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香水くさい女とは婚約できないそうですが、その香り、婚約者様の袖からもしています

掲載日:2026/06/06

 最初におかしいと思ったのは、婚約者の言葉ではなかった。


 香りだった。


 白百合。


 蜂蜜酒。


 舞台用の煙香。


 それから、少しだけ焦げた砂糖。


 全部が喧嘩している。


 ひどい。


 あまりにもひどい。


 せめて白百合を先に立てるなら、蜂蜜酒は半分でよかった。


 そこへ煙香を重ねるなら、焦げた砂糖など入れてはいけない。


 香りが泣いている。


 私の鼻も泣いている。


 だから、婚約者のアルベルト様が大広間の中央で私に向かって何かを言い始めたとき、私はその言葉の半分を聞き逃していた。



「フィオナ・オルデン。君との婚約を破棄する」



 ようやく聞こえたのは、その一文だった。


 春の香料夜会。


 ここは私の実家、オルデン伯爵家の王都屋敷である。


 主催は母、オルデン伯爵夫人。


 父も母も、大広間の奥で客人を迎えていた。


 つまり、私の婚約者であるアルベルト・レオンフォード様は、私の家の夜会で、私の家の客人たちの前で、私との婚約破棄を宣言したことになる。


 普通なら、泣くところだと思う。


 震えるところかもしれない。


 でも私は、どうしてもその前に確認したいことがあった。



「アルベルト様」



 私はできるだけ穏やかに呼びかけた。



「今、その香りをどちらで?」


「香り?」



 アルベルト様が、心底うんざりした顔をした。



「またそれか。だから君とはもう無理だと言っているんだ」



 彼の隣には、ミレーユ・ランベール男爵令嬢が寄り添っていた。


 白いドレス。


 細い肩。


 潤んだ瞳。


 今にも倒れそうな顔。


 たしかに、清らかそうではある。


 ただし扇から漂う香りは、清らかというより暴れていた。


 白百合が前に出すぎている。


 蜂蜜酒が甘すぎる。


 煙香が余計すぎる。


 焦げた砂糖は、もはや何のつもりなのか分からない。



「ミレーユが気分を悪くした」



 アルベルト様は、彼女の肩を庇うように抱き寄せた。



「君が強すぎる香水を撒いたせいだ」


「私が?」


「そうだ。君は昔から香水に執着しすぎている。香料だの、香木だの、花油だの、樹脂だの、まともな令嬢の話題ではない」



 客人たちがざわめいた。


 私は、ああ、と頷いた。


 なるほど。


 そこか。


 つまり今日の婚約破棄の理由は、私が香水くさい女だから、ということらしい。


 それ自体は少し悲しい。


 しかし今は、それより重大な問題があった。



「アルベルト様」


「何だ」


「私は本日、雨薔薇を一滴、白檀を半滴、耳の後ろではなく髪飾りの内側へ置いております」



 アルベルト様が眉をひそめる。



「何を言っている」


「つまり、私からその白百合と蜂蜜酒と煙香の事故は起きません」


「事故だと?」


「はい」



 私ははっきり頷いた。



「あれは香水ではありません。香りの事故です」



 大広間が、一瞬だけ静かになった。


 アルベルト様の顔が赤くなる。



「君はこの期に及んで、ミレーユを侮辱するのか!」


「いいえ」



 私は首を振った。



「侮辱しているのは、調合した方です」


「何だと?」


「白百合は悪くありません。蜂蜜酒も、煙香も、焦げた砂糖も、それぞれには良さがあります。ただ、合わせ方が悪いのです。魚料理に苺ジャムと胡椒と薔薇水を一度にかけたようなものです」


