーヒーも淹れてくれるんだよ。それに、なんていうか、寂しそうで、私なんかでも傍にいれば寂しくないかなって思えて、さ。」

「あの、秀さんが?」

 自ら孤独を愛しているようにしか見えないあの青年が寂しがっている、という。美夜子にはどうにもピンとこなかった。

「だから、美夜子は誤解してるんだよ。秀さんはとっつきにくい所はあるけど、本当は優しいしとても一途だよ。私が秀さんの部屋に行ったときは、自分は好きじゃないのにお茶菓子を用意してくれたりするし、訓練室では厳しいけど、私が泣いたり落ち込んだ時も、気持ちを変えてくれようとしたり、優しくしてくれた。ま、裏目に出ることもあるけど、ある意味尽くしてくれてるよ。」

 美夜子が大きな目をさらに大きくして親友を見る。彼の事を話す由良は珍しく饒舌だった。

「鈴奈さんの、元、愛人だったって…」

「知ってる。話してくれたもの。鹿島にいた頃に恋人だったって…多分、とっても好きだったんだろうね。その時の話をしてくれた時、辛そうだった…。」

 表情を歪めることも無く由良は穏やかに答えた。

「あんた、知ってて平気なの?」

「平気じゃないよ。全然平気じゃない、心配だし気になるし…あんなにいつも近くにいるもの、いつ元に戻ってもおかしくないって思うよ。…嫉妬してるよ、凄く。」

 シーツをいじっている手が止まり、彼女の膝の上で両手を組んだ。その両手を見つめて由良は顔をまた俯かせる。

「あ、あんた…それでもつきあうつもりなの?」

「付き合うなんて、そんなこと…あんな、秀さんみたいな大人の男性と付き合うなんで、無理だよ。だって私には鈴奈さんの代わりは出来ないし。」

 爆発で気を失いかけていたあの時は、きっとこのまま死んでしまうのだろうと思った。

 二度と会えない家族や友達の所へ行くのだろうか、とぼんやり考えていた。それが本来自然なのかもしれないと。本当の自分はあの時とっくに死んでいてもおかしくはないはずだから。

 呼吸が苦しくて、意識が遠のいていく。

 親切にしてくれたセイラや、安西兄弟にお礼を言いたかったな、などと思ったりした。鈴奈や、いつも優しかった貴緒と、そして、ずっと親友だった美夜子とも、別れてしまうのだと思った。

 でも、もう、美夜子には自分は必要ないのだ。だからいいのだ。

 そう思って意識が途切れた次の瞬間に、ぼんやりと目の前で黒い瞳が覗き込んでいるのが見えた。

 孤独で、寂しそうな、黒い瞳。彼だけが色の違う黒い目。あんなにも自分を卑下しようとしていた悲しい瞳。

 秀にまた、心配かけてしまった。こんなにも思いつめた顔させてしまった。嘘みたいに思えるほど。

 耳元で何事かを言っているようだったが余り聞き取れない。だが、彼の表情は動揺で今にも泣きそうに見えた。こんなにも心配そうな顔の師匠を見たのは初めてだった。

 ぶっきらぼうで無表情な秀。無口で人とは余り関わりたがらない秀。…なのにいつも親切にしてくれて。

 恩を仇で返すように、由良はいつも師匠に迷惑ばかりかけてしまっている。

 そう言えば、告白されたのに返事さえしていなかったことを思い出した。 

 どうせこのまま二度と会えないなら。死んでしまうのなら。

 だったらせめて気がかりだった秀に一言だけでも言ってあげたかった。

 もう声は出なかったので、口の形だけで、伝える。秀なら、わかってくれるだろう。

 誰かに捨てられるのが怖くて誰の近くにもいけない秀に、少なくとも自分だけは彼を好きでいると、そう伝えたかった。それだけで彼を慰めてやれるならと。

 だが、その先の事まで考えていなかった。助けられて、その後、秀とどうのこうのというつもりなんてとても考えられなかったのだ。

「私、当分誰かと付き合うとかそう言うのは、ないと思ってるんだけど。」

「真己くんとのことで懲りたから?」

「…う、うん…まあ、そう、だね。」

 由良にしては歯切れの悪い答え方だった。

 親友が何かを隠している気がして、美夜子は追及したくなる気持ちを押さえつけた。

『…美夜子ちゃん、聞かれたくないことは聞いちゃ駄目。あんたも聞かれたくないだろ?』

 恋人の流河の言葉が脳裏に閃く。また親友と気まずくなるのは御免だった。

「あ、あたしが流河さんと付き合ってるから言うわけじゃないけど、あんただって、あたしと同じ年なんだから彼氏がいたっていいと思うわよ。あんたが好きな人なら、いいんじゃないの?」

