小さな世界
先週までは、今年は暖冬かと思われるほどの暖かい日が続いていたが、今朝は年末らしい寒さになった。予報では午後には今年最初の雪が散らつくだろうと言っていた。
私は研究棟の薄暗い廊下をブーツでコツコツと歩いて来た。廊下の奥に見える“非常口”の緑の光も、もう見慣れた毎日の風景になっている。
秘書室の前まで来ると、急にドアが開いて、杉山先生が出て来た。
「あ」
2人同時に声が出る。何しろ、電話で話したのは昨日のことだ。
「おはようございます」
私は先生に笑顔を見せた。
「おはよう」
先生も頷いて、いつもの笑顔で答えてくれた。それで十分だった。私はそのまま作製室へ向かい、後ろで先生の部屋のドアがバタンと閉まる音を聞いた。
失恋したのに、それほど悲しくないのはなんでなんだろう。杉山先生がネーベンでいない水曜日、私はまた実験室に来て、先生に告白したこととその結果を(抱きしめられたことは省いて)加藤先生に報告しながら、そんなことを思っていた。
加藤先生は全部黙って聞いてくれていたが、私が話し終えると、こんなことを言った。
「そっか。まあ、そういう奴だよな、杉山って」
「え、そういう奴って?」
「だってさあ、別に結婚してるわけじゃないんだから、寄って来られたんならうまいとこ付き合っときゃいいのにさ。医者じゃ多いよー、そういう人」
なるほど、と、亜矢と押川先生の例が頭に浮かぶ。
「そんなこと言って。加藤先生だって、そんなことしないでしょ」
と私は直美さんの顔を思い浮かべる。
「まあ、俺はもう結婚したからないと思うけどね。…うーん、でも羽田美智子に言われたらちょっと考えるかも」
「はあ?」
唐突にきれいな女優さんの名前が出てきて、笑ってしまう。
「先生、ファンなんですか?」
「いや。でも…似てるなと思って」
「ええっ?」
一瞬私に言われたのかと思った。まさか。誰かにそう言われたことは今までで一度もないし、自分でも似ているとは到底思えない。すると先生は私の心を読んだかのように、にやりと笑って言った。
「杉山の彼女」
「ええーっ?!」
今度は本当に驚いた。そんな美男美女の間に、私は入り込もうとしていたのか。恥ずかしさと、加藤先生への怒りのようなものが沸いてきた。
「先生、知っててなんで教えてくれなかったんですかっ」
「だって、言ったらやる気失くすでしょ、森ちゃん」
先生は私の反応を面白がっているようだった。そうわかっていても、私は自分の動揺を止められない。
「当たり前じゃないですかっ。そんな美人に、かなうわけないじゃないですかっ」
えーいと、先生の白衣の腕を叩きながら、八つ当たりする。痛い痛い、と先生は言いながら、
「じゃ、どういう人だったらかなうと思うの?」
と先生は少し真顔になった。
「え?どういう人ならって…それは…」
先生を叩いていた手が止まる。
「かなうとかかなわないとか、そういう問題じゃないんじゃないの?」
「…どういうことですか?」
先生は何が言いたいんだろう。
「結局、ベストを尽くすってことしかないんじゃないかな、と思って」
ベストを尽くす…。なんか、高校の部活のノリみたいだ。
「それでまあ、森ちゃんはいい線行った、というか。けっこう健闘したんじゃないの?」
健闘…?そう言われて、杉山先生に抱きしめられた感覚がフラッシュバックする。あれは健闘したということなのか。そう思って黙ってしまった私を見て、
「あ、もしかして、なんかあった?」
と勘のいい加藤先生に顔を覗きこまれてしまった。
「いえ、別に。ありません。なんにもありません」
これ以上面白がられてはたまらない。私はすましてそう答え、そそくさと実験室を出た。中からあっはっはと笑っている先生の声が聞こえた。
「で、結局クリスマス、忍はなんか予定あるの?」
と、谷ちゃんから聞かれた。今日は病院の食堂に亜矢と谷ちゃんと3人で昼ご飯を食べに来ていた。明日からは三連休で、今年はクリスマスイブが土曜日だ。恋人のいる人には、さぞかし幸せなクリスマスになることだろう。谷ちゃんは受験生なので、クリスマスなど関係なく、連休の3日間は予備校の集中講義に出るらしい。