「たとえが分からん!」


「私にも、この香りの意図が分かりません」



 ミレーユ嬢が、かすかに唇を噛んだ。


 その仕草で、扇が少し揺れる。


 香りがまた広がった。


 私は反射的に一歩だけ近づきかけて、踏みとどまった。


 駄目。


 ここで無断で嗅ぎに行くと、ただの変な女になる。


 すでに十分変かもしれないけれど、礼儀は守りたい。



「お母様」



 私は大広間の奥へ顔を向けた。



「三分だけ、嗅ぎ分けの時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「嗅ぎ分けの時間」



 母が繰り返した。


 オルデン伯爵夫人である母は、今日の主催者である。


 娘が婚約破棄を告げられている場面だというのに、母は扇の陰でなぜか少し笑っていた。



「許します」



 母は言った。



「ただし、客人に鼻を近づけすぎないように」


「承知しました」



 父がこめかみを押さえた。


 気持ちは分かる。


 でも今は、父の頭痛より香りのほうが重要だった。



「待て」



 アルベルト様が声を荒げた。



「なぜ君の母上が許可を出す」


「ここはオルデン伯爵家主催の夜会ですので」


「それは分かっているが」


「では、ご理解いただけて何よりです」



 私はそう返し、近くの卓から白い試香紙を一枚取った。


 薄い紙を扇の風に乗せる。


 直接嗅がなくても、香りは十分に拾える。



「まず、ミレーユ様の扇から白百合油」


「なっ」


「かなり濃いです。普通はこの三分の一で十分です。次に蜂蜜酒。これは飲むほうではなく、香料用に煮詰めたものです。甘さが重い」



 私はもう一枚、試香紙を取った。



「そこへ劇場で使う煙香。王都南区の小劇場でよく焚かれている安い樹脂です。悪くはありませんが、白百合とは喧嘩します」



 客人の中から、小さな笑い声が漏れた。


 南区の小劇場へ通っている方がいるのだろう。


 分かる。


 あの煙香は、悲恋ものの第二幕でよく使われる。



「そして焦げた砂糖」


「もういい!」



 アルベルト様が遮った。



「君は香りの話になると本当に気味が悪い!」


「申し訳ございません。まだ始まったばかりです」


「始めるな!」



 私は少し考えた。


 たしかに、婚約破棄の場で香料講評を始める婚約者は嫌かもしれない。


 けれど、私の名で粗悪な香りを出されたのである。


 これは引けない。


 婚約者は失っても、白檀への礼は失えない。



「アルベルト様」



 私は彼の右袖を見た。



「その香り、あなたの袖からもしています」


「……何?」


「右袖です。肩ではなく、肘の内側に濃い。扇を持った女性を近くで支えたときにつく位置です」



 アルベルト様の顔色が変わった。


 ミレーユ嬢の扇が、ぴたりと止まる。


 私は鼻を動かす。


 いや、動かしたつもりはなかったけれど、たぶん動いていた。


 近くの令嬢が、少しだけ身を引いた。


 すみません。


 でも香りは待ってくれない。



「それから、温室の月下花」


「月下花?」


「ええ。今夜、我が家の南温室で咲いています。夜にだけ香る花です。ミレーユ様の髪飾りにも、アルベルト様の袖にも、同じ香りが残っています」



 大広間がまたざわめいた。


 オルデン伯爵家の南温室は、今夜の客人には開放していない。


 母が、今度ははっきりと扇を閉じた。



「フィオナ」



 母の声が少し低くなる。



「南温室は、本日、招待客の出入りを止めていたはずですね」


「はい」



 私は頷いた。



「月下花は香りが強いので、夜会場へ混ざらないよう閉めておりました」


「では、なぜお二人から同じ香りが?」


「私も、そこを知りたいです」



 アルベルト様が一歩下がった。


 ミレーユ嬢が青ざめる。


 今さら青ざめても遅い。


 月下花は、そう簡単には消えない。


 特に髪飾りの布花にはよく染みる。


 良い花である。


 扱いが難しいだけで。



「違うの」



 ミレーユ嬢が震える声で言った。



「わたくし、少し気分が悪くなって、アルベルト様に休める場所へ連れていっていただいただけで」


「閉鎖していた南温室へ?」



 母がにこりと笑った。


 とても美しい笑顔だった。


 私が幼いころ、香料庫へ勝手に入り、竜涎香の箱を抱いて眠っていたときに向けられた笑顔と同じだった。



「え、ええと」


「鍵はどなたが?」


「それは……」



 ミレーユ嬢の視線が、アルベルト様へ流れた。


 アルベルト様は唇を結んでいる。


 父が、ゆっくりと執事へ目配せをした。


 執事は音もなく大広間を出ていく。


 確認に向かったのだろう。


 我が家の使用人は有能である。


 少なくとも、月下花の匂いを髪飾りに残したまま無実を主張する人よりは、ずっと有能である。



「ですが」



 私は話を戻した。



「温室の件は、我が家で確認いたします」


「まだ何かあるのか」



 アルベルト様の声は、だいぶ弱くなっていた。


 私は手元の試香紙を見た。



「ございます」


「もう婚約破棄の話は済んだだろう!」


「婚約破棄は承りました」



 私は静かに答えた。



「ですが、粗悪な香料を私の名で使うのはおやめくださいませ」


「粗悪、粗悪と……!」


「粗悪です」



 そこは譲れない。



「私なら、白百合油をここまで厚くしません。蜂蜜酒を合わせるなら、先に橙花を置きます。煙香を入れるなら、せめて沈香の粉を一粒だけ。焦げた砂糖は入れません。絶対に入れません」