「え。」

つり上がった目を丸くして、由良が顔を上げる。

「あたしは他にもっといい人がいると思うけどね?」

「どうして?美夜子は秀さんを嫌ってたでしょ?」

「この2週間ずっとこの病室に通ってきてる姿を見て…この人は本気なんだなって思ったから。それに、秀さんはあたしに言ったの。由良の負担にならない程度には嫌わないで欲しいって。そんな台詞言う人だなんて夢にも思わなかったから。」

「そんなこと言ったの?」

「彼があんたにして上げられることは少ないからって…。どんな小さな負担でも取り除きたいってさ。」

「そんな、こと。秀さんは充分私にたくさんの事してくれたのに。」

 目を潤ませる親友の頭を撫でて、美夜子は優しく言った。

「真己くんとは、違う人だもんね。」

 病室を出て迎えに来てくれる約束のセイラを、病院の玄関で待っていた。バッグに入れている小型端末を手に取ると、着信があった。

 見覚えのある番号に、誰だったのかと検索すると、北海道であった二人の男子高校生のうちの一人、蔵原藤次郎という背の高い少年の番号だとわかった。時折メールがやってきては、それに近況を書いて返信するやり取りが数度あったが、このところ音沙汰がなかったので美夜子も忘れかけていたのだった。

 かけなおしてみるがまったく相手の応答はない。3度やってみて、諦めた。端末をしまったときに、ちょうどタイミングよくセイラが到着した。

「やあ、由良ちゃんに会えたかい?」

 愛想のいい金髪の青年が地上車の運転席から美夜子の方を見る。

「そうなの。面会できたのよ。…ちょっとやつれてたけど、相変わらずだったわ。」

「それはよかったね。それなら退院もそう遠い話じゃないよ。」

「うん。凄く安心したわ。本当に、よかった。」

 助手席に乗り込んで目頭を熱くする美夜子の柔らかな髪を、セイラは優しく撫でた。



 その日の夜、面会時間のぎりぎりに秀は単車を飛ばして診療所にやってきた。

上着も、ヘルメットも脱がないまま、走って病室へやってくる。病室のガラス窓のカーテンが閉まっていた。

 慌ててブザーを押すと、隣室からいつもの看護師が出てきて、申し訳なさそうに「もう面会時間は終了したんですよ。また明日、きてやってくださいね。」

 と言う。毎日通ってきてくれていた姿を知っているので、看護師はやはり気の毒そうに秀を見る。

 気落ちした様子もなく、黙ってカーテンのしまったガラス窓を凝視する青年の姿を見て、少しだけ考えてから、

「少し、そこにいてください。」

と、声をかけて、部屋に引っ込んだ。

 秀は息を整えながらヘルメットをはずす。

 すると、カーテンが開いて、病室の明かりがついた。ガラスの向こうで、先ほどの看護師が寝たままの患者に何かを伝えると、患者がゆっくりと起き上がった。看護師が、由良に手持ちのカード端末を手渡す。

