昨日の私を殺す旅
1.余剰データの誕生
「テセウスの船」という古いパラドックスがある。
ある英雄が乗っていた木造船を保存する際、朽ちた板を一枚ずつ新しい板に張り替えていく。長い年月をかけ、すべての部品が新しいものに置き換わったとき、果たしてその船は「元の船」と同じと言えるのだろうか?
もし言えないとすれば、元の船は一体「いつ」消滅したことになるのか。最後の一枚を張り替えた瞬間か、あるいは半分が入れ替わった時点か。
かつて哲学の講義で聞いたその問いは、西暦2048年の現代において、もはや机上の空論ではなくなっていた。
ただし、議論の対象は木造船ではない。我々人間だ。
*
東京、品川区にある第三転送ステーション。
朝のラッシュアワー独特の、湿ったような熱気と苛立ちが充満するフロアに、無機質なアナウンスが響いていた。
『転送ゲート7番、準備完了いたしました。北海道・札幌行きのお客様は、黄色の線の内側までお進みください』
私、相沢タカシは、くたびれたスーツの襟元を緩めながら、列に並んでいた。
四十二歳。中堅食品メーカーの営業職。妻一人、娘一人。住宅ローンはあと二十五年。今日の目的は、北海道支社でのクレーム処理だ。新幹線や飛行機が過去の遺物となって久しい今、東京から札幌への移動はわずか0.05秒で完了する。
目の前にあるのは、電話ボックスを一回り大きくしたような白いカプセル――「量子分解転送機」だ。
仕組みは単純にして残酷である。
転送元で対象物を原子レベルでスキャンし、そのデータを転送先に送信。同時に、転送元の物体は瞬時に超高温で焼却処理――いや、「分解」される。転送先では受信したデータをもとに、現地の炭素や水分を用いて、まったく同じ構成の人間を3Dプリントのように再構築する。
記憶も、肉体の傷も、胃の中の消化途中の朝食も、すべてが完璧に再現される。
だから、誰も気にしない。
自分が一度死んで、別の場所でコピーが作られているだけだとしても、主観的な意識が連続している(ように感じる)なら、それは移動と同じことだ。社会はそう定義し、我々はそれを受け入れた。
「次の方、どうぞ」
係員に促され、私はカプセルに入った。
狭い空間には、微かにオゾンの臭いが漂っている。私は慣れた手つきでIDカードをスキャナにかざし、目を閉じた。
いつものことだ。一瞬の閃光の後、目を開ければそこは涼しい札幌のステーションだ。そして私は、憂鬱な謝罪会見へと向かうことになる。
『スキャン開始。分解プロセス、スタンバイ』
機械的な音声が鼓膜を揺らす。
瞼の裏が赤く染まった。強烈な熱感のようなものが肌を舐める。
カッ、と世界が白く弾けた。
そして、静寂が戻る。
私はゆっくりと目を開けた。
「……あ?」
目の前には、汚れた白い壁があった。
足元の床には、泥のついた誰かの靴跡。
おかしい。札幌のステーションは先月リニューアルしたばかりで、壁は木目調のはずだ。それに、空気が生ぬるい。東京の淀んだ空気そのままだ。
プシュー、という音とともに、背後の扉が開く。
私はよろめきながらカプセルの外に出た。
そこは、さっきまで並んでいた品川の第三転送ステーションだった。
「故障か……?」
舌打ちをする。ただでさえ気が重い出張なのに、機材トラブルで足止めとはついていない。
私は近くにいた係員に声をかけた。
「すみません、転送されなかったみたいなんですけど。別のゲートを使わせてもらえますか?」
タブレット端末を操作していた若い男性係員が、顔を上げた。
彼は私を見ると、怪訝そうに眉をひそめ、次に手元の端末に視線を落とした。そしてまた私を見る。その顔色が、見る見るうちに青ざめていくのがわかった。
「お、お客様……。ID番号、AIZ-4820……相沢タカシ様、ですね?」
「ええ、そうですが」
「……転送は、『完了』しております」
「は?」
私は思わず声を荒らげた。