 最後は少し力が入った。


 大事なところだった。


 焦げた砂糖は、使いどころを間違えると全部を台無しにする。


 今の香りがまさにそうだった。



「フィオナ様」



 客人の一人、ロアンヌ子爵夫人が手を上げた。


 彼女は王都でも有名な香水好きで、私とはよく香木の話をする仲である。



「私にも、その試香紙を?」


「もちろんです」



 私は試香紙を渡した。


 ロアンヌ子爵夫人は軽く嗅ぎ、すぐ顔をしかめた。



「これはフィオナ様の香りではありませんね」


「ロアンヌ夫人!」



 アルベルト様が叫ぶ。



「夫人までこの茶番に乗るのですか」


「茶番ではなく鼻ですわ」



 ロアンヌ子爵夫人は冷たく言った。



「フィオナ様の香りは、もっと雨のあとの庭に近い。これは劇場帰りの馬車です」



 大広間のどこかで、誰かが吹き出した。


 私は少しだけ感動した。


 さすがロアンヌ子爵夫人。


 表現が的確である。


 劇場帰りの馬車。


 まさにそれだ。


 眠たくて、甘くて、煙たくて、少し酔う。


 ただし、香水として身につけるものではない。



「私も確認してよろしいかな」



 低い声がした。


 振り向くと、灰青色の上着を着た男性が立っていた。


 セドリック・グレイン辺境伯。


 北方領を治める若い辺境伯で、今日は父の招待客として来ていた。


 彼は香水をつけていない。


 それだけで、私は最初から少し気になっていた。


 香水をつけない男性は、二種類いる。


 香りに無頓着な人。


 それから、何かを嗅ぐために余計な香りを足さない人。


 セドリック様は、たぶん後者だった。



「どうぞ」



 私は試香紙を渡した。


 セドリック様は、ほんの少しだけ紙を近づけた。



「南区の煙香だな」


「お分かりになりますか」


「北方の冬市にも流れてくる。安いが、湿気に弱い」


「そうなのです。湿気を含むと甘さが濁るのです」


「白百合とは合わない」


「合いません」



 私は思わず身を乗り出した。


 分かる人だ。


 この方は分かる人だ。


 婚約破棄の現場でなければ、三刻ほど話したかった。



「それから、フィオナ嬢の髪飾りからは別の香りがする」



 セドリック様が続けた。



「雨薔薇と白檀。ごく薄い。こちらのほうがずっと良い」


「ありがとうございます」



 私は本気で礼を言った。


 婚約破棄されたことより、正しい香りを正しく褒められたことのほうが、今は少し嬉しかった。


 我ながら、順番がおかしいとは思う。



「馬鹿馬鹿しい!」



 アルベルト様が声を荒げた。



「香りなど、いくらでも言いがかりをつけられる!」


「では、瓶を確認いたしましょう」



 私は展示卓へ目を向けた。


 今夜の香料夜会では、オルデン伯爵家が取り扱う香料をいくつか展示していた。


 その中に、私が個人的に調合した小瓶も一つだけ置いてある。


 雨薔薇と白檀の香り。


 客人へ売るものではなく、香料好きの方々へ試していただくためのものだった。



「あの瓶から香ったのだ」



 アルベルト様は、待っていたとばかりに言った。



「ミレーユが倒れる前、君の瓶を試した。だから原因は君だ」


「なるほど」



 私は頷いた。



「では、その瓶をこちらへ」



 母が係へ合図する。


 係の侍女は慎重に展示卓から小瓶を取り、白い布の上へ置いた。


 私は瓶に触れない。


 まず、蓋を見る。


 次に、首に結ばれた封糸を見る。


 最後に、瓶底を見る。



「開けられていますね」


「当然だ。試したのだから」


「いいえ」



 私は首を振った。



「この瓶は試香用ですが、蓋を開けるのは係だけです。客人には試香紙へ移したものを渡す決まりです」


「そんな細かい決まりなど」


「香りは細かい決まりで守るものです」



 私は蓋の周りを示した。



「封糸が反対に巻かれています。オルデン家の係は左から右へ二重に結びます。これは右から左へ一重」


「そんなもの、偶然だろう」


「それから、蓋に白百合油が付着しています」



 私は試香紙を蓋へ近づけた。


