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きっかけ

 この前の土日で今年は長かった梅雨が明け、セミの声も聞こえ始めた今週からニ病理は夏休み体制だ。毎週金曜日のリサカンも9月までは休みで、さっそく夏休みを取っている先生たちも何人かいて、講座全体にのんびりとした雰囲気が漂っていた。でも私は、先週ようやく謎が解けた免染のおかげで、その前に染まらなかった分の染色のやり直しに追われ、忙しい日々を送っていた。

「今年もこの季節になりましたよー」

と昼休み、谷ちゃんが張り切っている。

「ニ病理宝くじの会!さあ、一口3000円よ」

サマージャンボ宝くじが発売されてもう一週間。もともと宝くじ好きな谷ちゃんが、みんなで買おうと呼びかけて始めたのだそうだ。

はいはい、と豊田さんも安道さんもお財布を出しにロッカーへ行く。ひろのさんも

「あ、私お金おろしてくるから、後でね」

と答えている。

「これって、毎年やってるの?」

と私。

「そう、サマーと年末ジャンボの2回ね。去年からやってんの。一枚300円だから、大体一人10枚で一口3000円。当たったらみんなで均等に山分け。一等前後賞合わせて、3億よ、3億」

と手の指を3本立てて谷ちゃんは言う。

「この前の年末ジャンボは5人で50枚買って、3000円が1枚当たって、後は300円が5枚でしたっけ?」

と亜矢がお茶を注ぎながらそう言った。

「そうねー、結局山分けするほどもないって言って、おやつ代になって終わりだったよね」

立てていた3本の指をくにゃんと折って、谷ちゃんは残念そうに言った。

 作製室には染色や実験に使う試薬用の冷蔵庫とは別に食品用の冷蔵庫があって、そこに飲み物やアイスなどを入れられるようになっている。先生たちの出張やネーベンでもらったお土産のお菓子などを入れておく棚もあって、みんなが小腹がすいた時にちょっとつまめるようなおやつはけっこう充実していた。

 ちなみに“ネーベン”というのは“アルバイト”の意味で、先生たちは医者だけど学生という身分なので、一週間に1、2度ほど、外の病院に当直や外来診療のアルバイトに行って生活費を稼ぐのだそうだ。それでもお給料はいいらしく、私と同い年で、もう結婚して子どもがいるという先生も多かった。もう家を建てているという先生も3人いた。

「そうそう、持ち家(もちいえ)部の先生たちね」

 “ニ病理宝くじの会”の話から、ニ病理の“部活”の話になった。部活といっても、高校のそれのように活発に活動しているわけではなく、カラオケが好きな人が集まった“カラオケ部”や、寿司好きな先生たちの集まりの“寿司部”など、何でも“~部”と名付けて自分たちの好きな時に活動している趣味の集まりのことだった。

「古田さんとかがやってるテニス部は、けっこう真面目に活動してるけどね。持ち家部の活動なんて、医局長の片桐先生はまあ、この大学の職員だけど、竹下先生と中川先生はまだ大学院2年目だもんねー。いつも3人で飲んではローンの愚痴を言ってるらしいよ」

3人の先生が寄り集まって、ぶつぶつ言いながらお酒を飲む姿を想像すると、なんだか笑ってしまう。

 休みの日はまだ一人で家にいることが多くて、浩太郎のことをいろいろ考えてしまうけど、職場でのこんな会話は彼のことを忘れさせてくれるくらい楽しかった。月曜から金曜まで職場で笑い、土日と家にいる時はまた彼のことを考えてひきずって、というサイクルが最近の私の毎日だった。夜になると浩太郎に電話したくなる。声が聞きたくなる。職場で起こったなんでもない出来事を、彼に聞いてもらいたくなる。でもできない…。

 

 午後からの免染での待ち時間で、そんなことをぼんやり考えていると、安道さんが声を上げた。

「痛っ!」

はっとして安道さんの座っている方を見る。ひろのさんも豊田さんも「あっ!大丈夫?」と慌てている。ミクロトームという薄切(はくせつ)の機械の刃で、指を切ってしまったのだ。

