返事
翌日の木曜日、久しぶりに亜矢がやって来た。
いつもはさらりと仕事をこなし、5時過ぎには優雅に帰って行く亜矢だったが、月曜からの仕事がたまっていたのだろう、さすがに今日は昼休みもろくに休めないほど忙しそうだった。けれど忙しく動いている亜矢は、それほど落ち込んでいるようには見えなくて、私と谷ちゃんは少し安心した。
亜矢の仕事が終わるのを待って、大学を出たのはもう7時近くだった。
すっかり暗くなり街灯の点いた大学構内を門に向かって歩いていると、どこからかキンモクセイの甘い香りが漂ってくる。「いい匂い」と亜矢が鼻を澄ます。ツンと尖った鼻は、まるで「もう大丈夫だ」と告げているようだ。「何食べる?」と私たちは核心に触れないまま歩く。
店に入ってビールと料理を何品か注文し、とりあえず乾杯した。空の胃袋にビールがしみわたる。「ふうっ」と息をついて亜矢は、月曜からの3日間秘書室の仕事を代わってくれていた谷ちゃんに丁寧に謝り、お礼を言った。
「もういいって。それより押川先生のこと、どうなったの?」
谷ちゃんがビールを飲みながら聞く。
「どうなったっていうか…まあ、結局振られたんですよね」
亜矢はうつむいた。でも、なんだかすがすがしい表情だ。
「亜矢はそれでいいの?」
と、私が亜矢の顔を覗き込む。
「いいも何も。もう他の人と結婚するって言うし。それに先生、来年の4月からアメリカに行くんだそうです」
「アメリカ?!」
私と谷ちゃんが同時に驚いた。
「そう、留学するんだって。だからその前に、英語ができる人と結婚して一緒に行くんだって」
珍しく亜矢がビールをぐっと飲み干して「すみません、おかわり」とグラスを上げて店員さんに注文した。
「私、英語できないし。私が先生でもたぶんそうするかなあ、なんて」
亜矢はもううっすら赤くなった頬で、にっこり笑う。
「まあ、亜矢がそう言うんならいいけど…でもひどくない?」
と谷ちゃんが不満そうに私を見る。そこへ頼んだ料理が次々に来た。会話が一時中断されて、私もどう言っていいのかわからずにまた亜矢を見た。すると亜矢が唐突にこんなことをしゃべり出した。
「今日、教授に『これ出しといてください』って渡されたハガキがあったんです」
「ハガキ?」
何の話だろう、と私も谷ちゃんも首をかしげた。
「そう、押川先生宛ての、結婚式の招待状の返事」
えっ?と私たちはまた驚いた。押川先生の結婚の話はもうそんなところまで進んでいたのか。先生は本当にギリギリまで亜矢には何も言っていなかったのだ。
「あちゃー、教授も空気読めって感じよね」
と亜矢の気持ちを気遣った谷ちゃんがおどける。
「違うんです、それが」
と、まるで教授をかばうように亜矢が言った。
「違うって?」
「私、思わずその場で裏を見ちゃったんです。そしたら“欠席”の方に丸がしてあって」
亜矢が見ると、そこには『所用により欠席します』と書いてあったらしい。
「私驚いて。だって教授そういうの、必ず出席する人だから」
そうだ、乾教授は自分が参加していないマラソン大会の打ち上げにだって来る人だ。それが一昨年まで自分の講座にいた人物の結婚式なら、出席してなおさら当たり前な気がする。それに押川先生は今は産婦人科に所属しているけれど、ニ病理で論文を書いて医学博士号を取ったのだ。披露宴の主賓の挨拶はおそらく産婦人科の教授がすることになるだろう。が、乾教授はその次くらいの招待客になるはずだ。乾杯の時の挨拶などを頼まれていてもおかしくないくらいだ。
「そうなんです。それに、そういう招待状とかって先生が直接持って来られて、教授もその場で出席の意思を示してるはずなんです。それなのに“欠席”なんて。だから私、つい言っちゃったんです」
結婚式は来年の1月14日、土曜日だった。来年の予定で特に大きな学会や出張はまだ入っていないはずだと一瞬頭を巡らせて、亜矢はこう言ったのだそうだ。先生、この日は学会や出張の予定は今のところ入っていませんが。すると教授はこう答えた。
「『ああ、その日は毎年風邪をひきますから』って」
そう言って教授は亜矢をじっと見た。ばれていた。そう思った亜矢は思わず謝った。3日間もご迷惑をおかけしてすみませんでした、と。
「そしたら、『もう大丈夫ですか?今後、気をつけてくださいね』って。教授、全部わかってるみたいでした」
「ほんとに?」と谷ちゃんが目を丸くする。私も信じられない気がした。あんなひょうひょうとした人が、そんなに何もかもお見通しなのだろうか?
