好きな人(前編)
月曜日の朝、いつものように臨床研究棟に入って、薄暗い廊下を作製室に向かって歩く。廊下の一番奥の“非常口”の緑の光を目指して歩いて来ると、作製室の扉の前に白衣の男女が2人立っているのが見えた。今週の医技短の実習生が早く来ているようだ。私の足音に気づいて女の子の方が振り向いた。
「あ、森川さん!」
名前を呼ばれて見ると、それは夏休みにアルバイトで来ていた大橋さんだった。あいかわらずほっそりとして背が高く、白衣の下からジーンズの長い脚がすらりと出ている。
「ああ、大橋さん!今週実習なの?」
「はい、またよろしくお願いします」
ほんの何ヶ月か前に会っていた彼女だったが、隣にいる男の子の方が幼く見えるせいか、少し大人っぽくなったような気がする。男の子の方も大橋さんと一緒に頭を下げた。
「早かったのね。今開けるね」
と言いながら私は作製室の鍵を開けた。
扉を開けると、土日の休みで閉め切っていた作製室は、鼻をつくキシレンの匂いになっている。私は白衣に着替える前に、急いで部屋中の窓を開ける。
「なんか、夏休みの時と変わったような…」
大橋さんがつぶやいた。
「ああそっか、あの時はまだヘモディを使ってたからね。あの後ヘマトキシリンが退色することがあってね、原因がヘモディかもしれないからって、代わりにキシレンを使うことになったのよ」
手短な私の説明に、2人ともよくわからない様子で「へぇ~」とうなずいている。後でもう少し詳しく説明しよう。免染の待ち時間にでも。
最近は免染を教えるのにも慣れてきたせいか、少し余裕が出て、学生さんたちにいろいろなことを話すようになった。谷ちゃんが、自分が辞めた後のことを考えてか私に教えてくれるので、免染の合間に谷ちゃんの実験の仕事を少し手伝ったりもしている。最初の頃の自分を思うと、大した進歩だ。
そんなことを考えていると、ひろのさん、安道さん、豊田さんが次々にやって来た。
「あら~大橋さん!」
みんな彼女を見つけて声を上げる。
「今週は教えることなくて、楽でいいわね」
とひろのさんが笑っている。「いえ、そんなことないです」と手を振る大橋さんを見ながら、夏休み、手際良く包埋や薄切をしていた彼女の姿を思い出す。一緒に来た実習生の太田くんというおとなしそうな男の子は、隣で「俺に教えてね」と彼女につぶやいていた。
その日の午後、ここ三城大学附属病院の検査部から作製室に、不思議なプレパラートが持ち込まれた。持って来たのは柴田先生だったが、病院で盲腸の手術をした患者さんの盲腸の中から小さな白い粒状のものが見つかり、それを病院の検査部で標本にしたものだった。
「もしかして寄生虫の卵とかだったらいけないってことでね」
と柴田先生が説明している。
そのプレパラートを顕微鏡に乗せ、みんなで覗く。スライドガラスの上には見事にスライスされた白い物体がポツンと乗っていて、絵文字の“汗”のような形をしていた。一番素人の私が見ても、明らかにヒトの細胞ではないようだとわかる。大橋さんと太田くんも興味深そうに覗いていた。
「何だろう?これ」
ひろのさんも首をひねる。柴田先生も、
「たぶん卵なんかじゃないとは思うんだけど、もしかしたらってことで見てくださいって来たんだよね。誰か何かわからないかなあ」
「これって…。なんか理科の教科書に載ってた、植物の種に似てない?」
と、谷ちゃんが言った。「そういえば…」とみんなもう一度顕微鏡を覗く。なるほど、そう思ってみると、植物の種を縦に切ったもののようにも見える。
「植物か…。誰か植物学に詳しい人いないかな?」
柴田先生がみんなの顔を見回した時、私は「あ」と思わずつぶやいていた。
「え、何?森川さん」
「あ、いえ、その…友達が理学部にいるので、植物学の研究室の人にツテがあるんじゃないかと思って…」
「友達」とは浩太郎のことだ。
「え、ほんと?じゃあ、その友達に連絡取れる?」
と柴田先生に嬉しそうな顔で言われ、「取れない」とは言えなかった。
「あ、えっと、じゃあ連絡してみます」
一応花束のお礼メールは来たんだし、出てくれるだろうと思いながら、「久しぶりなのでちょっと外でかけてきます」とよくわからない言い訳をして作製室を出て、研究棟の入口で電話をかけた。
「もしもし?」
と浩太郎が出てくれた。
「あ、浩太郎?森川ですけど。今大丈夫?」
彼がうなずくのを聞いて、私はいきなり用件に入った。
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「お願い?」
突然の言葉に、彼は驚いているようだ。
「うん、実はね…」
と私は事の次第を話し、植物学の研究室にツテがないか尋ねた。
「ああ、それなら、友達が1人いるけど」
意外なほどに彼は気持ちよく協力してくれた。友達に連絡してくれると言うのでいったん電話を切り、私が作製室に戻ってしばらくすると、浩太郎から折り返し電話がかかってきた。その友達に頼むと、その標本は植物生理学の教授に見てもらえることになった。
