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電話

 10月終わりの日曜日の朝、携帯が鳴った。私は起きたばかりで、目をこすりながら時計を見ると9時半だった。こんな時間に誰だろう?画面には知らない番号が通知されている。

「はい、もしもし」

とおそるおそる電話に出る。

「あ、森川さん?」

その声にどきりとして、いっぺんに目が覚めた。

「はい!」

「杉山ですけど。今大丈夫?ごめんね、休みの日に」

全然いいです、と心の中で思いながら「大丈夫です」と答える。

「いや、今作製室なんだけどさ。今日免染しようと思って来たら、メタノールがなくて。保管庫の鍵、どこだっけ?」

この前の毒物騒動で、もともと劇物指定であったメタノールも、鍵のついた保管庫に保管して管理することになっていた。

「あ、封入台(ふうにゅうだい)の引き出しの中です」

私が答えると、「ちょっと待ってね」と杉山先生は言いながらガサガサと探しているようだった。

「お、あったあった」

嬉しそうな先生の声が耳元で聞こえる。先生と電話で話すのは、これが初めてだ。

「ありがと、助かった。後さあ、シークエンスのラベリングキットの新しいやつ、どこにあるか知らない?」

「ああ、それなら、実験室の冷凍庫の一番下の引き出しに入ってたと思います」

この前谷ちゃんが亜矢の代わりに秘書室の電話番をしていた時に、水田化学の村川さんから納品されたものを私が受け取り、谷ちゃんに言われてそこにしまっておいたのだった。

「あ、ほんと?ちょっと待ってね、探してみる」

と、ドアを開ける音がする。先生は作製室を出て、廊下を歩いて実験室に向かっているらしい。

「いや、よかった~、森ちゃんが電話出てくれて。谷ちゃんにかけたら電源切ってあってさ」

と先生は話しながら、実験室のドアを開けていた。谷ちゃんは確か今日は大学受験の模試のはずだった。試験はもう始まっている時間だ。それで電源が切ってあるのだろう。

「えーと、一番下、と。よいしょ」

小声でつぶやく先生の声が聞こえる。その表情まで見えるようだ。

「あったあった。いやあ、ほんとありがと。俺休みなのに今日気合い入れて出て来てさ、なのに免染も実験もできないかと思って焦ったから」

助かった、と先生は繰り返す。それにしても私の携帯の番号をどうして知ったのだろう。そう思い、尋ねると、

「ああ、まず谷ちゃんに電話してつながらなくて。で、亜矢ちゃんに電話して、森ちゃんの番号教えてもらったんだ。これからちゃんと登録しとくから」

先生はそう説明してくれた。

「今日は、他には誰か来られてるんですか?」

もっと話していたい私はいろいろ質問してみる。

「ああ、内藤くんが来てたよ。さっき会った。片桐先生も車が止まってたからいるんじゃないかな。実験室には俺一人だけど」

“内藤くん”とは准教授の柴田先生のことだ。いつもと違って静かな実験室に、杉山先生の声が響いている。

「日曜日もなんて、忙しいんですね」

「まあ、内藤くんは仕事の鬼だから。ほとんど来てるみたいよ。あ、俺は今日は気が向いたからなんだけど。それにしても谷ちゃん電源切ってるなんて、映画でも見てんのかなあ」

先生もメタノールと実験の試薬が見つかって余裕ができたのか、よく話してくれた。谷ちゃんの映画のくだりにはあいまいに答えながら、私はずっと不思議に思っていたことを、思い切って聞いてみた。

