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告白

「森川さん、最近よく実験室にいますね」

水田化学の村川さんが、この前注文していた抗体を届けてくれた時、私は実験室にいた。谷ちゃんの仕事を手伝うのと、最近は加藤先生と話す目的も加わって、私は免染の合間を見ては実験室に顔を出していた。

「ええ、まあ、谷さんの仕事も教えてもらってるんで」

とあいまいに笑うと、村川さんは

「へぇー、分子生物学の方も勉強されてるんですねー」

と感心していた。「いや、もともと文系の方なのに。すごいなー」と村川さんはベテランの営業マンらしいトークで続ける。そんなつもりはなく、いつも動機が不純な私は、そこまで感心され褒められるのが申し訳なくて、「いえ、そんな」と手を振る。

 そんなことを話しながら、今日の納品書に私がサインをすると、「来週にはうちとメーカーさんの年末年始の休みの予定表をお持ちしますね」と言って、村川さんは台車を押して帰って行った。

 ニ病理に入っていつの間にか半年が過ぎていた。12月も半ばになり、いつものんびりした雰囲気のニ病理にも、さすがに年末らしい慌ただしさがある。コートやダウンジャケットと、着る物が重くなっていくにつれて、街や人の足取りは軽く、ジングルベルの音に合わせて、どこか浮かれて今年の終わりへ向かって行くようだ。

 その周りのリズムにつられて、私の気持ちもはやっていた。最近は毎日のように、加藤先生に相談ともいえないような話をしながら、杉山先生と過ごすイヴを夢見ていた。亜矢と谷ちゃんにはまだ言っていない。ある日突然2人を驚かせたいような気持ちもあったし、うまくいかなかった時には余計な気を遣わせたくないという思いもあったので、なんとなく言い出せないままになっていた。

「まあ、言ってみないとわかんないと思うよ」

実験の手を動かしながら、加藤先生がアドバイスをくれる。

「ですよねー」

私は隣の黒い丸椅子に座ってくるくる回りながら、先生の手元を見ている。頭の中では加藤先生の声と一緒に、いろんな考えが回る。もしも杉山先生に告白したとして、その後はどうなるんだろう。うまくいけばそれでいいけれど、ダメな時は…。浩太郎の時のように、もう先生と話せなくなってしまったら。あの笑顔が私に向けられなくなったら…。知らずにため息をつく。けれど、恋とは、こんなふうに考えている時間が、実は一番楽しいのかもしれない、などとのんきなこともどこかで思いながら、私は自分のタイマーが鳴るまで実験室で考えていた。


 16日の金曜日には最後の医技短の実習生に免染を教えた。最初の頃慣れなかった指導も、今は少し自信を持ってできるようになり、待ち時間にはPBSのpHが違っていて染まらなくなったことや、ヘマトキシリンが退色したことなど、ここに来てからの私の経験談を話したりした。私よりも学生さんたちの方が専門的な勉強をしているのだけれど、教科書に載っていることと、実際の体験では、それの持つ迫力がまるで違うのだ。どの学生さんも、興味深そうに熱心に聞いてくれた。

「ここは病院からの依頼で検査の標本を作ってるから、このプレパラートを先生たちが見て、教授が最終診断をして、その診断結果を病院に返すことになるのよね」

私の言葉に学生さんたちは頷く。これは私が最初にひろのさんに言われたことだ。でも今は、自分の中の実感としての言葉になっている。

「その診断結果に従って、その後の治療方針が決まったりするから、こんな小さな断片でも、すごく大事なの。いつも顕微鏡を覗くたびに思うんだけど、なんか、顕微鏡の向こう側に、患者さんやその家族がいるんだなあって。私は直接患者さんたちに会うことはないし、病気を治してあげられるわけじゃないけど、この小さい物を通して、少しは役に立ってるのかなあって」

