薔薇王女と護衛騎士
半ば以上、ノリと勢いの産物です。
薔薇王女。
その城の姫君は、そう呼ばれていた。
清らかで美しい、温室の薔薇のようなお姫様。
彼女の祖父が統べる国は大国である。理の当然として、城の内外には陰謀と駆け引きが溢れていた。
それでも、そんな暗部には触れることなく、可憐に咲く深窓の華。
それが薔薇王女、リナリア姫なのである。
そしてその傍らに寄り添う騎士は、何度となく彼女を危険から守り抜いてきた。
長身痩躯の彼、ルシフェルは、国一番の剣士と名高い。
これは、そんな彼らの物語である。
城の回廊に、点々と兵士達が倒れている。
大国であるこの国には敵が多い。様々な思惑から、城に暗殺者が侵入することも珍しくなかった。
そう、まさに今、兵士達を沈黙させた侵入者が廊下を闊歩しているように。
赤く染まり不気味に光る刃を手に、侵入者は奥まった扉を開けた。
「――どなたですか?」
長椅子に腰かけて目を瞬かせているのは、華のごとき姫君。
首を傾げるその仕草は、まるで今の状況すら何一つ理解していないかのような、場違いな優雅さを醸し出している。
侵入者は恭しく礼をした。
「初めまして、麗しのリナリア姫?」
慇懃な仕草と言葉とは裏腹に、侵入者の声音はからかうような調子を帯びていた。
「どなたかしら?」
姫の誰何に、口角を上げる。
「いやぁ、大国の城といったって、警備は大したことないんだなぁ」
先程の慇懃さを脱ぎ捨てた侵入者は腰に手を当て、周囲を見渡す。
「兵士は雑魚ばっか。この奥の間まで騎士に会うこともなく――」
にやり、と笑って、リナリアの顔を覗き込んだ。
「残るは虫も殺せねぇ深窓のお姫様ただ一人」
侵入者の剣が、リナリアの頬に触れる。
「あんたに恨みは無いが、依頼主はあんたの命が望みだ」
剣先が、リナリアの頬から首、胸元へと伝い下り、ドレスの襟元を引っかけた。
「このまま殺すだけってのもつまんねぇ」
思わせぶりに引っかけた襟元を引っ張りながら、侵入者は下卑た笑みを浮かべた。
「少し遊んでやろうか?」
剣を下ろし、リナリアの肩に手をかける。
リナリアはそっと目を伏せた。
「……あなたはご存知無いのかしら」
「ん?」
リナリアの呟きに、侵入者が怪訝そうな顔をする。リナリアは憂いを帯びた表情のまま、言った。
「美しい薔薇には、棘があるんですのよ」
「それもとびきり痛い棘がね」
不意に割り込んできた男の声。
侵入者ははっと振り返った。そこに、細身の青年が立っている。
「へぇ、お前がかの有名な護衛騎士か」
侵入者が剣を構えると、青年は困ったように微笑んだ。
「噂というものは往々にして一人歩きするものです。私はそんな大層な者ではありません……ああ、でも」
のんびりと侵入者の言葉に答えながら、青年は柔らかな笑みを浮かべた。
どこか気の抜ける、人の良い笑みである。
「向かって来るのはおやめになった方がいいですよ……手遅れですか」
「は!?」
次の瞬間。
侵入者は足を蹴り払われ、地に伏せていた。その顔のそばに、いつの間に奪い取ったのか、さっきまでその手にあった筈の剣が突きつけられる。
何が起こったのか数秒理解できなかったほど、迅速で鮮やかな手並みであった。
「あなた先程、虫も殺せないとおっしゃいましたわね」
くすり、と澄んだ笑い声が聞こえる。
恐る恐る目を上げてみると、剣の柄を握る華奢な指先が見えた。どっ、と侵入者の背中から冷や汗が吹き出す。
「失敬な」
今喋っているのは、いったい、誰だ。
「虫けら一匹叩き潰す程度の力なら、このリナリアは持ち合わせておりますわ」
可憐な声が、冷たい笑みを含んだまま宣言すると同時。
白刃が閃き、侵入者の声なき声がこだました。
リナリアが剣を投げ捨てて一息吐くと、背後から拍手が聞こえた。
「いやあ、お見事です、リナリア姫」
「……ルシフェル」
呑気に手を叩いている男の名を呟いたリナリアは、深い溜息を漏らした。
「毎度のことながら傍観とは、護衛騎士が聞いて呆れますわね」
「あはは……」
痛いところを突かれたルシフェルは、曖昧な笑みを浮かべてリナリアに歩み寄った。
「まぁ、いいではありませんか。姫は十分に自衛なさっておいでですし」
「仕事をなさい、給料泥棒」
呆れたように言ったリナリアは、一瞬表情を引き締めた。
そして一瞬で、きりりとつり上がっていた眉が下がり、頬が赤らむ。
ルシフェルがはっとするより早く、彼女は飛び込むようにしてルシフェルの胸にすがり付いた。
「よくやってくれました、ルシフェル!」
涙すら浮かべて身を預けてくるリナリアに、ルシフェルは思わず心臓を跳ねさせる。
しかし悲しい哉、リナリアがこういった行動を取った理由が、彼には痛いほどにわかっていた。
背後で、慌ただしい足音がする。
ルシフェルは優雅に微笑んで、リナリアの背に手を回した。
「私は当然のことをしたまでです。お怪我はありませんか、姫」
ルシフェルがリナリアを気遣うように言った時、ようやく駆け付けた貴族達が二人の王女の部屋に到達した。
「おお、姫!」
「ご無事ですか!」
貴族達は口々に問いかける。頼りなげにルシフェルにすがったまま、リナリアは頷いた。
「ええ、大丈夫です」
「それはよかった」
「さすがはルシフェル殿!」
貴族達は大仰なほどにルシフェルを褒め称える。
ルシフェルはゆったりと微笑んだ。きりっと引き締まった、出来る男の笑みである。
「姫をお守りするのが、私の使命ですから」
「ルシフェル……」
リナリアがうっとりとした眼差しをルシフェルに向ける。
但し、その踵は貴族達に見えない場所でルシフェルの足を踏みつけていた。
ヒールがルシフェルのブーツに突き刺さらんばかりの勢いで食い込む。
ルシフェルは内心で脂汗をかきながらも、騎士としての表情を崩さない。
これほど表情筋の制御に熟練した騎士は他に居まい、と自ら思う。
宮廷で腹の探り合いに勤しんでいる狸親父どもも真っ青な完璧さに違いない。
「さぁ、姫。あちらで少しお休みを」
ルシフェルがリナリアをエスコートして部屋を出ると、従者達が荒れた部屋の片付けを始めた。
とある国の城に、薔薇王女と呼ばれる姫がいた。美しく可憐で、心優しいお姫様。
その傍らに寄り添う騎士は、何度となく彼女を危険から守り抜いてきた、国一番の剣士である。
「ルシフェル」
但しそれは、表向きのお話。
「また稽古をさぼっていますのね。手が滑らかすぎるわ」
「うっ……」
二人のほかは知りもしない。
薔薇王女の身を守る棘は、自身の剣の腕。
手折ろうとする者に決して負けない、鋭く丈夫な棘である。
可憐な王女は、その傍らに寄り添う騎士よりずっと、強かなひとなのであった。
「かないませんね、あなたには……」
ルシフェルはそっと息を吐く。踏みつけられた足がつきりと痛んだ。
剣でも口論でも、ついでに腹芸でも王女に勝てない彼の淡い想いが報われる日は、果たして来るのか。
それはまだ、誰も知らない。