「そういえば、先生、いつかカラオケに行った時に『神様の宝石でできた島』って、歌ってくれたでしょ?」

「え、いつ?」

先生にそう言われ、少しがっかりしたが、

「えーと、9月の初めくらい。カラオケ部で行った時です」

とめげずに答えた。

「えーと…歌ったっけ?」

先生は本当に覚えていないようだった。私だけが覚えていたことを残念に思いながら、それでも私は続けた。

「いや、『森ちゃんに歌います』って言って歌ってたから。なんか、なんでかなあと思って」

「あ俺、そんなこと言った?…ごめん、覚えてないわ」

いやー、酔うといろんなこと言うからね、と明るく言う先生の声が少し遠く聞こえる。

 「なーんだ、いえ、いいです」と私も明るく答え、「じゃあ、ほんとありがと」ともう一度先生にお礼を言われ、電話は切れた。通話時間を見ると、5分20秒。それでも嬉しかった。5分も先生と電話で話していた。初めての電話。この前の毒物騒動にも、電源を切っていた谷ちゃんにも、私の番号を先生に教えてくれた亜矢にも、お礼を言いたい気分だった。


 翌日の月曜日、早速杉山先生から電話がかかってきたことを谷ちゃんと亜矢に話した。カラオケの話は、なかったことにして。

「ありがとー、模試だったから電源切ってた」

と言う谷ちゃんに「やっぱり」と言いながら「ラベリングキットの場所、わかっててよかった」と私が答えると、亜矢がふふと笑った。

「え?何?」

私が聞くと、

「いえ、『ラベリングキット』なんて言葉がさらっと出て来るんだもん。忍さんもなんか理系の人っぽくなったなあと思って」

と亜矢がまたふふふと笑う。明日からもう11月。私がニ病理に来て5カ月が経つ。

「そりゃ、毎日やってるんだもん」

と亜矢に答えながらも、自分でも最初の頃と比べて、いろんなことがずいぶんわかるようになったなあ、と思った。

「模試はどうだったの?」

と谷ちゃんに聞く。

「うーん、ボーダーギリギリかな。なかなか厳しいねー。もうちょっとがんばらないと」 

と谷ちゃんは自分に言い聞かせるように言った。

「ニ病理を辞めるのは教授にはいつ言うんですか?」

今度は亜矢が尋ねる。谷ちゃんは分子生物実験の助手なので、その後任を探すのにまた募集をかけなければならない。亜矢は早くもその心配をしているようだった。

「そうね、年明けには言おうと思ってるんだけど。遅いかな?」

谷ちゃんも考えているようだった。


 次の日の午後、柴田先生が私の所にやって来た。

「森川さん、ちょっとお願いがあるんだけど」

今度の論文に、先生に頼まれて以前私が染色した免疫染色の写真を載せるそうで、その時に染めた一次抗体の染色条件を表にまとめてほしい、という依頼だった。

「抗体の種類はこの11種類。で、これの酵素処理とか賦活化(ふかつか)の条件と、あと一次抗体の希釈倍率とDABの発色時間をまとめてもらえないかな」

先生はそう言いながら、11種類の抗体の名前と、必要な条件が書かれたメモを私に渡した。

「来週末くらいまでにお願いできるかな?この論文のオーサーで森川さんの名前も載せるから」

 オーサーとは、その論文の研究に貢献した人のことなのだが、その研究に一番貢献した人から順に論文に名前を連ね、一番最後にその研究室の教授の名前が載ることになっていた。そこに私も載ることになるのだ。柴田先生に頼まれた染色条件は、いつも染めている条件をそのままエクセルの表にまとめればいいだけなので、「大丈夫です」と私は答えた。そんなふうに自信を持って答えている自分が、亜矢の言ったように「理系の人っぽくて」自分でも不思議だった。 