 薄切とはパラフィンで固定した組織標本のブロックを2~4ミクロン(1ミクロンは1/1000ミリメートル)の薄さに切る(というより削るという方が合っている)作業で、ブロックをミクロトームの台に固定して、機械に取り付けられているカミソリのような刃を手動で水平に動かして削っていく。ちょうど鰹節を削る時に、鰹節を動かすのではなく、鰹節を固定して、その上から刃の方を動かして削るような感じだ。そうやって削ったものをスライドガラスにきれいに伸ばして貼り付ける。それを染色してプレパラートを作っていく、という流れなのだが、この薄切がきれいにできていないと染色の途中で標本がガラスからはがれ落ちてしまったりするので、とても細かくて難しい作業だ。そのミクロトームの刃は、当たり前だが普通の包丁などよりもはるかに切れ味がいい。ちょっと手が当たっただけでも、かなり切れていることになる。安道さんは左手の人さし指から血を流していた。

「ちょっと、先生呼んでくる!」

と言って、ひろのさんが駆け出していった。「痛~い」と安道さんは、豊田さんが差し出してくれたタオルで指を押さえている。白いタオルにだんだん赤く血がにじんでくる。そこへひろのさんが片桐先生を連れて戻ってきた。

「心臓より手を高く上げて!」

と、歯ブラシをくわえたままの片桐先生が入ってきた。歯磨きの途中だったらしい。「はい~!」と小柄な安道さんは、自分の頭より上に手を高く上げている。ちょうど免染の依頼に作製室に入ってきた杉山先生も、何事かと見ていた。

「外科外来に行って、縫ってもらいましょう。その前にちょっと歯を磨かせて」

もごもごと言いながら、片桐先生はまた自分の部屋に戻って行った。

 今は病理医の片桐先生はもともとは外科出身だった。ここに来ている先生たちは、ここ三城(さんじょう)大学の付属病院の外科や内科、産婦人科、整形外科といろんな科から来ていて、みんな博士論文を書いたら、またそれぞれの科に戻って行くのだが、日本病理学会が実施する試験を受けて、病理の専門医になるという人もたまにいる。片桐先生は外科には戻らずに、病理医になって、そのままニ病理に残った人だった。なので、外科外来は、以前の自分のいわばホームグラウンドのようなところになる。

 その様子を見ていた杉山先生が、つぶやいた。

「うーん、出血を見ると、外科医と内科医ではまず考えることが違うって言うけど」

「え?どう違うんですか?」

と私が聞くと、

「出血を見ると、外科医は『この出血、どうやって止めよう』ってまず止める方法を考える。内科医は『どこから出血してるんだろう』ってまずその原因を考える、って。でも病理医は、まず歯を磨くんだなあ」

冗談とも本気ともつかない杉山先生の言い方に、みんなが笑ってしまった。安道さんも手を上げたまま笑っている。

「さあ、行きましょうか」

と片桐先生が戻ってきた。歯磨きが終わったようだ。今の杉山先生の言葉をひろのさんが話すと、

「いやあ、お昼に餃子食べたんですよー。外来に行くと知ってる看護婦さんが多くて、におうとうるさいから」

と言いながら、「大丈夫かな?」と自分の息を手のひらにはあっとはいていた。


 安道さんの結婚が決まったのは、その2、3日後のことだった。相手は、私の歓迎会の時「彼氏と住んでる」と谷ちゃんから聞いていたその彼だ。昼休み、まだ指に包帯を巻いたままだが、左手なのでそこまで不自由せずにご飯を食べながら、安道さんは亜矢と谷ちゃんに嬉しそうに報告した。きゃーおめでとうございますー、と2人が声を上げる。私と豊田さん、ひろのさんの作製室にいる3人は今朝聞いていて、午前中は仕事をしながらその話ばかりだった。

「このケガがきっかけなんです」

 現在33歳の安道さん。以前は「なんとか20代のうちに結婚!」と思っていたが、30になって、ああもう大台に乗ってしまったと気が抜けた時、今の彼と出会ったという。付き合いだして半年くらいたって一緒に住み始め、今2年目になる。

