それぞれの夏
浩太郎への電話を切ってから、すぐにひとみに電話してみた。彼女に連絡するのは、いつ以来だろう。
「もしもし?」
「忍?!うわー久しぶり!元気?」
懐かしい声で、私たちはすっかり大学生に戻っていた。しばらく同じテンションで懐かしがった後、お互いの近況を報告し合った。どうしてもっと早く連絡しなかったんだろう。私は最近会社を辞めたことや今の職場のこと、そして浩太郎とのことをすっかり話した。
ひとみとは大学に入ってから友達になったのだが、お互い気が合い、感じることが似ていて、話が合った。私たちが違う点と言えば、私があまりはっきりしない性格なのに対して、ひとみはなんでもはっきりさせないと気がすまないというところだった。
「そっか、広瀬くんとまたヨリが戻ったんだ」
「うん、でも今度は振られちゃって。どうしたらいいかな…」
「でも、同窓会に誘ってくれたんだよね?」
あれを誘ってくれたというのだろうか。確かに彼から言い出したことだけれど、誘ってくれたのとは少し違うような気がする。
「同窓会あるなんて、そんなの忍に聞かなかったら私も知らなかったし。他に誰が来るんだろうね」
とひとみは言った。私が寺門くんや北村くんの名前を出すと、
「ああ、じゃあ、私たちに『他の女子仲間に連絡して』ってことなのかな?」
とひとみは悟ったようにうなずいていた。確かに浩太郎を初め、彼らはあまり女の子たちと話す方ではない。私が浩太郎と付き合っていたということがあって、私は彼の横にいる寺門くんや北村くんとたまに話すことはあったが、それも二言三言という感じで、特に親しいというほどではなかった。
「なんか広瀬くんて、そういうとこあるよね」
「え、そういうとこって?」
「はっきり言わないとこ。ほら、『察してほしい』みたいなとこ。昔からあるよね」
ひとみにそう言われて、そう言えばそうだ、と改めて気がついた。
「今度だって、はっきり『別れよう』って言われたわけじゃないんでしょ?だから忍はずっと考えちゃって、先に進めないんじゃないの?」
私のことも彼のこともよく知っているひとみの言葉は、的を射ている気がした。
「今度の同窓会で、はっきりさせたら?」
じれったそうにそう言うひとみに、私は「そうね」と答えたが、内心はそうは思っていなかった。
私は「はっきり」させたいんじゃない。「先に進みたい」んじゃない。ただ、浩太郎とまた元に戻りたいだけなのだ。でもそれは無理なことはうすうす気がついていた。それを自分でまだ認めたくない。彼に「別れよう」とはっきり言われていないことで、まだ彼との赤い糸はかすかにつながっている、そう思いたがっている自分がいた。
7月の終わりの週から、秘書室と作製室にはそれぞれアルバイトが一人ずつ来ることになっていた。みんなが交代で二週間(土日を除くと10日間)夏休みを取るのだが、どうしても人手が足りなくなってしまうためだ。特に秘書室は、亜矢が休むためには代わりがいる。そこで毎年、夏休みの大学生のアルバイトを8月の終わりまで雇うことになっていた。
「夏休みの予定表、できました~」
と、亜矢が作製室にやってきた。手には亜矢と作製室5人と谷ちゃんの夏休みが書き込まれた8月の予定表を持っている。その後ろには、学生アルバイトの女の子が2人、慣れない白衣を着てついていた。
先週のうちにみんなで話し合って、休みを取る日を決めた。亜矢がさっそく8月の第1,2週。ひろのさんが8月第1,4週。谷ちゃんと豊田さんが2、3週。私がまだ勤務し始めて6カ月経っていないので有給休暇がないため、お盆休みとして15日から17日の3日間。それに安道さんが合わせてくれて、18日から31日まで、という具合に、作製室にはアルバイトも合わせて常に3人はいるように休みを決めた。
「秘書室のアルバイトの吉川美咲さんと、作製室のアルバイトの大橋麻紀さん。どちらも三城大学の3年生です」
と亜矢がついている女の子たちを紹介した。
「よろしくお願いします」
と、2人は頭を下げた。吉川さんは小柄で、一方の大橋さんは背が高くすらっとしているという対照的な2人だった。
「じゃあ、ひろのさん、大橋さんの指導、よろしくお願いします」
と言って、亜矢は大橋さんを残し、吉川さんと2人で秘書室に戻って行った。
