最有力候補
秋分の日の朝は、ひんやりとした風が心地よい晴天だった。空は高く青く、運動会の朝を思い出す。私は母に手伝ってもらい、お弁当を作った。母も唐揚げを揚げながら、「なんだか運動会みたいね」と笑っていた。
加藤先生に家の近くで車で拾ってもらい、会場の海浜公園まで乗せてもらうことになっていた。先生の車を見つけ、
「おはようございます」
と後部座席のドアを開けると、助手席の女性が振り返った。
「おはようございます。いつもお世話になってます」
茶色いショートカットの小柄な人が、にっこりほほ笑んでいる。この人が、と思うのと同時に運転席の加藤先生が
「あ、彼女、岸岡直美さん、です」
と紹介してくれた。どうやらこの人が、亜矢が話していた加藤先生の彼女らしい。私は「森川です。よろしく」と言って乗り込んだ。
「森川さんは、今日は何キロ走るの?」
と岸岡さんに聞かれた。
「えっと、2キロです」
「あ、いいなー。私、4キロ。ねぇ、私も2キロでよくない?」
と岸岡さんが運転している加藤先生を見ている。
「だめー。先輩は元陸上部でしょ。俺なんかより走れるでしょ」
と、先生が前を見たまま答えると、
「あ、また先輩って言ったー」
と岸岡さんがふくれる。その様子がとてもかわいい。
「あの、先輩って?」
と私が聞くと、先生が楽しそうに言った。
「あ、この人俺より1コ年上だから」
「もー。そんなこと言わなくていいでしょ」と、岸岡さんが先生の足をたたいている。
「じゃあ、先生も陸上部だったんですか?」
「いや、俺は野球部」
「そうなんですよー。別に学生時代一緒だったわけじゃないのに、何かっていうと私のこと『先輩』って言うの」
と、岸岡さんが私の方を振り返って不満そうな顔で訴える。でも、その顔も私には幸せそうに見えた。バックミラーに映っている先生の表情を後ろから見ながら、普段はクールな先生も彼女の前ではこんな優しい顔になるんだな、と思う。
会場に着くと、すでにみんな集まっていた。片桐先生と柴田先生は家族連れで、奥さんと子どもさんが一緒に来ていた。谷ちゃんは片桐先生の車に乗せて来てもらったらしい。まだ3歳くらいの片桐先生の女の子と、もう仲良くなって遊んでいた。石川さんは杉山先生の車で来たそうだ。
と、そこへ、亜矢が赤い派手なTシャツの男性と一緒にやって来た。
「あ、押川先生」
と谷ちゃんが声をかける。
「おう、谷ちゃん久しぶり~。元気?」
と、その人は気取って(私にはそう見えた)手を上げた。次に
「ご無沙汰してます」
と、片桐先生と柴田先生に頭を下げる。この人が、亜矢の「最有力候補」か。ハンサム、といえばハンサムだが、なんだか物腰が派手な、芝居がかった人に見えた。亜矢は隣でニコニコしている。
「先生、お久しぶりです!」
と、加藤先生も杉山先生も石川さんまでもが、その先生の周りに集まった。
「おう、久しぶり。みんな変わんないね~」
と押川先生はご機嫌だ。しばらくみんなが近況を報告し合っていた。今年6月にニ病理に入った私は、柴田先生から押川先生に紹介された。
「へぇ~、文学部の子が免染やってんの。大丈夫?」
と、押川先生は遠慮のない目で私を見た。ニ病理では今までに会ったことのないタイプの先生だ。病院に行くとたまにいるような、どことなく人を見下ろしている感じのお医者さんに見えた。私が戸惑った顔をしていると、
「いやあ、ひろのさんに指導してもらってね。がんばってくれてるよ」
と柴田先生がフォローしてくれた。
「そっか、ひろのさんにね。厳しいでしょ?彼女」
と押川先生が私に笑う。本人に悪気はないようだ。
その後、加藤先生が改まった様子で「あの~、大会始まる前に、ちょっといいですか?」と切り出した。みんなが今度は加藤先生を見る。
「えーと、この度結婚することになりまして…こちら、岸岡直美さんです」
先生が紹介すると、隣で岸岡さんが「よろしくお願いします」と、ペコリと頭を下げた。
「おー、おめでとう!」
とみんなが拍手する。「先生照れてる~」と谷ちゃんが野次を飛ばす。
こうして、日焼けしそうなくらい強くなった日差しの中、マラソン大会が始まった。走る距離は、杉山先生、加藤先生、石川さんの3人が6キロ、柴田先生、押川先生、谷ちゃん、それに岸岡さんが4キロ、私と亜矢が2キロずつで、片桐先生がラストの4.195キロを走ることになっていた。順序はラスト以外は自由で、一人ずつタスキを回しながらリレーのように走る。チーム名は“走るヤブ医者の会”。参加チームは全部で81チームで、個性的なおもしろい名前がついていたり、中には本気で上位を狙っているような“○○大学陸上部”というところもあったりで、様々だった。
