ウィンの苦悩
ラフェルス伯ヘルル・セレイス・ウィンは嘆いていた。困っていた。妻が治めるカーリルン公領で、2つの難題に大層悩まされていた。絶望の淵でなおも踏みとどまり、我が身を救うすべを模索していた。
彼を悩ませている原因の一つは、まさに今、ウィンを睨みながら木製の剣をウィンに突き付けているヴァル・ニレロティス・ソウレインだ。ニレロティスはこの年23歳の青年貴族で、茶色の長髪を首の後ろで一つにまとめている貴公子だった。ウィンの妻が治めるカーリルン公領の軍事面を統括している重臣でもある。
彼は唇をわずかに開いて深く静かに呼吸しながら、すり足でウィンとの距離を詰めてきた。彼の気迫に押されてウィンが後ろに飛び退くと、それを上回る距離を一歩の踏み込みで縮め、ウィンの左脇腹を剣の腹でしたたかに打ちつけた。
ウィンは謎の叫び声を上げながら右に吹き飛び、そのまま地面に接吻した。
それっきり、ウィンは動かなくなった。
「伯爵」
「……」
「ラフェルス伯!」
「……」
「死んだふりをしても無駄ですぞ。さあ、立ちませい!」
「少し休憩」
「十分休んだでしょう。それとも後頭部にも一撃お受けになりますか?」
それを聞いたウィンはびくっと体を揺らして跳び起きた。
「今ので肋骨が折れたかもしれない。いや、ボキボキだ」
「甲冑を着ているでしょう。木剣ではひびも入りませんよ」
「いやいや、名にし負うニレロティス卿の痛撃の前には甲冑など乙女の薄衣のようなもの」
「おだてても無駄です。さあ、剣をお構えください」
この無意味なやりとりを何度交わしたことか。ウィンは悲しそうな顔をすると、深くため息をついて木剣を構えた。構えたというか、両手で柄をつかんで剣先を相手の顔に向けただけだ。形としては青眼の構えだが、形だけだ。気迫もこもっていなければ集中もしていない。ニレロティスがその気になれば、木剣でも一瞬でウィンを殺してしまうだろう。
ニレロティスは、木剣でウィンの木剣を軽くはじいてからウィンの頭に打ち下ろした。
ウィンは再び奇声を上げた。
金属製の兜も被っているので頭に直接打撃が伝わるわけではないが、兜がたたかれた音と首と肩にかかる震動を受けてウィンはよろめき、尻もちをついた。
カーリルン公領に来てからというもの、ウィンは毎日こうしてニレロティスに武芸の稽古を付けてもらっている。といってもウィンの希望ではない。ニレロティスが勝手にやって来てウィンに甲冑を着せ、木剣でどつき回しているのである。
かつてウィンと行動を共にしたアレス副伯ヴァル・フォロブロン・アンスフィルも、身を守れる程度の武芸をウィンに仕込んでやろうとしたことがあった。だが、彼はウィンの筋があまりにも悪いことに根を上げあきれ、早々に諦めた。フォロブロンは「任務の間は自分たちで守ればよい」と割り切った。
だがニレロティスは諦めなかった。のみ込みも筋も悪いウィンを、辛抱強く鍛え続けた。毎日やって来て、今日は剣術、今度は槍術と、課題を出してはウィンをボコボコにたたきのめしている。
責めさいなんでいるだけのようにも見えるが、ニレロティスはあくまでも自分の主君であるカーリルン公ヴァル・ステルヴルア・アルリフィーアとウィンのためを思っての最善策であると信じている。常に自分が守ってやる訳にはいかない以上、ウィンに最低限の護身術を身に付けさせるにしくはない。「我が主を悲しませるわけにはいかない」という思いが、今日もニレロティスの剣を冴えわたらせ、ウィンに新たな痣を付けることになる。
カーリルン公領にいる限り、ニレロティスからは逃れられない。さっさとラフェルスに帰りたいのだが、もう一つの難題がそれを許してくれない。
身重の妻、アルリフィーアに「子供の名前を考えろ」と命じられているからだ。そう、アルリフィーアのお腹には、2人の子が宿っているらしいのだ。
ウィンは、自分が父親になるということがいまだに信じられない。数年前まで想像すらしなかった事態が起ころうとしている。最初は何かの冗談かと思ったが、アルリフィーアのお腹が大きくなるにつれて嘘でも冗談でもないことが分かった。だがそのおなかと自分を結び付けることができていない。
それまではアルリフィーアがラフェルスを訪れることもあったが、妊娠したらしいと分かってからはウィンがカーリルン公の宮殿があるフロンリオンを訪ねるのみになった。馬にしろ馬車にしろ、妊婦に適した移動手段ではない。フロンリオンからラフェルスの近くまでは船でも来られるが、そこからラフェルスの中心都市ドルトフェイムまでは馬か馬車に乗るしかない。
名前を捻り出すまではラフェルスに帰れない。ラフェルスに帰らなければニレロティスにしごかれ続ける。早く名を考えてラフェルスに帰りたかった。