 そういえばこの前は片桐先生が、免染のことで私のところに質問に来た。

「この抗体で染色する場合、どういう条件がいいと思います?」

そう聞かれても、抗体の説明書を見ながら私はしどろもどろになっていた。

「えーと…、ここにはオートクレーブ10分て書いてありますけど…。でもオートクレーブだと組織が剥がれやすいんですよね…」

隣で先生もうーん、と考えている。

 しばらくして、「あ、そうか、この組織だとこういう条件になるのか」と、先生は何かひらめいたようで、

「いや、わかったわかった。森ちゃんありがとう!」

と一人で納得して作製室を出て行った。狐につままれたような、というのはまさにこういう感じなのかもしれない。私は先生の後ろ姿に「はあ」と一人うなずいていた。


「って感じで、とにかく周りの人が頭がいいから、私が考えなくても自分で考えて納得して答え出して、お礼言われるって感じなのよね」

と、私はひとみに話していた。今日はひとみの先輩(と浩太郎)が出るというオーケストラのコンサートを聴きに来ていた。

「へぇ~。でもなんか、忍も理系の人って感じになったよね」

とひとみにも言われた。「楽しそうな、いい職場でよかったね」とも。

 ひとみに会ってから私はニ病理のことばかり話していた。大学受験の勉強をしている谷ちゃんのこと。押川先生に振られた亜矢と、その後の教授の話。俳優の内藤剛志に似ている柴田先生のこと、マラソン大会のことや豊田さんのことやひろのさんのこと、今度結婚する安道さんのこと。そして、医技短の実習生に染色を教えている自分のこと。演奏会後にご飯を食べながら、私の周りのいろんな出来事を、ひとみは笑顔で聞いてくれた。

 私はひとみに話しながら、こんな話を浩太郎に聞いてもらいたい、と思った。こんな私に起こる毎日の何気ない出来事を、ただ相槌を打って彼に聞いてもらいたい。文学部だった私が今こんなふうに仕事をしているのを聞いたら、彼はどんな顔をするだろう。その表情を見てみたかった。

 舞台の上の浩太郎は、真剣な表情でバイオリンを弾いていた。相変わらずバイオリンが本当に好きなんだな、と思った。どんなに実験が忙しくても、オケの練習だけは欠かさず行っていた彼を思い出した。そして、彼のそういうところが好きだった自分も。

 杉山先生のことは不思議とひとみには話せなかった。あの歌を歌ってくれたことを私だけが覚えていたことを。代わりに、舞台の浩太郎を見て、まだ彼のことを好きかもしれないとひとみにはそう言った。自分でも、よくわからなかった。

「まあ、花束も受け付けであげてきたし、広瀬くんからなんか連絡あるんじゃない?」

とひとみは明るく言ってくれた。

 演奏会が終わっても、浩太郎とは直接は会えなかった。今日は最近買ったアーガイルのニットと、久しぶりにはいたフレアスカートで来ていたのに。仕事の時はほとんどジーンズなので、ストッキングを履くのも久しぶりだった。窮屈なつま先を、ブーツの中で動かしながら演奏を聴いた。

 浩太郎からメールが来たのは、その翌日の夜だった。

「お久しぶりです。花束ありがとう。僕はあいかわらず研究で忙しい毎日です。仕事がんばって。それでは」

たったそれだけの、短いメールだった。昔から余計なことは言わない彼らしい。それでも私はメールが来たそのことだけで、嬉しかった。杉山先生からの電話とはまた違った感覚で、心の底から嬉しかった。浩太郎からの、久しぶりのメール。短いその文章を私は何度も繰り返し読んだ。

 その一方で、私と彼との気持ちの温度差はとても大きいことにも気がついていた。私と彼との距離は、きっと客席と舞台の上くらいに隔たっていて、それはもう縮められないような気がしていた。

 ただそれでも私は、彼と話がしたかった。恋人同士には戻れなくても、ただ昔のように笑い合って、何気なく話がしたいだけなのだ。それができないのが辛いだけなのだ。

 恋愛の終わりは、誰でもこんなふうなんだろうか。一度は結婚を考えた相手と、何事もなかったようにまた笑顔で話したいと思うのは、無理なことなんだろうか。

 私の心がいつまでもすっきりと晴れないのは、今まで一番身近にいた人と笑顔で話せなくなってしまったからだ。私にとって浩太郎は、今までの私の人生の中で一番近い存在だったし、そして今一番遠い存在になっている。そんな経験は今までなかった。お互いの番号を知っているからといって、お互いが連絡を取ろうとしなければ、携帯電話なんて意味がないのだ。

 ひんやりと冷えてきた狭い自分の部屋で、この休みにコタツを出そう、と関係のないことをふと思いながら、そんなことを考えている私がいた。


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