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面接

 出身大学といっても、私の卒業した三城(さんじょう)大学は総合大学で、キャンパスは理系地区と文系地区に分かれていた。文学部だった私は、浩太郎とお昼を食べるのにたまに理系地区の食堂くらいにしか行ったことはなく、今回面接を受けることになった医学部の研究室を探して、所々にある案内の標示を見ながら、広い大学の中をキョロキョロと歩いて行った。

 「臨床研究棟」という建物を見つけたのは、門を入ってから15分も歩いたところだった。

「えーっと、ここかな?」

と、建物に入ると、薄暗い廊下には壁に沿って本棚や、横に長い、腰の高さほどの長方形の大きな箱型の電化製品が並んでいて、廊下の幅は本来の幅よりもだいぶ狭くなっていた。

 その置いてある物の間に各部屋のドアがあり、ドアの上には部屋の名前の書かれた四角い標識が突き出している。私は今度は上を見上げて標識を探しながら歩いて行った。

 長い廊下の奥の方を見ると、「第二病理」という文字が見えた。

「あった」

 やっと見つけて、ふとそのさらに向こうに目をやると、廊下の一番端に「非常口」の緑の文字が見えた。

 薄暗い廊下の向こうの、明るい緑の光。

 その時の私には、それが希望の光に見えた。


森川忍(もりかわしのぶ)さんね」

 温厚で人の良さそうな白衣の人が、テーブルをはさんで私の前に座っている。50代中頃くらいだろうか。豊かな髪には白いものがけっこう混じっている。この第二病理学講座の(いぬい)教授だ。その隣には割とがっしりした体格のこれも白衣の人がニコニコして座っている。こちらは40代くらいか。

「はい。古田さんの紹介で来ました」

 私が母のテニス仲間の名前を出すと、私の履歴書を眺めていた乾教授は眼鏡を少しずらして、私に顔を向けた。

「ああ、古田くんの。まあ、いいでしょう。がんばってください」

 えっ?それだけ?と私が思ったのと同時に教授は席を立って、隣の40代に「後はよろしく」といった感じで手を挙げ、忙しく部屋を出て行った。私が唖然としていると、40代が代わって話し出した。

「じゃあ、まず研究室を案内しますね。こちらにどうぞ」

「はあ」

私はぽかんとしたまま、その人について部屋を出た。

「私は准教授の柴田です。森川さんにはさっそく6月1日から来てもらうけど、大丈夫ですか?」

歩きながら柴田先生はハキハキと話した。

「あ、はい、大丈夫です」

さっきので採用ってことなの?と思いながらそう答えて、先生の後ろについてすぐ隣の部屋に入ると、そこにはコピー機や書類の棚があって、机には白衣を着た女性が一人座っていた。

「こちらは教授秘書の一ノ瀬(いちのせ)さん」

紹介されると、その人は席を立って私に微笑んだ。

一ノ瀬亜矢(いちのせあや)です。よろしく」

私と同じ年くらいだろうか。彼女が首をかしげると後ろで一つに束ねた長い黒髪が、さらりと揺れた。美人だがきつい感じはなく、優雅なお嬢様といった印象だ。

「あ、森川忍です。よろしくお願いします」

私が頭を下げると、ドアを開けて一人の背の高い人が入ってきた。

「亜矢ちゃーん、これ、この前のネーベンのお土産」

そう言いながらその人は四角い箱を彼女に差し出している。

「あ、いつもありがとうございます~」

彼女はにっこり微笑みながら、それを慣れた手つきで受け取った。

「作製室にも配っといてね」

と言いながらその人はちらりと私の方を見た。すると柴田先生が私を紹介した。

「6月から来ることになった、森川忍さん。彼女には免疫染色をやってもらうよ」

メ、メンエキセンショク?初めて聞く言葉に、私は心の中で驚いた。何それ。ど、どうしよう。

 私の動揺をよそに、その人は嬉しそうな顔をした。

「おー、やっと決まったんですね!よかったですねー。よろしく!」

“屈託のない笑顔”というのはこのことか、というくらいすがすがしい笑顔で、その人は私に笑った。その中にも、私は出会った頃の浩太郎の笑顔を重ねていた。よろしくお願いします、とまた頭を下げながら、私はその人の白衣の胸ポケットにある名札の名前を見ていた。『整形外科 杉山直樹』。ふうん、整形外科の先生なのか。

「一ノ瀬さん、彼女の名札と白衣の用意お願いします。じゃあ、作製室に行きましょうか」

 そう言って柴田先生は彼女に手に持っていた私の履歴書を渡し、私は我に返ってまた先生の後について部屋を出た。狭い廊下では何人かの白衣の人とすれ違った。手にゴム手袋をしている人。長い紐で、首からペンダントのようにタイマーをぶら下げている人。みんな忙しそうにその『標本作製室』と書かれた部屋に出入りしていた。

 

 その部屋に入ると、夏みかんのような柑橘系の匂いがした。

 (いい匂い。何の匂いだろう?)

