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プロローグ

 嘘つき。

 私はこの一カ月、同じ言葉を心の中で繰り返していた。

 結婚しようって言ったくせに。浩太郎(こうたろう)の嘘つき。


 それは4月の終わりのことだった。大学を卒業して4年間勤めた会社を3月いっぱいで辞め、これからは結婚の準備で忙しくなるのかな、などと淡い期待を抱いていた春の夜のことだった。もうすぐゴールデンウィーク。最近「忙しい」と会ってくれない彼も、ゴールデンウィークにはさすがに付き合ってくれるだろう。そんなことを考えながら、私は彼に電話した。

 どこからそんな話になったのか。彼、広瀬浩太郎(ひろせこうたろう)は今日も疲れているようで不機嫌で、久しぶりの電話も迷惑そうだった。そしてこんなことを言い出した。

「俺達、やっぱり無理なんじゃない?」

「え」

 初め、何を言われているのかわからなかった。大学時代、付き合い始めた頃からそうだが、彼の口調にはいつも自信があって、彼のどんな言葉も私には正しいことのように聞こえた。理系の彼と文系の私。一見、言葉には私の方が強いように思われるかもしれないが、理系の彼に論理的に詰められると、いつも私は何も言えなくなるのだ。

 私が黙っていると、彼は当然といった口調で続けた。

「だってよく考えてみろよ。俺まだドクター3年だしさ。収入もないし。無理だろ、結婚なんて」

 ドクターというのは、大学院の博士課程のことだ。彼は理学部の大学院博士課程3年生で、この1年で博士論文を仕上げて、来年の3月に卒業ということになる。

「卒業後の進路だってまだはっきりわかんないのにさ。このまま大学に残って研究続けるか、企業に就職するか。なのに先に結婚て、やっぱおかしいだろ」

 それはそうだ。彼の言うことはやっぱり正しいのだ。だけど私は不安だった。このまま彼が結婚のことをうやむやにして、そのうち逃げ出すんじゃないか。そんな思いがあったから、「私が会社を辞めたら彼も観念してすぐに結婚してくれるかもしれない」、そう思って私はいわば“賭け”に出たのだ。その“賭け”に今、持ち前の彼の話術で負けそうになっている。

「ちょっと待ってよ。私はもう仕事辞めたのよ」

私は精一杯の抵抗を試みた。

「それは、お前が先に決めてたことだろ。大体、『結婚するなら仕事辞めてくれ』なんて、俺一言も言ってないし。むしろ働いてほしいよ。俺そんな甲斐性あるわけじゃないし」

「そんな…」

 確かに会社を辞めることを相談はしなかった。私は彼と出会う前の今年の1月に、もうすでに辞めることを上司に伝えていた。そう、私はとにかく会社を辞めたかった。どうしても好きになれない仕事と、職場の人間関係。4年も我慢したのだから、と思いきって辞める決心をしたのは12月のボーナスをもらってからだった。体調もあまり良くなかったから、しばらくは仕事もせずに実家に甘えてゆっくりしようと、これから先のこともよく考えないまま仕事の引き継ぎに入った。引き継ぎは思ったより大変で、毎日いっぱいいっぱいだった。そんな引き継ぎの最中の3月の中頃に、大学を卒業する時に別れた浩太郎と偶然再会した。懐かしさからか、私はなんとなく安心した。そして浩太郎はその時言ってくれたのだ。

「結婚する?俺、次に付き合う人は結婚考えないと付き合えないから」

と。

 卒業する時、別れを切り出したのは私からだった。彼の論理的で鋭い言葉は、刃物のように時々私を傷つけた。付き合い始めの頃は“照れ屋でかわいい”と思えた物言いも、長くそばにいると“無神経”という表現がぴったりなように思われた。それで就職と同時に私は彼から離れたのだ。それでも彼のことを完全に嫌いになったわけではなかった。彼と別れてから、社会人になってそうそう新しい出会いもなく、やっぱり私には彼だったのだと思っていた。不思議なことに、離れると彼の良かったところばかりが思い出された。

 そんな彼と再会して「結婚」という言葉を聞いて、私はすっかり舞い上がってしまった。はっきり自覚していなかったけれど、やっぱり会社を辞めることは私にとってとても不安だったのだ。これで次の道を考えなくてすむ。そんなふうに思ったのかもしれない。けれどそんな思い以上に、私は彼に、その時もう一度恋をしたのだ。

「うん。私も、そう思ってた」

 そう答えた。私はやっぱり浩太郎じゃないと、結婚は考えられない。そう思って言ったつもりだったし、彼も私と同じ思いなのだと思っていた。

「じゃあ、結婚しよう」

 そこからまた私たちは付き合い始めた。彼は一人暮らしで私は実家だったから、早速合い鍵も作った。大学時代はそんなことはしたことがなく、私にとって初めての経験だった。嬉しくて、仕事を辞めてからすることもなくなった私は、ほぼ毎日通った。それが今まで一人で気ままに過ごしていた彼にとって、だんだん重くなっていたのかもしれない。最初は嬉しそうだった彼の態度が、いつからか変わり、最近ではまるで私を避けているようだった。

「とにかくさ、俺今研究の方が忙しいし。しばらく、距離置こう」

 そう言われて、私はまた何も言えなくなってしまった。やっぱり大学時代と同じだ。私は彼に自分の言いたいことをちゃんと言えたことがない。

 「じゃあ」と電話は切れた。私はしばらく携帯を耳にあてたまま、呆然としていた。


 その日から、毎日することもなく行くところもない私は、部屋にこもってずっと考えているばかりだった。何度か彼に電話はしてみたがつながらなかったし、家に行ってみても、部屋の鍵はいつの間にか変えられていた。

 嘘つき嘘つき。結婚しようって言ったのに。何度も頭の中でそんな言葉を繰り返しては、泣いていた。朝起きると、「ああ、今日も泣く一日が始まる」と思い、夜寝る時も泣きながら眠る。もう涙は出ないんじゃないかと思うけれど、また次の日になると新たな涙が出てくる。

 ゴールデンウィークもまたたく間に過ぎ、部屋のテレビで各地の渋滞をぼんやり眺めているだけだった。外はだんだん緑がまぶしく、さわやかな風が薫る、一年で一番気持ちのいい季節になっているのに、私は沈んだ部屋にこもったままだった。考えるのは彼のことばかり。もう本当にだめなのか?でも彼は「しばらく距離を置く」と言った。じゃあ、また会おうってこと?しばらくってどのくらい?そんな思いがずっと浮かんでは消え、回り続けた。私は少しおかしくなっていたのかもしれない。

 そんな毎日を過ごし、気がつくともう5月も終わりに近づいていたある朝、ふと思った。

 このままじゃ、私、だめになる。

 このまま家に一人でいたら、だめになる。何かしなきゃ。

 そんな時だった。

(しのぶ)、あんたそろそろ働かない?」

と母から言われたのだ。

 仕事を辞めた私を、両親はしばらく何も言わず見守ってくれていた。けれど、そんな私の様子を見ていた母は、心配して自分のテニス仲間に相談した。すると、私の出身大学の研究室でアルバイトを探しているという人がいた。

「医学部の研究室らしいんだけどね。6月から来れる人を探してるんだって。行ってみたら?」

 そんな母の勧めで、私は形式的な面接を受けに行くことになった。



読んでくださってありがとうございます。

これから、週に1度、金曜の夜のドラマを書くつもりで書いていきたいと思っています。どうぞ続けて読んで頂けると嬉しいです。

金曜夜10時はニ病理へ!

よろしくお願いします。

薫 ようこ

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