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好きな人(後編)

 翌日の朝、急に休むとひろのさんから電話があったので、金曜日の予定だった大橋さんと太田くんの免疫染色の実習をその日にすることになった。

 免染の待ち時間に話していると、学生時代に読んでいた漫画の話になった。大橋さんは夏休みのアルバイトに来ていたので、いつもの学生さんよりも気軽に話せる。隣で太田くんはにこにこしながら、時々うなずいている。私がある少女漫画を挙げると、それは今も雑誌で連載されていて、大橋さんも好きで読んでいると言っていた。

 帰りにコンビニに寄ると、その雑誌を見つけた。社会人になってからは読んでいなかったその雑誌を手に取ってみると、その漫画が載っていた。懐かしさから、つい立ち読みする。

 主人公の女の子は私が読んでいた頃と同じ高校2年生のままで、その彼氏や友達など、登場人物もあまり変わっていない。連載だが一話完結の話が多くて、主人公の女の子は少し内気な子で、彼氏もシャイなため、2人の間で誤解が起きたりすれ違ったりするが、最後はハッピーエンド、という毎回の作風も変わっていなかった。

 今回の話は、その彼氏が他の女の子から告白されているところを、主人公の女の子が見てしまうところから始まっていた。告白を偶然見てしまったことや、彼がどういう返事をしたのか知りたいけれどなかなか言い出せない主人公。彼氏の方は見られたことには気付いていないので、何も言ってくれない。1人で悩む主人公に、最後は彼の友人が教えてくれる。

「あいつ、『今、好きな子がいるんだ。いや、彼女なんだけど』って言って断ってたよ」

その言葉に、主人公の女の子は少女漫画にありがちな、大きな瞳をウルウルさせ、頬を染めて喜んでいた。

 私にはそのラストの意味がよくわからずに、読み終わって首をかしげた。

 主人公はどうしてこんなに喜んでいるんだろう。断るなら、『彼女がいるから』でいいんじゃない?

 腑に落ちないままふと周りを見ると、雑誌コーナーは制服姿の学生ばかりで、私は慌ててその雑誌を置いて、化粧の剥げかけた頬を赤らめながらコンビニを出た。


 その週の終わりに、免染の合間に谷ちゃんの仕事を手伝いながら、その漫画のことやこの前の浩太郎との電話の後に考えたことを話してみた。実験室は廊下の一番端にあり、今日は実験している先生もいないので、マスクをした2人は手を動かしながら気兼ねなく話す。

 浩太郎の「誰でもいい」発言のことを話すと、谷ちゃんはマイクロピペットを握りしめたままこう言った。

「まあ、『誰でもいい』っていうのはどうかと思うし、あんまりその相手には言わないと思うけど…そんなもんじゃないの?」

谷ちゃんの隣でビニールの手袋をして、マイクロピペットの先端に付ける使い捨てのチップをケースに詰めていた私は、一瞬手を止めた。マスクの中からの声が少し大きくなる。

「そんなもん?」

「だって考えてみたらさ、『この人が好きー!』ってお互い同時に思って付き合い出すなんて、めったにないだろうし。『誰でもいい』ってのは確かに言いすぎかもしれないけど、『嫌いじゃなかったら付き合う』って人もいるんじゃない?」

そこで言葉を切って、谷ちゃんはチューブ立てに立てているマイクロチューブに試薬を慎重に入れていった。

「まあ、そう言われたらそうだけどさ…」

同意を得られなかった私は少しがっかりした様子で、また手を動かし始める。遠心機がピピピと音を立てて止まり、谷ちゃんは空のチューブ立てを持って行ってフタを開けていた。

「でもその忍の元カレ、やっぱりちょっと無神経だよね」

私の様子に気がついたのか、谷ちゃんがフォローしてくれた。こういう気遣いができるところは、先生たちと似ている気がする。要するに、みんな根が優しいのだ。そういう人がお医者さんになっていたり、これから医学部を目指していたりすることが、なんとなく安心するし、嬉しくなる。

 1人の部屋で、私はつい考え過ぎてしまうらしい。こうして仕事に出てきて、谷ちゃんや亜矢や、他の人と話していると、自分の考えの狭さにいつも気付かされる。視界がパッと開けるような、そんな感覚になる。