学生さんたちにそう言いながら、私は自分自身に話しているのだ。そんな仕事をしている自分が、以前よりも好きになっていた。

「ありがとうございました」

と言って学生さんたちが帰って行く。「国家試験、がんばってね」と笑顔で見送ったひろのさんが、私の方を振り返った。

「森川さんも、実習お疲れ様でした。もう免染も一人前ね」

ひろのさんの安心したような笑顔に、「あ、はいっ」と私も笑顔になる。

「今日の忘年会では、飲みましょうね」

にっこり笑ってひろのさんはロッカーの方に向かっていた。今日は7時からニ病理の忘年会だ。久しぶりに作製室全員がそろって参加だった。そして、安道さんと谷ちゃんがいる、最後の忘年会だ。

 

 忘年会の会場の居酒屋に着くと、幹事の先生たちが座席のくじを作っていた。

「ひいた番号の席に座ってくださいねー」

今日は三城大学附属病院の検査部の人たちも一緒なので、全部で40人以上の人がいる。大きな座敷は満員だった。そんな中、私はひろのさんと同じテーブルになった。

 もともと美人なひろのさんだが、お酒が入って頬が染まるととても色っぽく見える。私もこんなふうに見えたらいいのになあなどと思いながら、後ろのテーブルで盛り上がっている杉山先生の方を見る。

「森川さんも、もう1人でも大丈夫よね」

不意にひろのさんから話しかけられた。

「いえ、そんな、まだまだです」

と言いながらひろのさんにビールを注ぐ。

「ううん、今日の免染の指導もちゃんとしてたし。安道さんの後任の人ももうすぐ決まるみたいだし…作製室も変わっていくんだろうなあ」

とグラスを持ってひろのさんがつぶやくように言った。どうしたんだろう?いつものひろのさんらしくないな、と思いながらも、私は後ろの杉山先生が気になっていた。

 二次会はカラオケになった。安道さんと豊田さん、ひろのさんはいつものように一次会で帰り、私は亜矢と谷ちゃんと、先生たちもまたいつもの歌好きなメンバーで移動する。前の方には加藤先生が杉山先生と並んで歩いている。

 カラオケボックスに着くと、加藤先生が私を呼んでくれて、私は先生と杉山先生の間に座った。

「あー、忍ずるい。両手にいい男!」

酔っ払った谷ちゃんが私を指さしている。亜矢は石川さんに手を引かれて、隣に座っていた。

「ふふーいいでしょー」

そう言う私も今日はずいぶん飲んでいて、気持ち良く頭がふらふらしていた。ふらふらついでに杉山先生に寄りかかる。

「先生、気持ちいいー」

「ほんとー、俺も気持ちいいー」

先生は私に合わせてくれて、同じように寄りかかってきた。

「そうそう、先生、加藤先生の結婚式で何歌ったんですか?」

私はずっと聞きそびれていたことを聞いてみた。

「ん?ああ、歌ね。あれはねー、セロリ。山崎まさよしの」

「セロリ!スマップの?」

「違う!スマップのじゃなくて、山崎まさよしのセロリ!」

「山崎まさよしのセロリ?」

酔っ払い2人が、ろれつの回らない口で、セロリセロリと連発する。それを見て加藤先生が隣で笑っている。

「じゃあ、それ歌って先生」

私が頼むと、「いいよー」と言って先生はカラオケを入れて歌い出した。先生がいい声で「がんばってみるよ」なんて歌っている。やれるだけがんばってみてよ。それは私に言われたような気がした。

 歌い終わって杉山先生がトイレに立った。次は片桐先生が少年隊の仮面舞踏会を1人で歌い出した。いつものように、みんながそれに文句をつけている。私の頭の中で、さっきの「がんばってみてよ」が回る。私もトイレに立つふりをして、部屋を出た。