 十分だった。


 瓶の中の香りは、もはや私の雨薔薇ではない。


 中身が入れ替えられている。



「どなたかが、この瓶の中身を抜き、別の香料を入れました」


「証拠はあるのか!」


「ございます」



 私は微笑んだ。



「この香りが下手です」



 今度こそ、大広間のあちこちから笑いが漏れた。


 アルベルト様の顔が真っ赤になる。


 私は大真面目だった。


 私なら、こんなものは作らない。


 それは私にとって、かなり強い証拠である。


 ただし、それだけでは他人には通じないことも分かっている。



「もちろん、それだけではございません」



 私は瓶底を指した。



「この瓶には、私が昨夜、乾いた菫の小片を一つだけ入れておきました。香りの変化を見るためです。ですが今はありません」


「そんなもの、誰が分かる」


「私です」


「君だけではないか!」


「はい」



 私は頷いた。



「だから、もう一つ」



 母が、静かに執事へ目を向けた。


 ちょうど戻ってきた執事が、一礼する。



「南温室の鍵箱を確認いたしました」



 彼は言った。



「本日、予備鍵が一度持ち出されております。記録札には、レオンフォード侯爵家の従者の名が」


「何だと」



 それまで黙っていたレオンフォード侯爵が、低い声を出した。


 アルベルト様の父である。


 彼は息子を見る目を変えた。


 夜会場の空気も、はっきり変わった。


 婚約破棄の騒ぎでは済まなくなったからだ。


 他家の閉鎖温室へ入り、香料展示の瓶を開け、中身を入れ替え、主催家の令嬢を害したと公言した。


 これはもう、恋愛の揉め事ではない。


 社交上の侮辱であり、主催家への不正であり、香料商家としての信用を傷つける行為だった。



「アルベルト」



 レオンフォード侯爵の声は、刃のようだった。



「説明しろ」


「父上、これは」


「説明しろ」



 アルベルト様は口を開き、閉じた。


 ミレーユ嬢は、ついに扇を落とした。


 その扇から、また白百合と蜂蜜酒と煙香が立ち上る。


 私は少しだけ眉を寄せた。


 やはり濃い。


 扇に染み込ませる量ではない。



「わ、わたくしは」



 ミレーユ嬢が震えながら言った。



「ただ、アルベルト様がフィオナ様に苦しめられていると聞いて」


「私が苦しめていたのですか」



 私は首を傾げた。



「香料の話をしすぎて?」


「そ、それもありますし」


「それは否定できませんね」



 私は素直に認めた。


 香料の話をしすぎる自覚はある。


 庭の薔薇の朝露と夕露で香りが違う話を、夕食の席で半刻ほどしたこともある。


 反省はしている。


 少しだけ。



「ですが」



 私はミレーユ嬢を見た。



「だからといって、私の瓶へ別の香りを入れてよい理由にはなりません」


「わたくしは、ただ、フィオナ様がどれほど強い香りを使っているか、皆様に分かっていただきたくて」


「それで、ご自分で強い香りを作ったのですか」


「……」


「なぜ私に相談してくださらなかったのです」


「相談?」


「ええ」



 私は真剣に言った。



「白百合を主役にしたいなら、もっと良い配合をご提案できました」


「フィオナ」



 母がたしなめるように名を呼んだ。


 私は口を閉じた。


 今のは少し違ったかもしれない。


 でも、本当にそう思ったので仕方がない。


 白百合は悪くないのだ。


 扱い方を間違えただけで。



「ミレーユ嬢」



 レオンフォード侯爵が口を開いた。



「あなたは、我が息子と共にオルデン伯爵家の展示品へ手を加えたのですね」


「わ、わたくしは」


「答えなさい」


「……アルベルト様が、鍵を」



 アルベルト様がミレーユ嬢を見る。


 ミレーユ嬢は泣きそうな顔で続けた。



「わたくしは、中身を少し入れ替えただけで」


「少し」



 私は思わず繰り返した。



「香りの世界で、少しは大事件です」


「今は黙っていなさい、フィオナ」



 母がまた言った。


 私は黙った。


 でも心の中では、何度も頷いた。


 少し。


 少しと言った。