大橋さんはここ三城大学の医療技術短期大学部(略して医技短)の3年生で、ひろのさんと谷ちゃんの後輩ということになる。臨床検査技師を目指しているといい、作製室の仕事の基本的なことは私より詳しかったので、ひろのさんは安心したようだった。
「9月からは実習で、またここにも来ると思うので、よろしくお願いします」
と大橋さんはまた頭を下げた。医技短は三年間の短大で、毎年9月から12月まで2、3人ずつ、3年生が実習にやって来るのだそうだ。そうして年が明けて2月下旬にある国家試験を受けて合格して卒業すれば、検査技師の資格が取れることになる。
「ひろのさんも谷ちゃんもその試験を受けたんだよね?」
冷蔵庫に磁石で貼り付けた夏休みの予定表を、実験室から谷ちゃんも見に来ていた。
「そうよー。わからないことがあったら、何でもお姉さんに聞いてね」
とおどけてウインクする谷ちゃんに、大橋さんは嬉しそうに「はいっ」と答えていた。
「秘書室に来てる吉川さんは同級生みたいだけど、知り合い?」
とひろのさんが尋ねると、
「いえ、彼女は文学部らしいです」
と大橋さんが答えたので、「あ、じゃあ、忍の後輩じゃない」と谷ちゃんに言われた。私が文学部出身とわかると、「え?検査技師じゃないんですか?」と大橋さんはちょっと不思議そうな顔をした。
実際、ここでアルバイトの私と豊田さんと安道さんは検査技師の資格を持っていない。だから正職員にはなれず、正式には“技能補佐員”と呼ばれ、あくまでも“補佐”という立場なのだが、安道さんは7年目、豊田さんは10年目とどちらも私と違ってベテランで、その技術は確かだった。
みんなで夏休みの予定を話していると、いつも試薬類を届けてくれる水田化学の営業の村川さんがキシレンの缶を台車に乗せてやってきた。
「こんにちはー。水田化学でーす」
30代半ばの村川さんはいつも元気がいい。この医学部の敷地内の研究室を、ほぼ毎日回っているのだそうだ。納品がない日でも、ニ病理にもほとんど毎日来てくれていた。
「あ、ありがとうございますー」
とひろのさんがキシレンを受け取って、納品書にサインする。私は「あ、注文お願いします」と、白衣のポケットから注文するものを書いたメモを差し出す。谷ちゃんは、「村川さん、この前のサンプルで確認したいことがあるんで、後でちょっと実験室の方にお願いします」と言いながら作製室を出て行った。
「村川さんのとこは夏休みはいつですか?」
と私が尋ねると、
「お盆休みが13から16日までです。また、8月に入ったらうちの休みとメーカーさんの休みのお知らせの紙をお持ちします」
と私の渡したメモ紙を見ながら答えた。
「えーと、CAM5.2とCD34ですね。お急ぎですか?」
ニ病理に入ったばかりのころ、いろいろな試薬の注文のタイミングがわからなくて、私は村川さんに何度か急な注文をしていた。そのたびに彼は機転をきかせて、他の研究室に持って行く予定のものをこちらに回してくれたりしていた。特になくなるタイミングがわからなかった一次抗体も(先生たちが研究のために夜中に大量に使ったりしているのだ!)、最近はようやく減り具合がわかってきて、余裕を持って注文できるようになっていた。
「いえ、そんな急がないです。一応、納期をお願いします」
と私が言うと、
「わかりました。じゃ、納期わかりましたらまた、ご連絡しますんで。ありがとうございまーす」
と、笑顔で谷ちゃんの実験室の方へ台車を押して行った。
8月に入り、亜矢とひろのさんが夏休みに入った。亜矢は女友達と北海道旅行、ひろのさんは航希くんを連れて自分の実家に里帰りだと言う。
「第4週目の休みには宿題させなきゃいけないしねー。小学校3年生でもけっこう出るのよ、宿題」
と言いながら、ひろのさんは嬉しそうだった。仕事中は先生たちもおそるおそる声をかけるような、厳しい顔をしていることも多いけれど、航希くんの話になると、確かに“お母さん”の顔になるのだから不思議だ。
昼休み、亜矢がいないので、谷ちゃんと2人で大学の近くの中華料理店に冷麺を食べに行った。
「谷ちゃんは夏休みどうするの?旅行?」
と私が尋ねると、
「あ~、いや、旅行じゃなくて」
と割り箸で冷麺をかきまわしている。なんだかいつもの谷ちゃんらしくなく、歯切れが悪い。
