逃げ出す日
何時間経っただろうか、由良は騒然とした気配に目が覚めた。エレベーターから、何人もの足音が聞こえてくる。由良の他に留置場に入っている者はこのフロアにはいなかったように思えたのに。何か異変が起こったのだろうか。由良はベッドにうずくまったまま気配を窺った。
複数の足音が、いつしか一人分になっている。
腰を屈めなければ出入りできないような由良の独房入り口の鍵が突然開き、
「鍵は開けたよ。出ておいで。」
掠れた、穏やかな声が聞こえてきた。記憶にない声だった。あの制服の声では絶対にない。
「誰?」
警戒して入り口から離れて、奥の壁に背を付けた。声音は優しいが、最早これ以上油断はできなかった。壁を伝う右手が細長い棒を捕らえる。高窓の開閉に使うステンレスの細長い道具である。他に手頃な得物はなかった。由良はそれを後ろ手につかみ、低い姿勢で入り口を睨む。
するとその小さな入り口から黄金の髪が見えた。
「庄司由良さんだね。美夜子ちゃんが君を心配している。助けに来たんだ。」
驚いたことにそう声をかけてきたのは見たこともない外国人の若い男だった。白い肌と、青とも緑ともつかない深い色の瞳をまっすぐにこちらに向けて穏やかに続ける。思わず気がゆるんでしまいそうな、優しい笑顔を向けてきた。
美夜子の名を告げた瞬間顔色を変えた由良が、それでも警戒をとかない姿を見て困ったように笑う。
「今は説明している時間がない。早く、君も彼女に会いたいだろう。」
早口に叫んで由良に詰め寄り、ステンレスを持たない左手を引いていった。優しげな顔なわりに、強引だ。
「ちょ、ちょっと私…」
「君は逮捕されたわけじゃない。ここは警察署なんかじゃないんだ。」
「ええ?」
独房を出ると、廊下に3人の制服が横たわっていた。
「あなたがやったの?一人で?殺したの?」
走って非常階段へ向かいながら、由良が尋ねる。
「イエス・イエス・ノーかな。」
金髪でクリーム色のセーター姿が答えた。
「?」
相手の返答の意味が分からず、眉根を寄せる。
しんと静まった地下に二人の靴音だけが響く。青い瞳で辺りを警戒しながら彼は制服姿の娘を連れて非常階段を上った。地階にたどり着くと青年は出口に向かうのではなく、署内のオフィスに入り込んだ。
「外へ出ないんですか?」
「君のデータと僕の進入形跡を消さなきゃならない。」
地階から上の階では、地下で脱獄が起こっているなどとは到底気づいていないようだった。あちこちで人の緩やかな出入りと物音が聞こえている。
「ここかな…」
彼は何気なくそのドアの前に立った。ドアの右脇にある小さなボックスに右手をのせると、ドアはあっけなく開いた。それも左右に開くタイプの自動ドアだ。初めて見た出入り口に少なからず興奮する少女を連れ、青年は当たり前のように入っていく。
ドアには確かに立入禁止の文字と施錠済のブルーランプがあった。異国の青年が手をかざした黒いボックスは、指紋確認をして内部の人間かどうかをチェックする物ではないのか。
突っ走る由良の推理と関係なく、すんなり入り込めてしまった彼は室内に並ぶモニターと、その下で計測に励む多彩な電子機器に向かっていく。
彼女の親友がこれを見たら興奮してしまうだろう。理系女子を自称する彼女にとっては宝の山だ。
機械が大好きな美夜子と違い、体育会系の由良には興味もなくどんな機能なのかもさっぱりわからなかったし、青年がどういう理由で正面奥から左に2番目のモニターの前で立ち止まったかも、まるで関心がなかった。