「待って、じゃあ何?『祝ってあげないよーだ』って感じ?だから“欠席”ってこと?」
と谷ちゃんが笑う。そんな、子どもじゃないんだからさあ。私もおかしくなって、笑ってしまった。
「亜矢に代わって、ちょっとした“復讐”をしてくれたってこと?」
亜矢も笑っている。
「ほんとにそうかわからないんですけど、なんか私、それですっきりしちゃって。もういいかなって」
ふふふと笑いながら、亜矢がサラダに箸をのばす。
「押川先生、困るだろうね」
谷ちゃんも焼き鳥を食べながら、ふと心配そうな顔をした。
「まあ、体裁とかすごく気にする人ですからね」
そっけなく言う亜矢に、谷ちゃんが顔を寄せる。
「亜矢が何かしたとかって思わないかな?」
「まさか。たかが秘書が、教授の予定をなんとかできるなんて思わないですよ」
私は押川先生のことを思い出し、確かに「たかが秘書」と思いそうな人だ、と思った。
「それもそうか。でもじゃあ、先生慌てるだろうねー」
と谷ちゃんが言うのを聞いて、あのどことなく芝居がかった先生が慌てている様子が思い浮かんで、私たちはまた一緒に笑ってしまった。
ひとしきり笑った後、亜矢が真面目な顔で話し出した。
「私、4人の彼とももう別れようと思います」
仕事を休んでいる間に考えたのだそうだ。確かに押川先生のことは好きだった。でも先生と別れること以上にショックだったのは、“自分が選ばれなかった”ということだった。
「そしたら気がついたんです。私も押川先生と同じように1人を選んだら、後の4人は今の私と同じことになるんだって」
自分が選ばれなかったことで、そのことに初めて気がついた。
「私って、現実的な女だと今まで自分で思ってました。なのに、自分がされるまで、そんなこともわからなかったなんて。おかしいですよね」
それに、結婚することばかりにこだわって、本当に自分が好きな人がわからなくなったのだと亜矢は言った。
「なんか、安道さんとか加藤先生とか見てたら、自分のやってることが違うような気がしてきて。谷ちゃんの大学受験を『現実的じゃない』なんて言ったけど、私の方がよっぽど非現実的だったのかな、なんて思ったりして」
それを聞いて谷ちゃんが言う。
「まあ、恋愛とか結婚って、人が相手だからね。難しくて当たり前でしょ。受験なんか、公式覚えて英単語覚えて、マークシート書けばいいんだもん。よっぽど簡単じゃない?」
おお、大きく出たねーと言う私たちに、
「いや、やっぱそんなに簡単じゃないわ」
と谷ちゃんが撤回する。3人でまた笑う。ビールも料理も、いつもよりも数倍おいしく感じた夜だった。
帰り道、亜矢がふと言った。
「うーん、どっかにいい人いないかなあ」
いい人はいっぱいいるでしょ、杉山先生とか、と谷ちゃんが言う。石川さんとか。
「でも、杉山先生は彼女一筋みたいですもんねー」
石川さんの名前は聞こえなかったように、亜矢がつぶやく。やっぱいい人はもうみんな彼女いるんですよねー。そのつぶやきを聞きながら、私はさっきまで楽しく笑っていた自分の気持ちが沈むのを感じていた。
「ニュース見ました?」
「見た見た。またあったねぇ」
最近の作製室の昼休みの話題の中心は、10月半ばに起こった事件のことだった。最初はある会社で、そしてその後大学や研究所の研究室で、療養所で、というふうにたて続けに“アジ化ナトリウム”という試薬がポットのお湯の中に混入されていたという事件だった。
アジ化ナトリウムは、一次抗体を希釈する溶液を作る時に防腐剤として使っていたので、私も名前は知っていた。そのアジ化ナトリウムが、この事件が起こったために毎日のようにニュースでその名前が流れ、にわかに注目されていた。そして、今まで毒物という指定ではなかったのが、この事件以降毒物に指定されることになったのだ。
「大体さあ、薬品なんて、飲めば何でも“毒物”じゃん」
と、谷ちゃんが不満そうに言う。