 ヘルメットを椅子に置くと、秀はふらふらとガラス窓に近寄った。

 彼女は緩慢な動きでおっくうそうに歩いて、窓までやってきた。そして、看護師に渡されたカード端末を見る。

 すると隣室から、また看護師がでてきて秀にカード端末を手渡した。

「五分だけですからね。面会時間を過ぎると、防犯上ドアロックははずせないので、会うことは出来ません。だから、通話だけ、五分だけ、ね?」

「ありがとう。」

 彼女の心遣いに、秀は礼を言って端末を受け取った。

 端末から、由良の声が聞こえてきた。

「秀さん、来てくれたんだね。ありがとう。」

「ああ。間に合わなくて、すまなかった。」

 ガラスの向こうの由良を、食い入るように見つめて視線を合わせようとするがどうしても合わない。

「俺の姿が、見えないのか?俺からはお前が見えるのに。」

「うん。面会時間を過ぎるとね、マジックミラーになってしまって、病室からは何も見えないんだよ。」

「そう、だったのか。…痩せたな、由良。」

「美夜子にも言われたよ。飲まず食わずで寝てると、こんなに痩せるなんてね、それもたった2週間で。びっくりだよ。今度からダイエットはこれしかないね。」

「…バカなこと言うな。」

「あはは。でも、元気になったよ、起きられたし、まだちょっとふらつくけど歩けるし。」

「ああ、本当によかった。このまま目覚めなかったらどうしようかと、何度も思いつめて辛かった。」

「やだなぁ、勝手に殺さないでよ。それに何回かは意識戻ってたんだよ?診察の時は起こされるしね。」

「俺に何か出来ることは無いか?」

「ありがとう、秀さん。毎日来てくれてたんだってね。それだけで充分だよ。」

 カード端末に向かって頭を下げている姿が見える。相変わらず笑いを誘うその姿に、安堵した。

「目の前にいるのに会えないなんて、なんだか不思議だな。」

「看護士さんのおかげだよ、本当はいけないんだからね、こんなことしちゃ。」

「明日は必ず時間内に来る。鈴奈にも言ってきた。」

 白いパジャマ姿で、そして首元や肩も全て包帯で覆われた痛々しい姿の彼女は、それでもしっかりと立っていた。時折ふらついてガラスに手を付くが、頭を掻いたり、カード端末に向かって頭を下げたり、じっとしてはいない。多少やつれてはいたが、その様子は間違いなく由良だった。

「明日はお風呂に入れるんだって。今日はまだふらつくから駄目って言われててさ。」

「そうか、よかったな。入浴には体力を使うからな。」

「…うん。だから、明日は午後に来てね。そしたらお風呂のあとに会えるもん。」

「午前は駄目か?」

 朝一番にでもやってきて会いたいと思い気持ちがはやる秀は、由良の言葉に抗議する。

「ずっと洗ってないんだから汚いでしょ。きっとクサイもん。せめてそのくらいはちゃんとしてから会えたらなって思うから。」

 本当は、そんなことはどうでもいい。多少汗臭くてもかまわないから今すぐ会いたいと思うのに。会いたいから、やってきたのだから。一分一秒でも早く会いたかったから。

 そういう思いの全部を飲み込んで、彼は低い声で言った。

「入浴に必要なものはあるか?美夜子に言っておいてやるぞ。」

「いつもの着替えだけだよ。全部ここで用意してくれるって。」

「わかった。じゃあ、明日こそ会えるな。」

 病室に入ってきた看護師が腕の時計を見ている。もう時間が無いのだろう。もっと、声を聞いていたいのに。

「うん。おやすみなさい。またね、…お疲れ様でした。」

「お休み。…また明日。」

 通話を切ると、ガラスの向こうで看護師が由良からカードを受け取っている。由良はそのまままたベッドへゆっくりと戻っていった。何度か、振り返りながら手を振っていたのが、切ないほど健気に見えた。

 彼女からは自分は見えないし、自分が手を振り返しても彼女には見えないのに。

 秀も、彼女からは見えないのを知りながら、彼女が振る度に振り返した。

 やがてカーテンが閉まる。と、同時に先ほどの看護師が廊下にまた出てきた。

「ありがとうございました。」

 秀はそう言うとカードを看護師に返す。看護師は彼の笑顔に少し驚いたようだったが、

「刀麻先生のご兄弟なんですって?」

 そう言って、笑い返してくれた。

「今日のこと先生には内緒にしてくださいね、刀麻先生は割と厳しいんです。それじゃ、また明日。」

 それだけ言うと、そそくさと隣室に戻っていった。

 秀は、恋人とのつかの間の逢瀬の余韻に浸るかのように、暫くその場に立ち尽くしていた。


読んでくださってありがとうございます。


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