 蜂蜜酒一滴で香りは変わるのに。


 何ということだろう。



「オルデン伯爵」



 レオンフォード侯爵は、父へ深く頭を下げた。



「我が家の不始末です。正式に謝罪と賠償を申し入れます」


「承りました」



 父の声は静かだった。



「婚約については、こちらからも白紙撤回を申し入れます。今夜の件は、双方の私的な不和ではなく、我が家の夜会と信用を傷つける行為として扱います」


「異存ありません」



 アルベルト様が顔を上げた。



「父上!」


「黙れ」



 レオンフォード侯爵の一言で、アルベルト様は完全に黙った。


 少し気の毒になった。


 ほんの少しだけ。


 ただし、それ以上に香料瓶が気の毒だった。


 私の雨薔薇と白檀は、どこへ捨てられたのだろう。


 もし絨毯へ零されているなら、あとで回収したい。


 染みでも嗅ぎたい。


 いや、これは人前で言わないほうがいい。



「フィオナ」



 父が私を見た。



「お前も、それでよいか」


「はい」



 私は頷いた。



「婚約破棄については、異存ございません」


「そうか」


「ただ、一つだけ」


「何だ」


「あの瓶は、私が引き取ってもよろしいでしょうか」


「……中身を入れ替えられた瓶を?」


「はい」



 私は真剣に言った。



「失敗例として、たいへん貴重です」


「フィオナ」



 父が深く息を吐いた。


 母はとうとう扇の陰で笑った。


 セドリック様も、少しだけ口元を緩めている。


 アルベルト様は、信じられないものを見る目で私を見ていた。



「君は」



 彼は低く言った。



「本当に、婚約がなくなっても平気なのか」


「平気ではありません」



 私は答えた。


 それは本当だった。


 婚約者に公衆の面前で香水くさい女と言われたのだ。


 心が傷つかないはずがない。



「でも、今は香りのほうが気になります」


「そこだ!」



 アルベルト様が叫んだ。



「そこが嫌なんだ!」


「そうでしたか」



 私は少し考えた。



「では、やはり婚約解消でよかったのだと思います」


「何?」


「私は香りをやめられませんので」



 自分で言って、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 そうなのだ。


 私はやめられない。


 香水も、香木も、花油も、樹脂も、雨上がりの庭も、古い手紙に残る白檀も、人の袖口に残る嘘も、たぶん一生気になってしまう。


 それを気味が悪いと言う人の隣で、私は幸せにはなれない。


 逆に言えば、それが分かったのは良いことだった。


 婚約式のあとではなく、今日でよかった。



「あなたが私を嫌になったことは、仕方ありません」



 私はアルベルト様へ一礼した。



「ですが、次にどなたかを陥れるときは、香料を使わないことをおすすめします」


「なぜだ」


「残りますので」



 私は微笑んだ。



「言葉より、ずっと正直に」


 アルベルト様は何も言えなかった。


 レオンフォード侯爵の指示で、彼は従者に連れられて大広間を出ていった。


 ミレーユ嬢も、ランベール男爵家の親族に付き添われて退場した。


 白百合と蜂蜜酒と煙香の残り香だけが、少しの間その場に漂った。


 私はそれを名残惜しくは思わなかった。


 失敗例としては興味深い。


 でも、長く嗅ぎたい香りではない。



 夜会は一時中断された。


 母は主催者として客人へ詫び、父はレオンフォード侯爵と別室へ向かった。


 使用人たちは手早く展示卓を下げ、問題の瓶を白い布で包む。


 私はその布をじっと見つめた。



「欲しいのか」



 隣から声がした。


 セドリック様だった。


 彼は相変わらず、何の香水もつけていない。


 近くに立たれると、布と木と外気の匂いだけがする。


 とても良い。


 余計な甘さがない。



「欲しいです」



 私は正直に答えた。



「ただ、今それを言うと母に叱られそうなので我慢しています」


「我慢できるのか」


「たぶん、あと五分ほどなら」


「短いな」


