皇帝と大公 その1
皇帝宮殿で、不穏な噂がささやかれている。
「皇帝と大公の間に隙ができたそうな」
もちろん、皇帝も皇帝の嫡子たる大公のロレンフスも皆の前で態度を変えることはない。だが、「皇帝の執務室で両者が激しく言い争っているのを聞いた」「大公が皇帝を睨み付けているのを見た」といった話題がさまざまなところで語られるようになるにつれて、その話を知らぬものは居ないというありさまになっていた。
ロレンフス本人の耳にも入るほどだった。
「言わせておけばよい」
ロレンフスに火消しをするつもりはなかった。下々の噂話に対して超然たる態度で臨むべし、というのだ。
「しかし、陛下と殿下の間に齟齬があるなど、放置してよい噂とは思えませぬが」と、ロレンフスの家臣のヴァル・ゼルクロトファ・モルトセフェスは懸念を示した。
「私も、噂を軽視するのは得策とは思えません」と、大公妃のヴァル・ファルカーメイス・カレナーティアもゼルクロトファに同調した。彼女は、噂が持つ力を侮れなかった。たとえ単なる噂に過ぎぬとしても、悪意を持つ者がどのように悪用するか知れたものではない。
さらに問題なのは、「単なる噂」ではないということだった。
皇帝と大公の関係は日に日に悪化していた。政治的な方針の違いが顕著になり、大公による皇帝批判は先鋭化しつつあった。
カレナーティアもゼルクロトファも、付家老のヴァル・テルメソーン・マルテノガスやヴァル・フィーンゾル・カルターフェスも、現状に危機感を抱いている。
意見の対立が表面化したのは、ヌヴァロークノ王国への対応だった。
ヌヴァロークノ王クーデル3世が、帝国に臣従すると申し出てきた。その代わり、帝国領内に移住地を与えてほしい、民が暮らせる土地を恵んでほしいと願った。
クーデル3世にとって、祖先が切り開いて獲得した島を捨てるのは身を切られるよりも辛かった。帝国に臣従を申し出ることは血を吐くような屈辱だった。しかし他に生き延びる手段はなかった。
クーデル3世の懇願に、帝国は条件を付けた。臣従するなら受け入れる。ただしヌヴァロークノの民がまとまって移住する地を与えることはできない。帝国中に少しずつ分散して暮らすなら認める、と。
それは酷な条件だった。地縁も何もない民たちがバラバラにされた結果どうかるか。皆、帝国民に使役される奴隷身分に落とされてしまうのは間違いない。ヌヴァロークノ王国は、ヌヴァロークノの民たちは、帝国の中にのみ込まれて消滅してしまうだろう。
それでも死に絶えるよりはましなのかもしれない。だがクーデル3世はそこまで割り切ることができず、粘り強く交渉を続けた。だが、いまだに妥協点は見いだせなかった。そもそも帝国には妥協すべき理由がなかった。
クーデル3世の苦悩は続いた。飢えと寒さに苦しみ、死んでいく民たち。それをどうすることもできない無力感。
今日も民が死に、帝国との交渉は進まなかった。
大公妃カレナーティアは、『伯爵令嬢カレナーティアの結婚――求婚者は大公と公爵』からの登場です。