「別に、なんにもなし。亜矢は?」
と、私は何気なく亜矢にパスを回す。すると亜矢は意外な人の名前を口にした。
「クリスマスは、石川さんとデートです」
ええっ?!と私と谷ちゃんが同時に驚いた。
「な、何があったの?!」
「さては忘年会でなんかあったな?」
亜矢に向けて、まるで芸能記者のように、私たちの口から質問が飛び出した。亜矢はそれにすまして答える。
「別に。ただ忘年会の時に、クリスマスイブにご飯食べましょうって誘われただけです」
亜矢が言うには、石川さんのその誘い方がカチカチで、かなり緊張していたから、「なんだかかわいそうになって」OKしたのだそうだ。
「『ご飯』って言うのにどれだけ時間かかったか。もうさっさと済ませたくって『あ、いいですよー』って軽く返事しちゃった」
罪の意識のない笑顔で亜矢は続ける。
「…かわいそう、石川さん。『イブにご飯でOK』ってことは、かなり期待してるよね…」
谷ちゃんが私を見る。私も頷いて、
「石川さんをなるべく傷つけないであげてね」
と、亜矢にお願いするようにつぶやいた。
「あら、傷つけるなんて、そんな。別に断る理由もないでしょう?」
亜矢の思考がわからない。私と谷ちゃんはため息をつきながら、2人で首をかしげていた。
その夜、10時過ぎに携帯が鳴った。こんな時間に誰だろう?画面を見ると、浩太郎だった。彼の方からかかってくるのは、いつ以来だろう。そんなことを思いながら電話に出る。
彼は相変わらず忙しいようだった。三連休のクリスマス前ということもあって、研究室の人たちも家族サービスや彼、彼女と会うために誰もいなくなったので、さっきうちに帰って来た。こんな時間に家にいるのは久しぶりだ。彼は家で1人で飲んでいるようで、機嫌良く自分のことを話していた。
「そうそう、俺、イギリスに行くって言ったっけ?」
この前の電話で、そんなことを聞いた気がする。なんだかあれが、もうずいぶん前のことのようだ。
「この前論文のめどがついてさ、博士号取れることになったから、来年の4月から行くのが正式に決まったんだ」
「そう」
と、私はそれだけ答えた。すると彼は思いがけないことを口にした。
「一緒に行く?」
「えっ?」
そう言われて私は言葉に詰まった。冗談なのか、本気なのか。冗談ならセンスを疑うが、本気ならもっと笑えない。半年前の私なら、その言葉に二つ返事で飛びついたかもしれない。けれど、今の私にとってその言葉は、全て終わった後に遅れてやって来たヒーローのセリフのように聞こえた。ヒーローは、自分の登場が遅かったことには気付かずに、高らかに声を上げている。そんな姿を想像すると、なんだか彼が滑稽に思えて、私は少し考えるフリをした。そして、こう答えた。
「ううん、行かない。仕事あるし」
彼は私の答えが意外だったようだ。今度は彼が一瞬言葉に詰まる。
「仕事って…」
やっとそう答えながら、彼は次の言葉を探しているようだった。そうして考えた末の言葉がこれだ。
「どうせ、バイトだろ?」
「そうだけど…。でも、大事な仕事なの。病気の診断に必要な、小さいけど、大事な世界を作ってるの」
そう、世界なのだ、私が作っているのは。その顕微鏡で覗く小さな世界の向こう側には、患者さんやその家族、友人、恋人と、患者さんを愛している人がいて、もっと大きな世界が広がっている。
「世界だなんて、大げさだな」
彼はふっと笑ってそう言った。確かに大げさかもしれない。でも、今の私にはそう思える、大事な仕事だった。この人には説明してもわからない。そう思った。
イギリスでもがんばってね、そう言って電話を切った。パタンと携帯を閉じる。これで良かったのか、少し考える。でもきっと、良かったのだ。いや、これから良かったことにする。そう決めた。
不意に加藤先生の顔が浮かんだ。失恋しても悲しくなかったのは、きっと先生が笑いとばしてくれたからだ。先生がいてくれて、良かったな。そう思ったら、次々にいろんな人の顔が浮かんできた。杉山先生、谷ちゃん、亜矢、ひろのさんに豊田さんに安道さん。みんなの顔が浮かんで、みんなが私の名前を呼んでくれる。「忍!」「忍さん!」「森ちゃん!」「森川さん!」石川さんや古田さんに馬場さん、水田化学の村川さん、そして柴田先生に片桐先生、そして、乾教授。