「完了してるわけないだろう。私はここにいるんだぞ」
「いえ、ですが……システム上は正常終了のコードが出ています。現に、ほら」
係員は震える手で、壁面の大型モニターを指し示した。
そこには、全国のステーションのリアルタイム映像が映し出されている。
『札幌・第一ゲート到着ロビー』の映像。
私は息を飲んだ。
そこには、私がいた。
グレーのスーツを着た男が、カプセルから颯爽と出てくる。彼は時計を確認し、迎えに来ていた支社の人間と笑顔で握手を交わし、改札の方へと歩き去っていく。
間違いなく私だ。今朝、私が自分で選んだネクタイをしている。
だが、私はここにいる。
「な、なんだこれは……」
「転送エラーコード704……『転送元個体の分解失敗』」
係員が、まるで汚物を見るような目で私を見た。いや、正確には「見てはいけないエラー」を見る目だ。彼はインカムに手を当て、小声で早口に何かを叫んでいる。
「こちら7番ゲート! 重大な残存インシデント発生! 清掃班、至急! 警備ではなく清掃班だ!」
清掃班。
その単語が、私の背筋を凍らせた。
この社会のルールを、私は知っている。
転送とは「移動」ではない。「コピー&デリート」だ。
コピーが生成され、活動を開始した瞬間、オリジナルである転送元の物体は、法的にどう定義されるか。
それは人間ではない。
『産業廃棄物』だ。
二重存在による社会的混乱を防ぐため、残存したオリジナルは直ちに処分されなければならない。それが、この便利な社会を維持するための唯一の絶対条件。
「お客様、いえ、対象物。その場を動かないでください」
係員が警棒のようなものを取り出し、私に向けた。その先端からは、スタンガンのような青白い火花が散っている。
奥から、防護服を着た数人の男たちが走ってくるのが見えた。手には大型の焼却用バッグを持っている。
あいつらは、私をゴミとして処理しに来たのだ。
札幌に「私」がいる以上、私はもう相沢タカシではない。単なる有機タンパク質の塊、システム上のバグ。
「ふざけるな……」
私は後ずさりした。
私の心臓はこんなにも激しく脈打っている。今日のプレゼンの内容も覚えているし、今朝妻と言い争った時の嫌な気分も残っている。
私が本物だ。あっちがコピーだ。
それなのに、なぜ私が殺されなければならない?
「動くなと言っている!」
係員が距離を詰める。
恐怖が理性を吹き飛ばした。
私は持っていた鞄を係員に投げつけると、脱兎のごとく駆け出した。
「確保せよ! 外に出すな!」
怒号が飛び交う。
私は自動改札を無理やり飛び越え、朝のラッシュの人混みへと紛れ込んだ。
無数の舌打ちと罵声を浴びながら、私は走った。
自分が何者でもなくなってしまった世界へ向かって、私は転がるように逃げ出した。
2.世界から拒絶される「私」
息が切れる。肺が焼けるように熱い。
私は品川の雑居ビルの裏路地に滑り込み、室外機の陰に身を潜めた。
心臓の早鐘が、耳の奥で警鐘のように鳴り響いている。
通りからは、何事もなかったかのように日常の喧騒が聞こえてくる。通勤する人々の足音、ドローン配送便の低い駆動音、どこかの店の開店準備の音。
世界は正常に回っている。私という「余剰データ」を吐き出したままで。
震える指先で、ポケットからスマートフォンを取り出した。
まずは妻のミサキに連絡しなければ。事情を話し、警察ではなく弁護士を呼んでもらう。システムのエラーなのだから、人権は守られるべきだ。そう自分に言い聞かせ、画面をタップした。
しかし、画面には無慈悲な文字列が表示されるだけだった。
『デバイス認証エラー:この端末は無効化されています』
『ID:AIZ-4820は、現在別の端末(北海道エリア)でアクティブです』
「……くそっ」
スマホをアスファルトに叩きつけそうになるのを、寸前でこらえた。
そうか、そういうことか。