青緑の瞳が見上げるモニターには、由良と青年の姿が鮮明に録画され、再生中であった。
どんな操作をしたのか由良にはまるで理解できないが、彼は機械の中から小さな円形の板を取り出す。掌に入ってしまう大きさだ。
とたんに背後の自動ドアが開いた。あの由良を逮捕した青い制服の青年だ。反射的に由良は身構えて留置場から持ってきてしまったステンレスの棒を振りかぶった。
青い制服が懐に手を突っ込んだ瞬間に細長い武器がその胸を突いた。その直後に、小さなディスクを手にしていた青い目の青年がそれを投げつける。
「由良ちゃん、用は済んだ。行こう!」
一撃を食らってよろめいた制服の青年が外へ駆け出ようとする二人に追いすがる。
「まちなさ…!」
抑揚のない低い叫びが後ろから聞こえた。
落ちたディスクをヒールで踏み砕いた金髪の青年がドアを開く。そこへ飛び込もうとする由良の首に、手がからみついた。まるでゾンビのように冷たい手が、呼吸が止まりそうになるほど容赦なく締め付けてくる。
紺色のスカートが翻り、ステンレスの細い武器が照明を反射して光る。苦し紛れの一撃だったがまちがいなく今度はとどめとなったらしい。由良を逮捕した男は仰向けに倒れて気絶した。
「由良ちゃん大丈夫?」
激しくせき込みながら、
「大丈夫…」
呻くように答えて、部屋の外に出た。金色の髪の青年が手を引いてくれる。
廊下では騒ぎに気が付いたらしくさっきより騒然となっていた。制服姿があちこちで駆け出している。時折、私服の姿も混じっていた。その中の一人がこちらに目を止めた。
「君たちは…?」
茶色い背広を着た中年の男が慌てて走り寄ってくる。
「まずいな、見つかった!走って由良ちゃん。」
逃げ出す二人の姿を視界にとらえた国家公務員たちの声がざわつき始める。
由良が逮捕されて入門した玄関から走り抜ける。ようやく外に出られた開放感に浸る暇もなく青年に手を引かれて走り続けた。
だが、警察署だと思っていた建物の敷地から出ていくらも走らないうちに金髪の青年は長い足を止める。
「ここを動かないでね。すぐに戻るよ。もし、追いかけてきたら一旦は逃げて、必ずここに戻るんだよ。」
車でも拾いに行くのか、大きな建物ばかりが並ぶこの広場に由良をおいて駆け去ってしまった。
逃げ出した場所から15分ばかり走っただろうか、いくつかの通りが交差するラウンドアバウトは歩行者天国のように、人の通りが多かった。由良はそれでもじっとしているのが怖くて辺りをきょろきょろしてしまう。
大通りまではまだ少し距離があった。警察署から追いかけてくる気配はないが、じっとしているのは心配だった。
「待たせたか?早く乗ってくれ。」
程なくして真後ろから唐突に低い声がかかった。
何の気配も音もなく背後に回られたショックで由良は飛び上がるほど驚いたが、声をかけた人間にも驚いた。さっきの金髪の青年ではなかった。
由良をぶん殴った、真己によく似た男、秀だった。
黒くて大きな単車に腕をかけたままこちらを見ている。どうやって音を立てずに近づいたのだろう?
警戒心も露わに身構えてしまうのは無理もない。高窓の開閉に使う長いステンレスの棒を持ってきてよかったと、捨てようか迷っていた由良は考え直した。
・・・また殴られる…!いや、今度は好きにさせないんだから!