「いや、どうしようかなあと思ったんだけど、忍には言っとくわ」
「え?何?」
「私、もう一回大学に行こうと思ってるんだ」
「えっ?今から?」
しかも医学部だと言うので、私はさらに驚いた。谷ちゃんは話しながら、ようやく冷麺を食べ始めた。この夏休みは、大学受験のための夏期講習に行くと言う。ニ病理で先生たちと今の仕事をするうちに、もっと研究のことがわかるようになりたいと思ったのだそうだ。谷ちゃんは先生たちと一緒に毎週のリサカンにも参加していて、そのための勉強もしている。けれどやっぱり実験の仕事をしていても、所詮自分は先生たちの“助手”なのだ。研究の真ん中には行けない。
「私、今26でしょ。で、来年受かったとして、まあ、一人前になるまでに10年くらいかかるとしても36じゃない?今の時代、それから結婚考えたって、遅くはないでしょ?」
受験のことは先生たちにはもちろん話していないが、実験の合間に受験勉強の仕方もさりげなくリサーチしていると言う。
「亜矢にも今度話そうと思ってるけど。でも亜矢は現実的だからなあ。『そんなの無理ですよー』とか言われそう」
谷ちゃんは一人で苦笑している。
「忍は?夏休みどうするの?」
私はどうしようかと迷った。谷ちゃんや亜矢には、浩太郎のことをまだ話したことがなかった。いくら仲良くなったと言っても、仕事の仲間なのだ。“友達”とは少し違う。けれど私には、今のその距離感が心地良かった。職場に来れば、誰も浩太郎と私のことを知らない。私の悩みなどに関係なく流れて行く毎日が、今の私には有難かった。
「まあ、15日に大学の同窓会があるくらいで、後は予定なしかな」
とだけ私は答えた。
「そういえば、忍って彼氏いるの?」
と突然谷ちゃんが聞いてきた。
「いないよー。だから予定ないんじゃない」
と私が答えると、
「私も。まあ、今はいらないけど。でも、私たちの分を亜矢が全部持ってってる感じよねー」
くそーなんか悔しい、と谷ちゃんがいつものようにおどけて、私たちは一緒に笑った。
今日はいよいよ同窓会。私はひとみと待ち合わせて行くことにしていた。
あれから私とひとみとで思いつく仲間5、6人に連絡し、出席者を確認して、浩太郎に知らせた。電話はやっぱり出ないことが多いので、メールで知らせると、大学のパソコンから場所と時間の連絡の事務的なメールが一通来ただけだった。15人ほどになった出席者全員に同時送信しているメールらしかった。
ひとみと一緒に居酒屋に入る。と、ひとみはすぐに懐かしい顔を見つけ、はしゃいでいた。私は仲間といっても、結局このサークルの主な活動である、楽器を弾いていたわけでもなく、ただコンサートを聴きに行ったり、“浩太郎の彼女”としてたまに飲み会に参加するというくらいだったので、ひとみの他にそう親しい人がいるわけでもなかった。
ひとみが懐かしい輪の中で盛り上がっていて、私が一人で立っていると、浩太郎が店に入って来て、私の方にやってきた。あ、と思って手を上げると、彼は私を通り過ぎて、私の後ろにいた寺門くんと北村くんに声をかけた。「久しぶりー」と後ろで盛り上がる声を聞きながら、私は上げた右手をゆっくりと下ろした。
それからは、彼と話すどころではなかった。ひとみは私の横で「ほら、行ってきたら」と何度か肘でつついてくれたけれど、そのくらいで、時々別のグループに加わって盛り上がっていた。
私一人が、完全に浮いている。そう感じた。
いたたまれなくなって、私は一次会の途中で帰ることにした。仲間たちは楽しそうに酔って、手を振ってくれたが、浩太郎はやっぱり私の顔を見ようともしなかった。
私が期待しすぎたんだろうか。でも、どう考えても彼の態度は納得がいかない。どうして、普通に話してくれないんだろう…。
先週から谷ちゃんは夏期講習に行っている。亜矢もまだ休みで、8月に入ってからは会っていない。でも彼女も、“結婚”という自分の今の目標のために、彼女なりの努力をしている。
なんだか私だけが立ち止まっているみたい。
そう思った。広い街の雑踏の中、私の周りをたくさんの人が通り過ぎて行く。私だけが、ずっと同じ場所に立ち止まっていて、どこにも進めない。帰り道、そんな光景が頭の中に浮かんでいた。