「香料は時間で変わりますので」



 セドリック様は、少しだけ笑った。



「グレイン領には、古い香木林がある」


「香木林」



 私は思わず聞き返した。


 いけない。


 声が少し弾んだ。



「北方の湿地に近い森だ。百年以上、雪と霧を吸った木がある」


「百年以上」


「切ることは禁じているが、嵐で落ちた枝は保管している」


「落ちた枝」


「乾かす蔵もある」


「乾かす蔵」



 駄目だった。


 完全に駄目だった。


 婚約破棄されたばかりの令嬢として、今はもっと慎ましく、傷ついた顔をしているべきなのだろう。


 でも香木林。


 百年以上。


 雪と霧。


 落ちた枝。


 乾かす蔵。


 それはもう、求婚に近い。


 少なくとも、私の耳にはそう聞こえる。



「セドリック様」



 私は真剣に言った。



「婚約破棄直後の令嬢に香木林の話をするのは、少し危険です」


「なぜ」


「弱いので」


「香木林に?」


「はい」


「では覚えておく」



 彼は真面目に頷いた。


 この方は、からかっているようで、たぶん本当に覚えてくれる。


 その感じも、少し危険だった。



「あなたは」



 セドリック様は言った。



「香水くさい女ではないと思う」


「そうでしょうか」


「ああ」


「では何でしょう」


「香りにうるさい女だ」


「正確です」



 私は深く頷いた。



「とても正確です」


「嫌か」


「いいえ」



 私は少し笑った。



「褒め言葉として受け取ります」


「そのつもりだった」



 大広間の外では、まだ人の足音がしている。


 今夜の騒動は、明日には王都中へ広まるだろう。


 アルベルト様が私を香水くさい女と呼び、婚約破棄を宣言したこと。


 ミレーユ嬢が私の瓶を入れ替えたこと。


 二人が閉鎖された南温室へ入っていたこと。


 そして私が、婚約破棄の場で香料講評を始めたこと。


 最後の一つは、できれば少し控えめに広まってほしい。


 無理かもしれない。


 ロアンヌ子爵夫人がすでに誰かへ楽しそうに話している。


 無理だ。


 これは広まる。



 数日後、レオンフォード侯爵家から正式な謝罪状が届いた。


 婚約は、両家合意の上で解消。


 ただし、原因はアルベルト様側の不誠実と、オルデン伯爵家夜会への不正行為と記録された。


 違約金も、夜会の信用回復にかかる費用も、レオンフォード侯爵家が負担することになった。


 ミレーユ嬢はしばらく王都の夜会へ出られなくなったらしい。


 アルベルト様も、父君の領地へ戻されたと聞いた。


 香水くさい女とは結婚できない。


 彼がそう言った夜から、私は一度も泣かなかった。


 不思議と、涙が出なかった。


 悲しくないわけではない。


 腹が立たないわけでもない。


 ただ、それ以上に、私の中には確かなものがあった。


 私は香りが好きだ。


 心底好きだ。


 やめろと言われてやめられるものではない。


 人にどう思われようと、雨上がりの薔薇を嗅げば足を止めるし、古い手紙に白檀が残っていれば読み終わったあとも封筒を捨てられない。


 たぶん私は、そういう人間なのだ。


 それを嫌う人の隣には、もう立たなくていい。



 さらに半月後、グレイン辺境伯家から招待状が届いた。


 北方の香木林を見に来ないか、というものだった。


 父は眉をひそめた。


 母は笑った。



「婚約破棄から半月で辺境伯家の香木林へ行く令嬢は、あまり聞いたことがありませんね」


「お母様」


「でも、あなたらしいわ」



 母はそう言って、私の旅支度を許した。


 ただし、侍女と護衛をつけること。


 香木の枝を勝手に齧らないこと。


 湿地で迷子にならないこと。


 この三つを条件に。


 私は一つ目と三つ目には頷いた。


 二つ目には、少しだけ返事が遅れた。


 母に睨まれたので、頷いた。



 北方の香木林は、想像以上だった。


 湿った土。


 冷たい霧。


 苔を含んだ樹皮。


 雪解け水を吸った古木。


 風が吹くたび、木々の奥から深く静かな香りが立ち上る。


 派手ではない。