一周2キロのコースを最初に谷ちゃんが2周走り、「暑い~。もうだめ~」と言いながらしばらく芝生に倒れていた。岸岡さんは元陸上部なだけあって、余裕があったようだ。杉山先生、続いて加藤先生と走ったが、さすがに6キロはきついらしく、2人とも次の人にタスキを渡すと同時に倒れ込んでいた。
「森ちゃん、水頼む~」
杉山先生に言われて、
「はいっ」
とペットボトルを差し出す。「サンキュ」と受け取って水を飲む先生をタオルであおぎながら眺めていた。日差しの下では暑いほどだが、木陰に入ると涼しく、時々気持ちのいい風が吹いてくる。その間、ずっと頭の隅にあった浩太郎のことを一瞬忘れていた。こんなふうに先生と2人でいられたらなあ、そう思った。
しばらく運動らしい運動をしていなかった私もなんとか2キロを完走し、最後の片桐先生がゴールするところでは近くに走っている人もいなかったので、みんなで横一列に手をつないで一緒にゴールした。私は杉山先生と谷ちゃんに挟まれた。先生の左手はひんやりとしていた。結果は81チーム中43位だった。
車で来ているので打ち上げは後日ということになり、会場で解散して、私はまた加藤先生の車で送ってもらった。「明日は筋肉痛だな」と言う先生に、私も岸岡さんもうなずいていた。
帰りの車で岸岡さんから、
「またご案内をしますけど、結婚式の二次会にみなさんでぜひ来てくださいね」
と言われた。式は11月12日の土曜日らしい。
「そのうち作製室に案内状持ってくから」
と、先生も嬉しそうに付け加えた。
打ち上げはその次の週の金曜日だった。今日で9月も終わる。いろんなことがあったせいか、なんだかあっという間だった。私が実習生に免染を指導するのは、今日で2回目だった。あの台風の後、16日に初めて教えた時は少し緊張したが、今日は染色するスライドガラスが15枚と少なかったので余裕を持って教えられた。最後に顕微鏡を覗く時はひろのさんに代わってもらって、私も一緒に説明を聞いた。
「お疲れ様でした」
と実習生たちが帰って行く。
「お疲れ様」
と、ひろのさんが私に笑ってくれた。「森川さんももう免染、だいぶ慣れたでしょ」と、流しで手を洗いながらそう言われた。
「そうですね、なんとか」
と答えながら、私も手を洗う。
「それで、来週は月曜日に免染やってもらえないかな。私、月曜日お休みだから」
そうだった。今度の日曜日が航希くんの小学校の運動会で、月曜が代休になるため、ひろのさんも休むと言っていたのだ。
「最後に顕微鏡見てもらうのは、柴田先生でも片桐先生でも誰でもいいから見てもらって」
「わかりました」
と答えると、「よろしくお願いします」とひろのさんは安心したようだった。
そこへ谷ちゃんと亜矢がやって来た。
「忍、終わった?打ち上げ6時半からだって」
毎週金曜日のリサカンが終わったらしく、廊下には先生たちの足音が響いている。
「あ、この前のマラソン大会の打ち上げ?」
とひろのさんに聞かれた。
「そうです。でも、マラソンに参加してない先生も来るみたいなんで、ひろのさんもどうですか?」
と谷ちゃんが誘ったが、
「うーん、行きたいけど、航希が待ってるから」
と、ひろのさんは帰って行った。その後、安道さんと豊田さんにも声をかけてみると、安道さんが来ることになった。
打ち上げには乾教授もやって来た。教授は普段は物静かな人なのだが、こういう陽気な場が好きなようで、ニコニコと嬉しそうに周りを見ながら飲んでいる。その周りではいつものように杉山先生や加藤先生、石川さんが騒いでいて、その光景を教授が温かく見守っている、という感じだ。そういう存在がいるから、みんな安心してはしゃいでいるような気がした。
一次会の途中で押川先生が登場すると、場は一段とにぎやかになった。亜矢は早速押川先生の隣に座っていた。
私は安道さんの隣に座り、彼女が結婚式の準備のことを嬉しそうに話すのを聞いていた。その時、ふと思ったので聞いてみた。
「安道さんは、どうして彼氏さんと結婚しようと思ったんですか?」
「えっ、どうしてって?」
「えっと、何が決め手だったのかなあと思って。『この人にしよう』って」
「うーん」と安道さんは少し考えていた。
「そうねぇ、やっぱり、彼といると、自分が落ち着いていられるからかなあ」
「『落ち着いて?』好きな人といると、ドキドキしません?」
私が不思議そうに聞くと、また安道さんは少し考えて言った。
「そうね、ドキドキもするんだけど、なんか、安心して自分でいられるっていうか。彼に会うと、自分の心にある“時計の針”みたいなのを元に戻してくれるっていうか」
と、安道さんは笑いながら、「うーん、違うか、“時計の針”じゃなくて“方位磁石の針”かな?なんかこう、心の向きを正してくれるような。そんな感じ。ごめんね、うまく説明できなくて」と付け加えた。
安心して自分でいられる?心の向きを正してくれる?