あの転送機は、私の肉体を分解し損ねたが、IDの移行処理だけは正常に完了させてしまったのだ。
つまり、私の全財産、私の社会的信用、私の戸籍、そのすべては今、北海道にいる「あいつ」の掌中にある。
喉が渇いた。
恐怖と全力疾走で、身体中の水分が枯渇している。
私はフードを深くかぶり直し、路地を出てすぐのコンビニエンスストアに入った。水だ。水さえ飲めば、少しは冷静になれる。
店内には数人の客がいたが、薄汚れたスーツで顔色の悪い私を気にする者はいなかった。
私はミネラルウォーターのボトルを掴み、無人レジに向かった。
センサーゲートを通過すれば、自動的に網膜認証か指静脈で決済されるはずだ。
『ピピっ。エラー。認証できません』
ゲートが赤く点滅し、安っぽい電子音が鳴る。
『お客様、生体認証データが見つかりません。未登録、あるいは削除済みの個体データです』
店内の視線が一斉に私に集まる。
「削除済み」。機械音声が放ったその単語が、胸に突き刺さる。
店員の少女が怪訝な顔で近づいてきた。
「あの、お客様? 万引きは困ります。現金はお使いになれませんよ?」
「違う、機械の調子が悪いんだ。私は相沢タカシだ。そこの顔認証カメラで確認してくれ」
「相沢様……?」
少女は手元のタブレットを確認し、そして首を横に振った。
「相沢タカシ様の現在地情報は札幌です。ここにはいらっしゃいません」
「目の前にいるだろう! これが私だ!」
思わず怒鳴っていた。
少女が怯えて後ずさる。その視線は、人間を見る目ではなかった。バグ、幽霊、あるいは狂人を見る目だ。
私は自分が、この世界において透明人間以下の存在になったことを悟った。透明人間ならば質量はある。だが今の私は、社会という巨大なプログラムにおいて、存在してはいけない「不正な値」なのだ。
私はボトルを棚に戻し、逃げるように店を出た。
水一滴すら手に入らない。
この東京という巨大な都市において、私は一匹の野良犬よりも無力だった。
路地裏に戻り、膝を抱える。
空腹と乾き。そして何よりも、「自己」が崩れ落ちていく感覚。
(俺は、誰だ?)
北海道にいる男は、私の記憶を持っている。私の癖も、私の愛する妻への想いも、すべてコピーされているはずだ。
ならば、彼こそが相沢タカシなのか?
いや、違う。断じて違う。
今、ここで腹を空かせ、理不尽に怯え、アスファルトの冷たさを感じているこの「感覚」こそが、本物の証明ではないか。
あのデータ野郎に、この痛みはわからない。
「……ミサキ」
妻の名前を呟くと、少しだけ力が湧いてきた。
彼女ならわかるはずだ。
十七年連れ添った夫婦だ。データの整合性ではない、もっと深い部分で、彼女だけは「私」を識別してくれるはずだ。
そうだ、家に帰ろう。
世田谷の自宅へ。
電車は乗れない。タクシーも使えない。歩いて帰るしかない。ここからなら三時間はかかるだろう。
私は立ち上がった。
足は重く、靴擦れが痛む。昨夜の残業の疲れも残ったままだ。
だが、その疲労感さえも、私が「連続した時間を生きてきたオリジナル」である証のように思えた。
太陽が高くなり、影が濃くなる。
私は監視カメラの死角を選び、まるで自分の街を侵略する異物のように、こそこそと自宅を目指した。
それが、自分自身を否定する残酷な結末への行進だとも知らずに。
3.幸せな「テセウスの船」
世田谷の自宅に辿り着いたとき、日はとっぷりと暮れていた。
靴擦れした足からは血が滲み、スーツは汗と埃で変色している。今の私は、深夜残業明けの浮浪者のようだった。
我が家は、静かな住宅街の一角にある。三十五年ローンで購入した、ささやかな一軒家だ。
リビングの窓からは、暖かなオレンジ色の光が漏れている。
あの中に、ミサキがいる。
私は安堵と緊張が入り混じった溜息をつき、生け垣の陰に身を隠しながら庭へと回り込んだ。
インターホンを押すべきか?