身構えて目の前の青年を思い切りにらみつけた。
「セイラがここで待っていろと言っただろう。」
黒づくめの青年は表情のうかがえない凍った美貌で近寄ってくる。自分ではめいいっぱい殺気を込めたつもりなのに、彼の方はそれを感じてさえいないようだった。なんだか拍子抜けした気分になる。
「セイラ?」
「名乗ってる暇はなかったか。よく目立つ金髪の外国人みたいな男が、流暢な日本語でここで待っているように言っただろう。」
その通りだったが由良はあえて否定も肯定もしなかった。頑なに身構えたまま動かない。
この目の前の黒ずくめの青年は自分を殴り、あの金髪の青年は自分を助け出してくれた。その二人が通じているといわれてもどうにもピンとこないのだ。
警戒を解こうとしない由良の態度に辟易したのか、青年は小さく息をついた。
「美夜子が待ってると言ってなかったか?」
心配していた親友の名を出され思わず顔色を変える。
「…美夜子は無事なの?どこにいるの?」
初めて由良は警戒を解いた。ずっと気になっていたのだ。
彼女の手がかりは結局この目の前の冷血そうな男が握っている。
その冷血そうな男は、それでも返答に躊躇する彼女に決定打を食らわせようと、
「俺と一緒に来れば会える。早く乗ってくれ。」
そういって、黒い単車の後部座席を示す。
最早逆らうのも面倒で、時間の無駄であろう。決めれば行動の早い由良だった。黒づくめの青年が乗る黒い単車は由良にはメーカーも性能も種類もわからないが、とりあえず跨れば乗れるのだと言うことだけは知っている。
「言い忘れたが俺は安西秀羅。秀とみんな呼んでる。お前は?」
これも黒いヘルメットを装着する直前、低い声で囁くように尋ねてきた。顔が息のかかりそうなほど近づき、かすかに男性用の香水が香る。あの時の、匂い。警戒心のあまり身体が強張る気がした。
怯える自分を鼓舞するように、由良は早口で答えた。
「庄司由良と言います。」
「由良か。振り落とされないようにしっかり捕まれよ。」
「…あの人は?セイラという金髪の…私を助けた人は?」
すると、秀と名乗った男はかぶろうとしていたヘルメットを由良に差しだし、かぶるように合図した。
「二つ持って来るんだったな。慌てていたのでそこまでは気が回らなかった。」
この男でも慌てることがあるのだろうかと疑問に思うような冷静な声でそれだけ言うと、懐からからやはり黒いサングラスを出して切れ長の目を隠した。
・・・とりあえずここは言うことを聞いておくしかない。
下手に逆らって揉めてもしょうがないだろう。さっきと別の場所を殴られるのも嫌だった。セイラの質問ははぐらかされてしまったが。
スカートをまくり上げて後部座席に跨るのにちょっと手間取ったが、由良が座るとすぐに彼が運転席に座った。
「単車に乗ったことないのか?」
どこに捕まっていいかわからず挙動不審な後部座席の少女を振り返る。彼女はすぐに頷いた。
「俺の腰にしがみつくんだ。しっかり捕まらないと、本当に落ちるぞ。落ちたら即死だと思えよ。」
即死、という言葉に一瞬顔が強張ってしまった由良に頓着せず、エンジンをまわし始める。想像しているよりもひどい爆音ではないのは、メットのせいなのだろうか?
両手がふさがってしまうので、ステンレスの細い棒とはここでお別れである。言われたことに従って、由良は青年の腰に両腕を巻いた。真己にさえ、こんな事はしたことがなかった。驚くほどに細い腰と、そこから伝わる異性の温かくて少し堅い感触に軽いショックを受けながら、由良は両腕に力を込める。
「行くぞ。」
低い声がかかった途端に、ものすごい圧力と風圧とが全身を襲った。よく腕を放さなかったものである。スペシャル級のジェットコースター並みと言っていい。とてもつもない推進力であった。
・・・単車って、こんな凄いんだ?
運転手のサングラスなど飛ばされてしまうのではないかと思い、ようやく顔を上げて目を開けると、
「目を開けてもいいが、腕だけは放すなよ!」
秀の声がとても遠くに聞こえた。凄い怒鳴り声で喋っているのだろうが、声は小さい。メットの防音は相当なものだ。エンジンの音さえ遠く聞こえた。
青年の背中以外の視界が見えると、由良は言われたことを忘れてしまいそうになった。驚愕のあまり、腕の力が抜けそうになったのだ。
…この単車、空を飛んでる!