 トイレの前で待っていると、杉山先生が出て来た。

「あ、森ちゃん。お疲れ!」

片手を上げる先生に、私は突然こう言った。

「あの、先生、私、先生のことが好きかも」

今しかない。「かも」は余計だった。「好き」でよかったかな。そんなことを思って下を向いて立っていると、先生がいきなり私を抱きしめた。

 先生は何も言わなかった。ただ、ぎゅうっと私を抱きしめていた。その時、なぜか私には先生の声が聞こえたような気がした。その精一杯の抱きしめ方で。

気持ちに応えたいけど、ごめん、でも、できない。

そんな抱きしめ方だった。体で声を聞いたのは、生まれて初めてだった。こんなことがあるんだ、と頭のどこか冷めている部分で思いながら、先生の腕の中で、私も黙って立っていた。


 その後はみんな派手に酔っ払って、最後にはカラオケボックスの部屋の入口に置いてあった花瓶を倒してしまい、柴田先生が店員さんに謝っていた。私は杉山先生に告白の返事を聞くこともできず、なんとなくそのままみんなで大騒ぎして帰ったような記憶がある。翌日の土曜日は頭痛で一日つぶしてしまった。

 あの時酔っていたけど、やっぱりあの“声”が告白の答えなんだろうか。けれど、ただの私の勘違いということもある。がんばって告白したのはいいけれど、もう後一歩をなんでがんばれないんだろう。一日頭痛を抱えながら、私はそんなことばかり考えていた。

 頭痛もおさまった翌日の日曜日、気を取り直してもう一度がんばってみることにした。携帯を両手で持ってお願いしてから電話をかける。

 5回ほど呼び出し音が鳴り、先生が電話に出た。

「はい?」

「あ、杉山先生?森川ですけど」

なるべく普通に話す。

「ああ、森ちゃん、金曜はお疲れ。で、どうした?」

優しい、いつもの先生の声だ。

「あの、今大丈夫ですか?」

「ああ、今、家だから。大丈夫よ。で?」

まるで何事もなかったかのような先生の口調に、少し焦る。

「あの、私、カラオケの時に、先生に好きって言ったんですけど…」

一瞬電話の向こうで先生が「えっ」と驚いた。

「それであの、返事というか、その…聞きたくて…」

私が言葉に詰まって黙ると、少しの間沈黙が流れた。

「そっか…いや、酔ってたから俺もはっきり覚えてなくて。でも、言ってくれたんだ」

「はい」と言って先生の言葉を待つ。

「そっか。森ちゃんが真剣に言ってくれたんなら、俺もちゃんと答えないといけないよね」

先生ははあっと少しため息をついて、こう言った。

「ごめん、俺は、好きな人がいるんだ」

先生ははっきりとそう言った。好きな人がいるんだ。私は頭の中でもう一度繰り返す。やっぱりそうか。あの“声”は私の思い違いなんかじゃなかった。

 私が黙っていると、先生がまた続けた。

「ああ、でもなんで森ちゃん、あんな時に。いや、言い訳するわけじゃないけど、俺相当酔ってたからね。いや、でも、ごめんね、ちゃんと言わなくて」

酔っていても、先生はちゃんと答えてくれていた。あんなに酔っていた先生が、私に伝えようとしてくれていたのもすごいと思うし、それが私に伝わったのもすごいと思って、私は断られたのになんだか嬉しくなった。

「いえそんな、いいんです。ちゃんと答えてもらえて、よかったです」

あまり先生が謝るので、私も申し訳なくなって、そう言った。

 それから少し忘年会の話をして、電話を切った。告白の結果はダメだったけれど、私はなんとなくすがすがしい気分だった。その時ふと、あの漫画の主人公の彼氏の言葉の意味がようやくわかった。そうか、「好きな人がいる」というのは、彼女に対しても、それから告白してくれた相手に対しても、一番思いやりのある言葉なんだ。はっきりそう言われたことで、私は先生とまた普通に話ができる。そう思った。

 明日仕事に行ったら、先生に笑顔であいさつしよう。先生もきっと笑顔で答えてくれる。それから、加藤先生に報告しよう。天気のいい日曜日、きりりと冷えた12月の風が吹いていた。


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