その時、私の中で何かがはじけるようにひらめいた。そうだ、いつの間にか私の周りには、世界が出来上がっていた。小さいけれど、大事な世界――。それは、今私がいる場所そのものだ。私の周りにみんながいてくれて、私の世界が出来上がっている。
みんながいてくれて、良かったなあ。
今、私の周りにいる人が、みんなみんな、いてくれて良かったな。
私はその時、狭い自分の部屋のコタツの中で、1人で、幸せになった。
仕事納めの28日は、一日作製室の大掃除だった。普段あまり掃除していない、エアコンのフィルターや棚の上、試薬棚の中、水洗に使っている水槽や流しのシンクなど、一年間のお礼を込めて掃除する。
今年は本当にいろんなことがあった。会社を辞めて、浩太郎とヨリが戻ったかと思ったら別れて、そしてニ病理に来た。全く知らなかった世界に飛び込んだ私は、ここでいろんなことを教えてもらった。今年一年を総括すると、結局いい年だったのかな。そんなことを思いながら、今年が終わって行った。
年が明けて、1月4日の仕事始めの日。まずは、隣の講座の第一病理とニ病理と病院の検査部の合同の年始の挨拶会が広い講義室で行われ、それぞれの講座の教授の挨拶があった。
それが終わって講義室から作製室に戻って来ると、谷ちゃんがロッカーから封筒を持って来た。
「さあ、年末ジャンボの当選発表!」
それは去年買っていた年末ジャンボ宝くじで、12月31日に当選番号は発表されていたが、仕事始めの日にみんなで見ようということになっていた。谷ちゃんは準備よく、当選番号の書いてある新聞の切り抜きを持って来ていた。いつも安道さんとひろのさんが座っている薄切台の所に、みんなで丸椅子を持って来て座った。
「じゃあ、私がくじの番号を読むんで、確認してください」
と谷ちゃんが宝くじを持ち、新聞の切り抜きを安道さんが受け取った。みんなはその新聞の切り抜きを覗き込んでいる。
「まず、バラからね」
サマージャンボの時と同じように、6人で、連番30枚、バラ30枚の合計60枚を買っていた。谷ちゃんが一枚ずつバラのくじ券の組と番号を読み上げる。その番号がないかみんなで切り抜きに目を走らせる。が、当たっていたのは末等の300円だけだった。
「あー。これでバラは終わりか。後は連番ね」
連番は最初の6ケタの番号を読み上げられたら、後はその一番下の数字が0から9までのセットになっているので、最初でもうわかってしまう。
「なんか、楽しみがないねー」
そう言いながら谷ちゃんが読み上げる。最初の10枚はやっぱり末等の300円だけだった。
「なんか、今回は3000円も当たってないねー」
みんなでがっかりしながら、次を待つ。
「次は…67組の…」
1等が67組だった。「おおっ」とみんなの期待が高まる。
「153720だから、153729まで!」
1537…とみんなで見てみると。
「えっ?」
と安道さんが口を押さえた。私も思わずさらに身を乗り出して覗く。そこには“1等 67組 153723”の番号があった。
「ええっ?!」
私とひろのさんと豊田さんが声を上げた。嬉しさとは逆の、怖さに近いような、鳥肌が立った。
「なになに?」
と谷ちゃんも覗き込む。
「これ…」
と安道さんが切り抜きを谷ちゃんの方へ向けた。
「67組の、15372…ええーっ?!1等?!」
しかも、前後賞付きだ。
「やったー!!これで、大学に行ける!」
と谷ちゃんが叫んだ。その言葉に、私と亜矢が「あっ」と言い、豊田さんとひろのさんが「えっ、大学?」と反応したのがほぼ同時だった。「あっ」と今度は谷ちゃんが口を押さえている。「え?」「あっ」としばらくみんな言葉にならない声を上げ、黙ってしまった。その気まずい沈黙を破るように、亜矢がポツリとつぶやいた。
「えーと…3億ですから、6人で割ったら、1人5000万ずつですね…」
その言葉に、またしーんとなった作製室に、自動染色機の規則正しい音だけがウィーンと響いていた。