うすぼんやりと灰色がかった空の色が四方に見えた。恐る恐る下を向くと遙か下界に思える地上を歩く人が、掌サイズだった。
驚愕のあまり腰が抜けそうで、自分が高所恐怖症ではないことをこれほど感謝したことはない。
…こりゃあ確かに落ちたら即死だよなあ。
突然耳元で人の声がした。
『秀っっ!こら、聞こえてるんだろう。返事して!』
あの金髪の青年だ。掠れ声に覚えがあった。
「どわっっ!」
驚いて悲鳴を上げると、前を向いたままの秀が再度声をあげた。
「返事をしてやれ。ただ声を出して答えればいい。そのメットは通信機になっている。」
一体どの方向に向かって飛ばしているのか皆目検討もつかないが、運転に集中してもらうために由良は彼の言葉に従った。
「き…聞こえてます!」
『あれ?君はひょっとして由良ちゃん?』
「はいぃ~」
情けない声で返事をすると、相手の青年が吹き出した。
『ごめんね、僕が迎えに行くはずだったのに、びっくりしたでしょ?全く、秀ったら、勝手なんだから。すぐに会えるからね。』
「美夜子に会えるんですか?」
『彼女にはもう君の姿が見えているはずだよ。』
「うわっぷ!」
突然単車が急降下した。胃袋がせり上がってくるようなあの感覚が内臓を襲って由良は瞬間吐き気を覚えた。しかし、吐く物を何時間も摂取していないので吐いても何も出ないだろう。
ぐええええ~っっ
必至で黒い背中にしがみつきながら苦痛を堪えた。
それから数秒後、軟着陸した感触を覚えて、由良はようやく閉じていた目を開いた。吐き気は去っていなかったが、地に足がついた安堵感でようやくため息が出る。
顔を上げると、温室が見えた。
ほんの数メートル先に、この単車の着陸場所を囲むように汗を流した温室が建っている。
…よくこんな狭いところに着陸できるよなあ。運転は乱暴だが、腕はいいのかも。
「由良?」
聞き慣れた懐かしい声が聞こえた。
「美夜子!」
声のした方向に顔だけを動かす。
ふわふわ揺れる柔らかな髪、大きな瞳をとびださんばかりに開いた、小柄でほっそりした見慣れた姿が、すぐに視界に入った。
彼女はもう制服を着ていなかった。クリーム色の上着と、グレイのプリーツスカートを身につけて可愛らしく立っている。
「知らない間にずいぶん仲良くなったんだな、秀。」
彼女の背後に立っている大きな男がのんびりと声をかける。
由良は慌ててしがみついていた両腕を放した。仲良くなった覚えはない。黒いヘルメットをはずすと、外気が心地よく頬を叩いた。
「よかった。美夜子、よかった…どこも怪我はしてない?」
ふわりと後部座席から飛び降りた由良が足早に私服の少女へ寄ってくる。由良は埃と汗にまみれた制服のままだった。所々に擦り傷や包帯が見える。よく日に焼けた顔には疲労の色が濃い。
それでも彼女は笑っていた。親友にようやく会えた喜びで輝くような笑顔を見せた。
美夜子もそれを見て笑った。後ろの男が肩においていた手をすり抜けて鉄砲玉のような友人のもとに駆け寄る。
両手を握りあって再会を喜ぶ二人の姿を眺めていた流河が肩をすくめて、
「なんだか妬けるな。そう思わんか?」
と、後から階上にのぼってきた金髪の青年に告げる。彫りの深い顔が青い目を細めて頷く。
単車をガレージに収めてきた秀が更にその後ろに降り立って、飽くこともなく二人の姿に見入っていた。
「よかった。無事で…」
涙をかすかに浮かべた美夜子が、うんうんと頷く。
その途端に、目の前の親友が崩れるように倒れた。
「ゆ、由良!しっかりして!」
突然倒れ込んできた大柄な体を支えかねて美夜子がふらつく。あわてて三人の男が駆け寄った。
「どうした?」
秀が低い声で倒れた本人に尋ねる。
「お腹空いた…」