作製室の試薬の管理はひろのさん、実験室は谷ちゃんが受け持っていた。実験や研究に使っている試薬の中で、毒物劇物取締法という法律で指定されている試薬があり、その試薬類の今までの管理体制もこの事件を機に見直されることになったのだ。その法律で“毒物”や“劇物”と指定されている試薬は全て鍵のかかる保管庫に保管し、使った時はその使用量を必ず記録するように、という通知が来ていた。そのためには、まず今ある試薬の量を全て調べて報告しなければならなくて、ひろのさんも谷ちゃんも、そして私もその作業にここ何日か追われていた。
「ほんと、そうよねぇ。普通の家庭でだって、洗剤とか飲んだりしたら大変だもんね」
谷ちゃんの愚痴に、豊田さんが相槌を打つ。
「そうですよねー、要するに、毒物とか劇物が悪いんじゃなくて、それを使う“人”が悪いって話なんですよね」
と、谷ちゃんが力説する。横でひろのさんもうんうん、とうなずきながら、
「まったく、ほんと余計な仕事増やしてくれて」
と賛同している。と、ひろのさんの携帯が鳴った。
「あ、また、もう」
と言いながらひろのさんは休憩室を出て行った。
「なんか、最近多くない?ひろのさんの電話」
ひろのさんが出て行ったドアを見つめて、谷ちゃんが休憩室に残った私たちに不思議そうに言う。そういえばここのところ、ひろのさんの携帯は頻繁に鳴っていた。
「うーん、なんか、航希くんのことで大変みたいよ」
と豊田さんが答える。ひろのさんの息子の小学3年生の航希くんは、この前の夏休みが終わった頃から学校に行きたがらなくなったそうなのだ。
「ほら、9月は台風あったり連休あったりして、休みが多かったでしょ?それにこの前も運動会でお母さんと一緒にいられたじゃない?だから『学校行きたくない』って言ってるんだって」
あらら、と、私と安道さんが豊田さんに相槌を打つ。ひろのさんも大変よねーと豊田さんがため息をついていた。
その夜、大学時代の文学部の友人、坂野ひとみから電話があった。夏休みのあの同窓会以来、メールはたまにしていたが、電話で話すのは久しぶりだ。
「元気?」
ひとみは変わらず元気そうだった。私が今職場で話題の毒物のことを話すと、事件のことをニュースで知っていたひとみは、「忍の職場にもそんな影響があったのね」と驚いていた。
「ところでさ」
と、しばらく話した後で、ひとみが切り出した。11月の3日に、ひとみの大学時代の先輩が入っているオーケストラのコンサートがあるので、一緒に行かないかという誘いだった。
「11月3日?ああ、文化の日だから休みなのね」
と私が答えると、ひとみはその次の日の4日に有給休暇を取って、4連休になるので帰って来るのだと言う。コンサートは午後からで、その後ご飯を食べに行こうとも言われた。
「そのオーケストラにさ、広瀬くんも入ってて、今度彼も出るらしいよ」
何気なく言うひとみの言葉にどきりとした。久しぶりに浩太郎の顔が思い浮かんだ。
「広瀬くんとは、その後どうなったの?」
と聞かれ、どうって、何もないよ、と私は答える。
「そんなことだろうと思ったのよね。忍のことだから、まだいろいろ考えてるんじゃないかなあと思って」
余計なおせっかいだったらごめんね、とひとみは付け加えた。
私はまだ彼が好きなんだろうか?最近少し忘れかけてきたけれど、やっぱり心の中にはまだずっと浩太郎がいるような気がする。こうしてまた彼を思い出させるような出来事にぶつかるのはどういうことなんだろう。やっぱり縁がある、ということなんだろうか。
同時に「杉山先生は彼女一筋」という亜矢の言葉を思い出した。それを聞いて、望みのない人を追いかけるよりも、浩太郎と元に戻れば一番いいのに、と思っている自分もいる。
電話の間にそんなことをめまぐるしく考えながら、ひとみからのコンサートの誘いに「行く」と返事をしていた。自分の気持ちを確かめるためにも、もう一度彼に会ってみよう。そう思った。