「なんか、どうなるんだろう、このままだらだら続くのかなあ、なんて思ってたんですよね」

 おとなしい彼はあまり話さないので、結婚の話もたまに「いつかできたらいいねー」と言うくらいで、ちゃんと話したことはなかったとか。

「それが、ちゃんと考えてくれてたんですよね」

彼は家事がまったくできない人で、これまで安道さんに頼りっぱなしだった。ところが、今回安道さんがケガをして料理を作るのも難しくなったら、彼は自分で作ると言い出した。

「がんばってくれるのは嬉しいんですけど、でもそんな急にはやっぱりできなくて」

今更ながら、安道さんの存在が大事だとわかったらしい。そして、彼はずっと少しずつ貯金もしていた。お金もたまったし、そろそろ結婚してもいいんじゃないか、無口な彼はぽつりとそんなふうに言った。

「まったく、『え?今のがプロポーズ?』って感じなんですけど。彼らしいなあと思って」

 幸せそうに安道さんは話している。そんな話を私はうらやましく聞いていた。同時に、何がきっかけになるかわからないなあとも思った。もう一度、そんなきっかけを起こせたら。今日こそ電話してみよう。そんなふうに思った。


 出てくれるだろうか。携帯を握りしめて、名字の「広瀬」ではなく「浩太郎」と入れていたので、アドレス帳のカ行を検索する。

「もしもし」

夜10時過ぎ。この前売店で会ったけれど、電話で聞く彼の声は久しぶりでドキリとした。

「あ、こんばんは」

「こんばんは」

少し沈黙があり、私はまた話し始めた。

「元気?」

「まあ、元気だけど」

私はずっと聞きたかったことを尋ねた。

「あの、おうちの鍵、どうしたらいい?」

彼は「ああ」と言って、今まで寝ていたのか、起き上がったような感じの声になった。

「あ、それ、もう使えないから。なんか、ちょっと前にアパートの全戸のドアを新しくするからって大家に言われてさ。こっちは忙しいのに工事に立ち会えって言われてめんどくさかったよ」

「えっ?そうなの?」

「そう、最初『ドアを新しくします』って郵便で通知があったんだけど、俺がずっと大学に泊まったりしててうちに帰ってなくて、郵便受け見てなくてさ。そしたらわざわざ携帯に電話来て、時間取られてさー」

と不満そうに浩太郎は話す。その口ぶりは嘘ではなさそうだ。

 「だからそっちで捨てといて」と彼があっさり言うのを聞きながら、私は思っていた。そうだったんだ。浩太郎がわざと変えたんじゃなかった。それがわかっただけでも電話してよかった。

「あ、今度、同窓会があるらしいよ」

浩太郎がそんなことを言い出した。

 私たちが知り合ったのは、私の友達が入っていた大学のクラシックサークルでだった。私の文学部の同じクラスの友人、坂野(さかの)ひとみがそのサークルに入っていて、小さなコンサートを聴きに行った時、私も一緒に打ち上げに参加して知り合ったのだ。浩太郎はバイオリンを弾いていた。それから、クラシックはよくわからない私もいつの間にか仲間に入れてもらって、よく10人くらいで遊んでいた。

(てら)ちゃんが盆休みで帰って来るからって。15日にあるらしい」

「え、寺門(てらかど)くん来るんだ」

寺門くんは浩太郎の親友だった。懐かしい名前を聞いたせいか、私も普通に話せた。まるで大学時代に戻ったようだった。

「うん、北村も。坂野も来るんじゃない?」

ひとみとは卒業して社会人になってから一年くらいはよく連絡を取っていたが、就職で彼女が他県に行っていたのでだんだんと会う機会がなくなり、年賀状で「今年は会いたいね」と書くくらいになっていた。

「あ、じゃあ連絡してみよう」

 同窓会で会える。懐かしい仲間に会えるのももちろん嬉しかったが、浩太郎に会えることがやっぱり嬉しかった。同窓会なら、昔の仲間と一緒なら、私も以前の私でいられる。また元に戻れる。そう思いながら電話を切った。


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