みんながみんな、結婚相手にそんなふうに感じるとは限らない。それはあくまでも安道さんの意見だ。でもそう考えてみると、残念ながら私にはまだそんな感覚になった人はいないな、と思った。浩太郎を当てはめてみても、違うような気がした。
亜矢はどうなんだろう。私は梅酒のグラスを持って、少し離れたテーブルの押川先生の隣で笑っている亜矢を見た。彼女は押川先生が「最有力候補」と言っていた。でも、ここから私が見ている亜矢は、普段の亜矢とは全く違っているように見えた。どこが、と言われてもはっきりとは言えないが、なんとなく「浮き上がっているような」感じに見えて、安道さんの言う「落ち着いて」という言葉とはまるで反対のような気がした。それとも、今押川先生の隣にいる亜矢が、本当の亜矢なのだろうか。
同時に、マラソン大会の時に見た加藤先生の表情を思い出した。岸岡さんといる時の先生は、とても優しい、「落ち着いた」顔をしていた。あの2人の雰囲気と比べても、やっぱり亜矢と押川先生は、どこか腑に落ちない、違和感を感じるのだった。
「そういえば、この前豊田さんが言ってたんだけど」
と安道さんが話題を変えた。はっとして視線を亜矢から隣の安道さんに戻す。
「なんか、豊田さん、息子さんから一緒に住もうって言われてるらしいの」
台風の時、豊田さんに車で送ってもらった時に息子さんの話は聞いていた。確か、結婚して少し離れた市で暮らしている30歳の息子さんがいると言っていた。
「ほら、豊田さんは今旦那さんのお母さんと2人暮らしでしょ。で、いつまでも女2人じゃ、何かと不便だろうしって。でも一緒に住むとなると大学まで通勤するには遠いから、どうしようかなって豊田さん言ってたのよね」
「そっか、もし一緒に住むことになったら、ニ病理を辞めないといけないってことですか?」
「そうなのよねー。『私も安道ちゃんと一緒に辞めようかな』なんて、冗談みたいに言ってたけど」
来年の3月に結婚式が決まった安道さんは、来年1月いっぱいで辞めることになっていた。まだ亜矢と私しか知らないが、谷ちゃんも来年3月いっぱいで辞めるのだ。それに豊田さんも辞めることになったら…亜矢がいつか言っていたように、ほんとに寂しくなるなあと思った。
週が明けて月曜から3日間、珍しく亜矢が仕事を休んだ。金曜日の打ち上げの時はとても元気そうで、押川先生の隣でいつもよりはしゃいでいたのに。理由は風邪だということだった。最近は朝晩と日中の気温差が激しいのでそのせいかな、と私は勝手に思っていた。
「えっ?!振られた?」
水曜日、谷ちゃんと2人でお昼を学食に食べに来ていた私は、思わず声を上げた。
「そうらしいよ。だから、月曜から休んでるんだって」
忍、声大きい、と谷ちゃんに言われて、周りを見ながら小声で聞いた。
「じゃあ、仮病ってこと?っていうか、誰に振られたの?」
「押川先生」
秘書室の仕事は、亜矢がいないと回らない。亜矢にしかわからない仕事は後回しにして、とりあえず秘書室の電話の応対くらいは、今週は実験の仕事がヒマな谷ちゃんが引き受けていた。それでも今日の午前中どうしても亜矢に連絡を取らないといけない事があって電話してみると、亜矢が泣きながらそう言ったのだそうだ。
「だって、あの打ち上げの時は仲良さそうだったじゃない」
「そうだけど、その次の日の土曜日に会った時に言われたんだって。『他の人と結婚することになった』って」
「ええっ?!」
と、私はさらに驚いた。
「まあ、押川先生も亜矢みたいにたくさん候補がいたってことよね。で、亜矢は押川先生にとっては最有力候補じゃなかった、と」
「そんな…」
そうなのだ。亜矢の彼氏は押川先生だけじゃない。まだ他に4人いるのだ。それでも3日間も仕事を休むほどショックを受けている亜矢の姿が、ほんの何ヶ月か前の自分と重なって、辛くなった。
「明日は来るって言ってたから。仕事終わったら3人でご飯食べに行かない?」
と、谷ちゃんに言われ、私は「うん」とうなずいていた。