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浜松に付き添ってもらい、近くのコンビニで歯ブラシと下着を買って戻ってくると、久瀬が着替えを渡してくれる。
「これ、久瀬さんのジャージですか?」
「嫌なら使わなくてもいい」
「嫌なんて言ってないじゃないですか。ありがとうございます」
笑顔でジャージを受け取り、早速シャワーを浴びる。首輪は濡れないように、ビニール袋とタオルで覆っておいた。
「服は洗って乾燥機にかけていいな?」
脱衣所の外のランドリースペースから、久瀬の声がする。
「はーい」
シャワーの音で掻き消されないよう、大きな声で答える。
「にしても、シャワー室に洗濯乾燥機まであるなんて、すごいですね〜」
汗をかいていたから、助かった。頭を洗うと、すっきりして生き返るような心地がする。
「当直勤務もあるし、仕事柄、汗をかいたり汚れたりすることも多いからな」
洗濯機を操作しているのか、久瀬の声に電子音が重なる。宙は交番から逃げ出したあと、久瀬が追いかけてきたときのことをぼんやりと思い出した。異失物『管理課』と聞くと事務仕事メインな印象だが、案外肉体労働なのか。
「そういえば、今日帰れないこと、親に連絡しなくていいのか」
ふと尋ねられた声に、身体を洗っていた手が一瞬止まる。
「……大丈夫です! 俺、学生寮なんで」
「実家が遠いのか」
「や、そこまでじゃないんですけど……」
宙は少しだけ視線を泳がせ、笑った。
「ほら、一人暮らしってなんか憧れるじゃないですか。寮なら大学近いから、ギリギリまで寝られるし」
「……そうか」
「そうです。朝の五分は人類の宝なんで」
首輪のカバーを濡らさないよう、気をつけてシャワーで体を流し、浴室を出る。歯磨きと着替えを済ませて脱衣所を出ると、久瀬の案内で三階の仮眠室へ向かった。
「うわー、すご! ベッドまであるんですね」
仮眠室にはベッドが四つ並び、それぞれがカーテンで仕切られている。
「何かあったら下に来るか、電話してくれ」
「はーい」
久瀬と連絡先を交換すると、宙はベッドに横になった。寮のペラペラのマットレスより、寝心地がいい。
「電気切るぞ」
「あ、待って」
電気のスイッチに手を伸ばした久瀬を、慌てて止める。
「電気、消さなくていいです。その……真っ暗だと逆に寝づらいタイプで」
「……分かった」
久瀬は特に追及することなく、スイッチから手を離した。ほっと息をつき、宙はタオルケットを肩まで引き上げる。
「おやすみなさい」
部屋を出ていく久瀬の背に声を掛け、目を閉じる。色んなことが起きて疲れていたせいか、すぐに眠気がやってきた。泥の中に沈むように、体が重くなり、力が抜けていく。
薄れていく意識の中、宙は犬の鳴く声を聞いた気がした。
ふと、頬に風を感じて目を開けた。視界がぼやけて、周囲がよく見えない。ただ、窓から降り注ぐ光とエアコンのひんやりとした風が心地良くて、目を細めた。お気に入りのクッションに頬擦りして、再び目を閉じようとする。
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎」
不意に低い声が聞こえた。水の中にいるように音が遠く、くぐもっていて、上手く聞き取れない。ただ、肌が粟立つような、嫌な感覚がした。顔を上げるより先に乱暴に首輪を掴まれる。視界が揺れ、強引に立たされた。
「⬛︎⬛︎⬛︎」
さらに短く鋭い声が飛んできて、追い立てられるように歩き出す。力の入らない脚で、ふらつきながら廊下を歩いた。玄関のドアが開き、じっとりと湿った熱い風が流れ込む。思わず足を止めると、リードを付けられ、力尽くで引かれた。首がぐっと詰まって苦しい。耐えきれず外へ足を踏み出すと、眩しい日差しが降り注ぎ、目の前が白く染まった。
目を開けると、見慣れない天井が視界に映った。ぼんやりと瞬きをしながら、さっき見た夢を反芻する。
昨夜、首輪を着けられたときに見たものと似ていた。低い目線。茶と白の毛に覆われた前脚。
もしかして、あれはこの首輪を着けていた犬――コタロウの記憶だったりするのだろうか。だが、あの低い声と、外へ引きずり出される感覚が妙に引っかかった。