早速私と柴田先生とで、植物生理学の研究室にプレパラートを持って行った。そこには浩太郎と木下くんという友達が待っていて、私は本当に久しぶりに彼と対面した。
「忙しいのに、ごめんね」
柴田先生がいるので、なるべく自然に彼と話す。
「いや、いいよ」
彼の方も木下くんがいるので、何気ないふうだ。案内されて中に入り、教授に見てもらうと、意外な答えが返ってきた。
「ゴマ?」
作製室に戻り、柴田先生と私とでみんなに説明していた。植物生理学の教授によると、確かに何かの種のようだということで、盲腸なら、食べ物のゴマがあったとしてもおかしくないのではないか、ということになった。そこで柴田先生が病院の検査部に問い合わせ、その患者さんに聞いてもらったところ、盲腸になる前にゴマ煎餅を食べた、という返事が来た。
「なんか、冗談みたい。でも、ほんとなのよね」
とひろのさんも驚いていた。こうして不思議なプレパラートの謎は解け、大橋さんと太田くんもこの貴重な珍事件の現場に居合わせたことを喜んでいるようだった。
その夜、今日のお礼と事の顛末を報告するため、浩太郎に電話した。彼のメールのように、なるべく簡潔に、伝えることだけを伝えて切ろうと思っていた。
「へぇ~、ゴマ」
と彼も興味を持ったようで、おもしろそうに聞いてくれた。こちらが“恋愛”という感情を持たなければ、案外普通に話せるものなのかもしれない。
「まあ、なんていうか、森川もけっこうちゃんと仕事してるんだな」
大学時代に付き合っていた時から、彼は私のことを「お前」とか「森川」と呼んでいて、「忍」と下の名前で呼ばれたことはない。そんなことをふと思い出し、もしかすると彼は初めから、それほど私のことを好きではなかったのかもしれないという思いが心にわいた。
「ねえ、浩太郎ってさ、ひょっとして、私じゃなくても誰でもよかったんじゃない?」
と聞いてみた。「そんなことないよ」とか、「そんなんじゃ付き合ってないよ」とかいう答えを期待しながら。
「ああ、そうかも」
彼は迷いもなく、さらりとそう答えた。私は言葉に詰まった。何だろう?この奇妙な心のズレは。これは彼のいつもの照れ隠しで、こんなふうに答えているのか、それとも本心なのか、わからなかった。私たちは今まで、ただお互いにわかり合っているつもりだったのか。いや、もしかすると私だけが、わかっているような気になっていただけなのか。
そんなことが頭の中を巡り、黙っていると、その話題はもう終わったと思ったのか、彼が突然こんなことを話し出した。
「あ、そうそう、俺、論文書いたら、イギリス行くかも」
「え、イギリス?」
驚いて私が尋ねる。
「うん、博士号取れたら、来年の4月から。向こうの大学に留学するから3年は行ってると思う」
「そう」と気のない返事をする私に、「まあ、まだはっきり決まったわけじゃないけどね」と言葉とは反対に自信ありげに言う浩太郎の声が、なんだかもう遠い異国に行ってしまったかのように感じた。
電話を切った後、1人コタツの中で考える。「誰でもよかった」という言葉は、私が自分で言ったのにもかかわらず、私の中でいつの間にか浩太郎のセリフになって頭の中を回っていた。
誰でもよかった?そう?私は浩太郎がよかった。彼じゃないとダメだった。他の人ではダメだった。そう思っていたのに。“付き合って”はいたけれど、もしかしたらこの恋は、初めから私の片思いだったのか。
恋愛の根本は、“この人じゃないとダメだ”という思いだろうと思っている。“好きな人”というのは、その人にとって、代わりなんていない人のことだと思う。だからこそ大切で、“かけがえのない”という言葉が当てはまる。それを「誰でもいい」というのは、どういうことなんだろう。それならなぜ、浩太郎は私に「結婚しよう」と言ったんだろう。男性は、というより、一時期の亜矢のように女性でも、「結婚」という目標を立てて、その条件で探し、選んでいけば、それに当てはまる人が“好きな人”ということになるんだろうか?
もう大丈夫だ、と思って浩太郎に電話したのに、こんなふうに彼の言葉に衝撃を受けて、その言葉の意味をいちいち考えてしまう私は、やっぱりまだ彼のことが好きなのかもしれない。
その一方で私は今、杉山先生のことが気になっている。でも、“好き”というのとは、少し違うような気がする。そう思うのは、先生に彼女がいるかもしれない、うまくいかない恋でまた傷つきたくない、という自己防衛の気持ちからなのか、浩太郎を好きになった時のように、自然に好きになったわけではなくて、「今身近にいる中からどうしても選ぶなら」と自分が無理をして好きになろうとしている気がするからなのか、わからなかった。
今27歳の自分がこんなことを考えるのは、世間一般の27歳と比べるとどうなんだろう、とも思う。27といえば、同級生でももう結婚して子どもの1人や2人はいる、という子も多かった。そんな年齢になって、こんなことにこだわっている私は幼いんだろうか。
いつまでも「浩太郎がいい」と思っている自分が、おもちゃ屋さんの前で「あのおもちゃがいい」と駄々をこねている子どものように思えた。