 わからないながらも何かの薬品の匂いだろうとは想像できたが、こういう研究室の空気というと消毒薬のような鼻につくものを想像していたので意外だった。

 入口のすぐ右には電話のある棚があり、左には壁に沿って見たこともない機械が並んでいる。真っ直ぐ奥に進むと中は広々としていて、正面は全て窓で、外の通りがよく見える。通りの向こうに中庭があり、さらにその向こうに5階建てほどの別の建物が見えた。窓のそばには流しがあり、小学校のころに理科の実験で見たようなビーカーやメスシリンダーが、流しの横の籠に逆さまに置いてある。流しを挟んで籠の反対側の横には水槽があって、そばの水道の蛇口に付けられた短いホースからチョロチョロと水が流してあった。水槽のさらに隣には、これもまた初めて見る大きな機械が二つ、ウィーンと音を立てていた。窓から日が射し込んで、部屋はとても明るかった。

「ここが森川さんの作業台になります」

と柴田先生は流しを背にして振り返った。そこには黒く広い机があり、机の両端には顕微鏡が置いてあった。

「はあ。なんか、すごいですね」

私は他に言葉も見つからず、正直な感想を述べた。

「じゃ、紹介するから、こっちに」

と言って先生はさらに部屋の左奥に入っていった。左奥の壁際の机には、壁に向かって白衣の女性が三人並んで座っていて、それぞれ机の上の何かの機械を動かしていた。

林田(はやしだ)さん」

と先生が声をかけると、一番奥の端の女性が手を止めて振り返った。

「こちら、森川さん。6月から来てもらうことになったんで、よろしくお願いします」

林田さんと呼ばれた女性は立ち上がって、私を見た。肩までのストレートな栗色の髪に、きりりとした印象の眉。30代くらいかなと思われたが、ベテランの雰囲気もある。

「林田ひろのです。よろしく」

他の二人の女性も手を止めて、私の方を振り返っていた。

「森川忍です。よろしくお願いします」

私はまた同じように頭を下げた。


 その後はロッカーを案内され、6月1日の朝8時半に来るように言われ、私は大学を後にした。

 門まで構内を歩きながら、私は秘かに期待していた。

(浩太郎に会えないかな)

 母からこの仕事の話を聞いた時、正直気が進まなかった。27歳という年で“アルバイト”という身分も不安だったし、研究室の仕事ってどんなことなんだろう、文学部出の私にできるんだろうか、という気持ちもあった。でもそれ以上に私をここに来させたのは、家にこもっているよりも、何でもいいから何かしなければ、という思いと、もしかしたら浩太郎に偶然会えるかもしれない、という期待だった。医学部の隣は理学部の敷地で、構内を歩いていたら、いつか偶然会えるんじゃないか、そんな期待があった。白衣を着ている私を見たら、浩太郎はなんて言うだろう。久しぶりに会えば、また元に戻るんじゃないか。

 考えてみれば今回彼と付き合ったのは、合鍵をもらったとはいえ、3月の中頃から4月の終わりのほぼ一カ月間、と中学生のレベルのような、“付き合った”とも言えない期間だ。それでも私たち二人にはその前の大学3年間がある。2年生の時から卒業まで、私の大学生活の思い出は、ほとんど彼の思い出だ。私の中の思い出はそう簡単には消えてくれないし、彼と再会したことで、余計に鮮明なものになっていた。そして何よりも、再会した彼は前よりも素敵だった。やっぱりこの人しかいない。私のそんな思いを強めるのに十分だった。彼より好きになれる人なんて、この先もう現れない。それに浩太郎は女性との付き合いが得意な方ではない。彼にとっても、私しかいない。そんな思いが、私をいっそう彼をあきらめきれない状態にしていた。

 そんな私の事情を父はもちろん、母も知らない。彼の家に泊まる時も、女友達の家に行くと言っていた。彼のことを話すのは、彼がきちんとうちに挨拶に来てくれる時――。そう思っていた。

「まあ、いつの間に」

いつかそんなふうに両親を驚かせたかった。

 

 面接の日のことを母に話すと、すぐに採用になったことを喜んでくれた。

「やっぱりツテがあると違うわねぇ。古田さんにお礼言っとかなきゃね」

古田さんてそんなに顔きくの?と母に尋ねながら、私は研究室のことを思い出していた。

 夏みかんの匂いのする、明るい職場。そんなイメージだった。

 いよいよ明日から仕事だ。

「メンエキセンショクって何だろ」

そんなことを思いながら、私はその夜、久しぶりに涙を忘れて眠った。


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