いや、今の私はシステム上「削除されたデータ」だ。モニターに私の顔が映れば、彼女はパニックになるかもしれない。あるいは、警察に通報される恐れもある。
まずは窓から中の様子を窺い、彼女が一人でいるタイミングを見計らって声をかけよう。そして、私が本物であることを証明するのだ。私しか知らない二人の思い出――新婚旅行で無くした指輪の場所や、娘の名前の由来――を話せば、きっとわかってくれる。
私は震える足で踏ん張り、リビングの掃き出し窓に近づいた。
カーテンの隙間から、明るい室内が見える。
「……え?」
喉の奥で、空気が凍りついた。
ミサキは一人ではなかった。
ダイニングテーブルには、私が好きな唐揚げとビールが並んでいる。そして、その向かいの席に、男が座っていた。
私だ。
いや、わかっていたことだ。札幌に「コピー」がいることは知っていた。
だが、なぜここにいる? 今日の出張は日帰り予定だったが、クレーム処理が長引けば泊まりになるはずだった。
時計を見る。まだ午後八時だ。
あいつは仕事を完璧かつ迅速に片付け、定時で切り上げて帰ってきたのか?
「まさか……」
窓ガラス越しに聞こえる声はくぐもっているが、表情ははっきりと見えた。
家の中にいる「私」は、部屋着のスウェットに着替え、リラックスしてビールを飲んでいる。
その顔を見て、私は言葉を失った。
肌艶が良い。目が生き生きと輝いている。背筋が伸びている。
ここ数年、鏡を見るたびにうんざりしていた、あの「疲れた中年男」の影がどこにもないのだ。
(そうか……)
私は戦慄した。
転送とは、原子レベルでの再構築だ。
それはつまり、肉体に蓄積した「物理的な疲労物質」や「コリ」、「微細な細胞の損傷」さえも、データとして最適化され、リセットされることを意味するのではないか?
あそこにいるのは、ただのコピーではない。
新品の私だ。
「もう、タカシったら。そんなに笑わせないでよ」
ミサキの声が聞こえた気がした。彼女が笑っている。
腹を抱えて、涙が出るほど笑っている。
あんな風に笑うミサキを見たのは、いつ以来だろう。
最近の私は、家でいつも不機嫌だった。仕事のストレスを家庭に持ち込み、「疲れた」「うるさい」と会話を拒絶していた。今朝だって、些細なことで彼女を怒鳴りつけ、そのまま家を出たのだ。
だが、あの中にいる「私」は違う。
彼はミサキの話に熱心に耳を傾け、身振り手振りを交えて何かを話し、彼女を笑顔にしている。
皿を片付ける手際も軽やかだ。私がいつも億劫がってやらなかった家事も、彼はいとも自然にこなしている。
理想の夫。理想の父親。
かつて私がそうなりたいと願い、日々の激流の中で摩耗させ、失ってしまった姿がそこにあった。
『テセウスの船』のパラドックスが、頭の中で鋭い刃となって蘇る。
――すべての部品が新品に交換された船は、元の船と同じか?
さらに残酷な問いが浮かぶ。
もし、交換された新品の部品の方が、腐った元の部品よりも性能が良かったとしたら?
「朽ち果てたオリジナルの船」と、「高性能な新しい船」。
乗組員(家族)にとって、どちらが「本物の船」として望ましいのか。
私は窓ガラスに映る自分の姿を見た。
土気色の顔、充血した目、深々と刻まれた眉間の皺。負のオーラを纏った、惨めな敗残者。
そして、そのガラスの向こうにいる、快活で優しく、エネルギーに満ち溢れた男。
「俺が……偽物なのか?」
その問いは、社会的なIDの話ではない。
人間としての価値の話だ。
あいつの方が、ミサキを幸せにしている。あいつの方が、人生を楽しんでいる。
私は、ただの「疲労とストレスの抜け殻」として、ここに吐き出されただけなのではないか。
ガチャリ、とリビングのドアが開く音がした。
高校生の娘、ハナが入ってきた。
反抗期で、最近は私と口も利いてくれなかった娘だ。
「おかえりパパ。お土産のチーズケーキ、ありがと」
「おう、ハナの好きな店で並んで買ったんだぞ」
あいつは笑顔で答え、娘の頭をポンと撫でた。
ハナは嫌がる素振りも見せず、少し照れくさそうに「ふん」と鼻を鳴らして、でもまんざらでもない顔でケーキの箱を開けた。
