ある日
フェルティスはもうすぐ2歳になる。ウィンのことを「ちーうえ(父上)」と呼んで懐いているが、「時々やって来るお友達」くらいにしか思っていない可能性があった。
「ちーうえ、お馬になって」
「馬か! それなら私にもできるぞ」と言ってウィンはわははと笑った。「それは自慢にならないだろう」とエメレネアは思ったが、口に出すことは慎んだ。
ウィンが四つん這いになると、フェルティスはその背中によじ登って「歩いて!」と命令した。ウィンはわははと笑いながら歩き出した。床に両手を付いて歩く伯爵の姿に、フェルティス付きの女官たちはいまさらながらおののいた。両手を床に付けるなど、諸侯が他者の前でする行為ではないのだ。エメレネアだけが、「馬なら『わはは』ではなく『ヒヒン』だろう」とつぶやいた。アルリフィーアは、「のろい馬じゃのう。ほれ、もっと速く走れ」とけしかけた。
ウィンたちの生活は平穏そのものだったが、彼らの周囲の雰囲気は大きく変わっていた。ピンテルによって皇帝の庶子であることが暴露されたからだ。
ウィンの為人を知っているラフェルス伯領とカーリルン公領の人々は、当初は驚いたもののすぐに「慣れ」た。出自がどうあれ、ウィンが変わらない以上、自分たちも態度を変える必要はないことを早々に悟り、気にしなくなった。
だが距離が開くにつれて動揺の度合いは大きくなった。ウィンに冷笑を浴びせ続けていた帝都の宮内伯らの動揺は特に激しかった。
ムルラウやトールティスは、驚くとともにロレンフスの態度にようやく合点がいった。ナルファスト公妃のアトラミエは、「これで兄上と呼べるようになった」と喜んだ。ただし彼女は「ウィン」という呼び方も気に入っていたので、今後もウィンと呼び続けるか兄上に変えるかという、新たな悩みに頭を抱えることになった。夫のナルファスト公レーネットは、「好きにしろ」と言って苦笑した。
こうした周囲の変化に、ウィンもアルリフィーアも我関せずとばかりに振る舞い続けた。四つん這いになって馬になっていた。
ウィンに跨がったフェルティスは、何か足りないことに気付いた。しばらく考えて、何か思い付いたという顔をした。子供というものは、考えていることは表情で概ね分かるものである。
「エメレー、紐。紐ちょうだい」
「エメレー」は、エメレネアのことである。「エメレネア」と発音できなかった頃に勝手に短縮して、今に至っている。
エメレネアが紐をフェルティスに渡すと、彼はウィンの首に紐を掛けてぐいっと引っ張った。どうやら手綱のつもりらしい。
「かはっ。フェルティス、首はやめ……くっ」
首を絞められて、ウィンは悲鳴を上げた。が、フェルティスを振り落とすわけにもいかず、両手を床に付いているので紐を首から外すこともできず、口をぱくぱくさせながら苦しんでいた。
「フェルティス様、それではお父上を殺してしまいます」と言いながら、エメレネアが紐を首から外してウィンの口にかけ直した。それもひどい扱いである。
「我が子を振り落とさずによう耐えた。あっぱれじゃ」と言って、アルリフィーアはわははと笑った。
「その笑い方はやめてほしい」とエメレネアは思った。