 私が黙っていると、谷ちゃんがまた続けた。

「じゃあもしよ、もし忍が、『好き』ってほどじゃないけどちょっと気になってる人がいて、その人から『付き合ってください』って言われたら、忍どうする?」

頭に杉山先生の顔が浮かぶ。もしかして、谷ちゃんに気づかれてる?と遠心機のそばにいる谷ちゃんを横目で見ながら、具体的な人は浮かばない、といったフリをして

「うーん…付き合う、かも」

と答える。

「でしょー。だからそんなもんだって。で、うまくいけばそれでいいんだし、ダメな時はダメだし」

 遠心機の中から、白いもやもやしたものが中央に浮いているチューブを6本、チューブ立てにそうっと取り出して、また谷ちゃんは机についた。白いものを吸い取らないように、慎重にその上澄みをマイクロピペットで吸い取って、さっき試薬を入れたチューブに順番に入れていく。

 じゃあ、漫画の話はどうなのか。それも聞いてみる。

「だから、付き合っててもお互いが『好き』なのかどうかわかんないじゃない?もしかしたら『付き合ってる』ってだけで、彼女のことそれほど好きでもないかもしれないし。しかもそういうシャイな彼氏なら、ちゃんと言ってくれたことがなかったんじゃない?だから喜んだのよ、その主人公」

 パチンと先端のチップを捨て、新しいチップを付けながら、単純明快に谷ちゃんが解説してくれた。

「うーん、なるほどね。付き合ってても『好き』だとは限らない、か…。そんなもんなのかなあ」

「そうよ、とりあえず恋愛なんて、どっちかが言い出さなきゃいつまでたっても始まらないんだから。そう考えると石川さんとかさ、あの亜矢に対する涙ぐましい努力は感心するけど、なかなか詰めの一手が打てないって感じでしょ。だから始まらないのにねー」

「ああ、確かにねー」

と私は頷きながらも、最近の2人の様子を思い浮かべる。押川先生のことがあったせいか、最近は亜矢の態度も軟化してきていて、たまに石川さんと2人で帰っているところを見かけていた。

「ねぇ、石川さんてさ、俳優の大泉洋に似てない?」

ふと思いついて私が言うと、谷ちゃんが嬉しそうに笑った。

「あ、雰囲気っていうか、キャラでしょ。わかるかも。ちょっと騒がしいけど、誠実そうで、なんか憎めなくて。でも“いい人”って言われそう~」

そうそう、石川さんてわりと背も高くってかっこいい部類なのにね、と2人で盛り上がり、そこから話題はなぜか先生たちへの愚痴になった。

「大体さー、先生たちって基本“お坊ちゃま”な人が多いから、使った物片付けないよね。出したら出しっぱなしだし。試薬とか元の場所に戻さないし」

谷ちゃんの言葉に私も大きく頷く。ある時、冷蔵庫にしまうはずの過酸化水素水が、なぜかビーカーやメスシリンダーが置いてある流しの下から見つかって驚いたものだ。

「ひどい時には冷蔵庫のドア閉めない先生とかいて。『冷蔵庫は開けたら閉めましょうね~』とか、『使った物は元の場所に戻しましょうね~』とか、優しく言わないといけないんだから。まったく、『ここは幼稚園か!』って言いたくなるよね。ひろのさんじゃなくても、片方の眉吊り上げて怒りたくなるってもんじゃない?」

声色を使い分ける谷ちゃんと、ひろのさんの顔が想像できて笑ってしまう。確かにそういう人が多いような気がする。病院の外来診療の場では、仕事の準備や後片付けなどは全て看護師さんたちがさっさとやってくれるのかもしれないが、ここはあくまでも大学の医学部の研究室で、先生たちは一応“学生”という身分なので、みんな自分の実験の準備や後片付けなどは全て自分でやるようになっている。そうした二病理(ここ)での“ルール”がわかっていない先生(特に1年目の先生)は、病院の調子で仕事していると、私たちのような年下からあれこれ言われたり、ひろのさんが片方の眉を吊り上げるのを見て怖がったりすることになるのだ。

「その点、杉山先生はきちんとしてるのよねー。優しいし、よく気がつくし、ほんといい人だよね」

突然杉山先生の名前が出て、ドキッとした。その谷ちゃんの口調から、“いい人”という意味は、石川さんの場合とは違うのだということがわかる。私の中で、先生のポイントはますます上がり、谷ちゃんの「恋愛なんてどっちかが言い出さなきゃ始まらない」という言葉が啓示のように聞こえていた。


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