何にせよ、首輪の持つ力の一つかもしれないし、久瀬たちに報告したほうがいいだろう。
考えながら、体を起こす。
「外れない……よなぁ」
少し首輪を弄ってみるが、昨夜と同様、ベルトが何かに引っ掛かっているように動かない。宙は諦めてベッドから下り、仮眠室を出た。
「おはようございまーす」
二階のオフィスに入ると、久瀬が一人、パソコンの前に座っていた。久瀬はこちらを見て、ちらりと壁に掛けられた時計を確認する。時刻は十一時を少し過ぎていた。
「熟睡だったな。いつまでたっても起きてこないから、浜松さんと秋田が心配して、何度か様子を見に行ってたぞ」
「へへ、枕変わってもぐっすり寝られるのが特技なんです」
「褒めてない」
「あと、チャーハン作るのも得意です」
「聞いてない」
久瀬はパソコンのモニターに視線を戻して、淡々と返す。宙は久瀬の隣の席――机に何も置かれていないから恐らく空席だ――に腰を下ろした。
「あの――」
「体調は?」
さっそく夢で見たものについて話そうとするが、それより先に久瀬が尋ねた。
「元気です」
答えてから、ふと久瀬のデスクに置かれた缶コーヒーが目に入る。
「久瀬さんはまさか徹夜?」
昨日と着ているシャツが違うから、少なくとも着替えはしたらしい。首を傾げて尋ねると、久瀬は開いていた画面を閉じて、「交代で仮眠をとった」と答える。
「浜松さんたちは、もう帰っちゃったんですか?」
「いや、首輪が落ちていた周辺の店に聞き込み中だ」
「久瀬さんは何してたんですか?」
「今は事故の記録を確認していた」
「事故?」
聞き返した宙に頷き、久瀬は缶コーヒーに手を伸ばす。
「一週間前、首輪が落ちていた場所で、男性が車に轢かれる事故があったんだ」
「えっ!」
宙は思わず、椅子の背もたれから上体を起こした。
「もしかして、犬の散歩中に飼い主が交通事故に遭って、その拍子に首輪が外れて犬が逃げちゃったんじゃないですか!?」
「……俺もその可能性を考えた」
前のめりになって尋ねた宙に、久瀬はコーヒーを一口飲んで答える。
「だが、轢かれた男性が犬を連れていたという情報はなかった」
「違ったか〜」
がっかりして、椅子の背もたれに倒れ込む。ため息をついて天井を眺めていると、久瀬がデスクの上を片付け始めた。
「どっか行くんですか?」
「事故に遭った男性に話を聞きにいく」
「え? でも、その人は犬連れてなかったって……」
戸惑って目を瞬く。
「事故の記録に情報がなかっただけだ。それに、犬は連れていなくて、首輪だけを持っていた可能性もある」
なるほど、確かに。感心して頷いていると、昨夜洗濯してもらった服を差し出された。
「置いていけないから、お前にも同行してもらう。着替えて支度しろ」
「はい」
宙が着替えている間に、久瀬は手早くリュックに荷物をまとめていく。
「そういえば、久瀬さんたちって、いつまで勤務なんですか?」
「本来は当直明けは休みだが、他の班と休日を交換させてもらったから、今日も日勤だ」
「え……」
驚いて、Tシャツに腕を通した姿勢のまま、固まる。
「……なんかすみません。俺のせいですよね」
着替え終え、借りていたジャージを畳みながら、しゅんと肩を落とす。久瀬は眉間に皺を寄せて宙を見た。
「何を言ってるんだ?」
「え?」
「お前は被害者だろ。どうして謝る」
「ど、どうしてって……」
責めているわけではなさそうだが、圧が強くて、まるで取り調べでも受けている気分になる。狼狽えていると、タイミングがいいのか悪いのか、ぐぅと腹が大きな音を立てた。
久瀬がリュックに入れようとしていた、値引シールの付いた焼きそばパンが、宙の目に入る。夜食の残りか、もしくは昼食用だろうか。
「久瀬さん」
「何だ」
「それ、美味しそうですね……」
腹を押さえながらパンを見つめる。久瀬は呆れたように宙を見た。
「さっきまでの遠慮はどこに行った」
「えへへ。極限状態で生き残れるのは、素直な人間ですよ」
「一食抜いたくらいで人は死なない」
そう言いながらも、久瀬は宙に向かってパンを投げる。「久瀬さんって意外と優しいんですね」と言うと、ものすごく怪訝な顔をされた。




