下知
ゲルペソルに本陣を置いたヌヴァロークノ王クーデル3世は、本国に残した王国宰相イーヨルド・デルンバルネフォッド公爵からの書簡を読んでいた。
茶色い口髭と顎髭に挟まれた口元が、固く閉じられている。同じく茶色くて太い眉の下で、血走った大きな目が書簡に綴られた文字を追った。目の下には黒々とした隈と痛々しい凍傷の跡が刻まれている。頬はこけ、全身の肉付きも薄い。飽食ということをしたことがなく、そもそもそれが許される環境でもなかった。
書簡には、ヌヴァロ島の冬はますます厳しく、港が完全に凍結して残りの移民は春まで送り出せないと書かれていた。書簡を届けた者の話によると、凍結していないところまで船を運んでそこから出航したのだという。小船を一隻出すだけでも困難を極め、小船で北海を渡るのは危険極まりなかった。周到なデルンバルネフォッドは使いを3隻に分けて送り出したが、他の2隻は北海のどこかに消えた。クーデル3世の手に届いたのは奇跡に近かった。
生きるすべを奪われた北部の民を連れて来ることには成功したが、南部の民はヌヴァロ島に閉じ込められてしまった。春までにどれくらいの犠牲が出るか……。クーデル3世は絶望しかけた己を叱咤し、大きく深呼吸した。ヌヴァロークノの民が生きられる土地を確保するまで、立ち止まることは許されない。
彼はまだ、ミラロールが失陥したことを知らない。
重臣たちが集まっている広間に向かうと、オルデギヨン・ポレンヌーゾン公爵が近づいてきた。穏やかな目と長く白い髭が印象的な男だった。彼もまた、痩せていた。
「陛下、妙な噂が流れております」
「内容は?」
「ナインバッフ公がゲンテザイルを攻略し、中に居たヌヴァロークノ人を皆殺しにしていると」
「何?」
「今はポルセアルを攻囲しており、また見せしめのためにヌヴァロークノ人を殺すと広言しているようです」
「ふん、詰まらぬ脅しだな」
「脅し……でございますか」
「そんな面倒なことをするほど彼は暇ではあるまい」
「では捨て置かれますか」
「そうもいかぬであろうよ。どう思う、伯爵」
クーデル3世に下問されたクヌーロ・フローデレベンド伯爵は、軽く一礼してから答えた。
「ナインバッフ公の目的は明白。陛下の出陣です。単なる流言であると見破られることも想定済みでしょう。陛下が無視なされば、次は『王は民を見捨てた』と主張することでしょう」
「そういうことだ。ここまで見破られることも想定済みの策だ。狡猾な男だ」
フローデレベンドは長身で、青黒い髪を短く整えている。強い斜視のため、彼がどこを見ているのか分からず対面する者を困惑させるが、本人はさほど不自由していないらしい。
「何と……」と言ったきり、ポレンヌーゾンは絶句した。彼の役目は持ち前の誠実さによって貴族たちを束ねることであり、軍略や謀略の能力は期待されていない。ナインバッフ公の策を読めなかったからといって彼に対するクーデル3世の評価は揺るがない。
謀将としての役割は、フローデレベンドが負っていた。
「して、フローデレベンド伯爵はいかがしたらよいとお考えか」と、ポレンヌーゾンは問うた。10歳も年下のフローデレベンドに対しても敬意を払うところがポレンヌーゾンの美質である。そんなポレンヌーゾンをフローデレベンドも敬愛していた。
「ナインバッフ・グライス軍を駆逐しない限り、オルドナ伯領の支配が成ったとは言えません。グライス軍が健在の間は、帝国はいかなる交渉にも応じないでしょう。そろそろ決戦の潮時かと」
「よろしい。ナインバッフ公の策に乗ってやろうぞ。目標はナインバッフ・グライス軍の殲滅。それによってオルドナ伯領の支配権を確立して帝国との交渉のきっかけとする。ポレンヌーゾン公爵にはこの街の留守居役、フローデレベンド伯爵にはグライス軍殲滅の軍略立案を命じる」
クーデル3世は続いて室内に居る重臣たちに呼び掛けた。「他の者たちもかねての定め通り2人を補佐し、役務を全うせよ」
ポレンヌーゾン以下全員が王に跪いて下命を受けると、それぞれの仕事に戻った。
クーデル3世はこの先も続くであろう困難な道のりを思いながら、家臣たちの働きを見守っていた。