私が喉から手が出るほど欲しかった「家族の団欒」が、そこにあった。
私のいない場所で。
私という部品を、新品に取り替えた世界で。
窓の外の闇の中で、私は膝から崩れ落ちた。
怒りは消えていた。
代わりに、ドス黒く重たい絶望だけが、腹の底に溜まっていった。
私は今日、死んだのだ。
あの転送機の中で、私の「役割」はあいつに引き継がれ、私は産業廃棄物として排出された。
係員の言葉は正しかったのだ。
世界にとって、そして家族にとってさえ、今の私は「不要なゴミ」以外の何物でもない。
4.昨日の私を殺す旅(終)
庭の片隅にあった、手頃な大きさの石を拾い上げた。
ずしりと重い。そのゴツゴツとした感触だけが、今の私に残された唯一の現実だった。
これをあの窓に投げつければ、すべてが終わる。
ガラスが割れる音と共に、あの温かな団欒は粉砕されるだろう。私はリビングに踏み込み、血走った目で叫ぶのだ。「俺が本物だ! そいつは偽物だ!」と。
警察が来るだろう。大騒ぎになるだろう。
だが、遺伝子検査をすれば、私が相沢タカシであることは証明されるはずだ。システムのエラーが明るみに出れば、私の人権は回復されるかもしれない。あのコピーは廃棄され、私は元の座に戻る。
それが「正義」だ。
私が私の人生を取り戻す。当然の権利だ。
私は石を振り上げた。
狙いは、あの男――楽しそうに笑う「新しい私」の後頭部だ。
その時、窓の中でミサキが立ち上がり、あの男の肩に手を置いた。
彼女の顔には、私が長いこと忘れていた、穏やかで信頼に満ちた表情があった。彼女の唇が動くのが見えた。
『あなた、ありがとう』
そう言ったように見えた。
私の腕が空中で止まる。
もし私が戻ったら、ミサキはまたあの顔をしてくれるだろうか?
いや、無理だ。
私の身体には、積年の疲労が染み付いている。心には、会社での屈辱や、将来への不安、家庭を顧みなかったことへの罪悪感が、錆のようにこびりついている。
私が戻れば、この家の空気はまた澱むだろう。
ミサキはまた溜息をつき、ハナは部屋に閉じこもるだろう。
対して、あの男はどうだ。
彼は、私が持っていた「良い部分」――家族への愛情や、仕事への意欲――を純粋培養した存在だ。疲労というノイズがない分、彼は私よりも鮮明に「理想の相沢タカシ」を体現している。
「……そうか」
私は悟った。
昆虫が脱皮するように、人間も新しく生まれ変わることができるのだとしたら。
転送装置とは、文字通り人を「更新」する機械だったのだ。
古い殻を捨て、新しい身体で、次の場所へ行く。
あのリビングにいるのが、最新版の私(今日からの私)。
そして、ここにいる薄汚れた男は、脱ぎ捨てられた抜け殻(昨日の私)。
抜け殻が、本体の生活を邪魔してはいけない。
過去が、未来を殺してはいけない。
もし私がここで石を投げれば、それは「相沢タカシ」という人間が、自らの手で家族の幸福を破壊することを意味する。
それこそが、本当に「自分を殺す」ことではないか。
指から力が抜けた。
石が、音もなく芝生の上に落ちた。
「……頼んだぞ」
私はガラスの向こうの自分に呟いた。
声は出なかった。だが、奇妙なことに、胸のつかえが取れたような気がした。
嫉妬は消えていた。あるのは、奇妙な安堵感だけだった。
私の愛する家族は、私が守ってくれる。ならば、心配はいらない。
私は背を向けた。
もう一度だけ振り返り、暖かな光に包まれた我が家を目に焼き付ける。
さようなら、私の人生。
さようなら、ミサキ、ハナ。
私はフードを目深にかぶり直し、闇に沈む通りへと歩き出した。
行くあてはない。
遠くでサイレンの音が聞こえる。清掃班のドローンが、エラーを起こした廃棄物を嗅ぎつけたのかもしれない。
逃げるつもりはなかった。
私は、この世界のバグとして、静かに消去されることを受け入れようとしていた。
夜風が冷たい。
けれど、不思議と寒くはなかった。
私はポケットに手を突っ込み、誰もいない夜の街へ、自分自身を葬るための最後の旅を続けた。
(了)