 甘くもない。


 でも、長い時間が折り重なった香りだった。



「どうだ」



 セドリック様が隣で訊いた。


 彼は今日も香水をつけていない。


 森の香りを邪魔しないためだと言っていた。


 素晴らしい判断である。



「危険です」


「何が」


「この森です」


「気に入らなかったか」


「逆です」



 私は真剣に答えた。



「帰りたくありません」


「それは困る」


「困りますか」


「まだ婚約の申し込みをしていない」


「なるほど」



 私は頷いた。



「では、順番が問題ですね」


「そうだ」


「香木林、乾燥蔵、落枝保管庫、婚約の申し込み、という順番では」


「普通は婚約の申し込みが先ではないのか」


「普通はそうでしょうね」


「君は違うのか」


「香木林を先に見せられましたので」



 セドリック様は、しばらく私を見ていた。


 それから、低く笑った。



「では、順番を整えよう」



 彼は森の中で膝をついた。


 湿った土の上で、辺境伯が膝をつく。


 私は少し驚いた。


 でも、それより先に、風が動いた。


 古い香木の香りが、彼の肩越しに流れてくる。



「フィオナ・オルデン嬢」



 セドリック様は、まっすぐ私を見上げた。



「あなたの香りにうるさいところを、私は好ましく思っている」


「そこですか」


「そこだ」


「本当に?」


「ああ」



 彼は少しも迷わなかった。



「余計な香りを足さず、あなたの好きなものを邪魔せず、共に森を歩くことを望む」


「……それは」


「求婚だ」


「分かりやすいです」



 私は胸を押さえた。


 婚約破棄のときには出なかった涙が、少しだけ出そうになった。


 困った。


 香木林で泣くと、鼻が詰まる。


 それはとても困る。



「お返事を」



 セドリック様が言った。



「少しだけお待ちください」


「なぜ」


「今、泣くと香りが分からなくなります」


「……そうか」


「はい」


「では、落ち着いてからでいい」


「ありがとうございます」



 私は深呼吸をした。


 森の香りが胸に入る。


 湿った木。


 苔。


 霧。


 遠くの雪。


 そして、余計な香水をまとわない人の静かな気配。


 いい。


 とてもいい。


 かなりいい。



「お受けします」



 私は言った。



「ただし、結婚後も香料庫は必要です」


「用意する」


「乾燥棚も」


「作らせる」


「香木の落枝を勝手に捨てないでください」


「捨てない」


「私が夜中に急に起きて、瓶の香りを確認していても驚かないでください」


「努力する」


「そこは受け入れてください」


「受け入れる」



 私は満足した。


 求婚の返事としては、少し条件が多かったかもしれない。


 でも、これが私である。


 香りをやめた私は、きっと私ではない。


 セドリック様は、その私を変えろとは言わなかった。


 ただ、隣で森を歩くと言った。


 それで十分だった。



 王都では、今でもときどき私の噂が流れるらしい。


 香水くさいと言われて婚約破棄された令嬢。


 婚約破棄の場で香料講評を始めた令嬢。


 元婚約者の袖口の香りで密会を暴いた令嬢。


 どれも、だいたい合っている。


 少しだけ言い方がひどいけれど、間違ってはいない。



 だから私は、訂正しない。


 ただ、もし誰かがこう言うなら、そこだけは直すつもりだ。


 香水くさい女。


 それは違う。



 私は、香りにうるさい女である。


 そして近いうちに、香りにうるさい妻になる予定だ。

お読みいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
いや釘刺されなくても勝手に齧っちゃダメでしょ他所様の香木をw 許可取れば良いんだからw ……でもまぁそんな我慢が効くと思われなさそうな振る舞いしてたし言われるのも当然か。 ところで最初の婚約って何目…
こちらは香りバージョンでしたか。
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