ピンテル退場 その2
私室に戻ったロレンフスは激情に駆られ、壁際にしつらえられていた花瓶を床にたたきつけた。
何という屈辱か。諸侯らが見ている前で、兄弟たちが見ている前で、全てをさらけ出されてしまった。次男を連想させ、屈辱感を刺激する「ロレンフス」という名前の理由を知られてしまった。
全て、母を蔑ろにした父と父を誘惑した平民の女、そして自分よりもわずかに早く生まれた庶長子ウィンが原因である。
だが同時に、自分の怒りは母の葛藤と同じであることも自覚していた。ウィンはロレンフスの兄でありながら、庶子であるというだけで公的に認知されることもなく、ヘルル貴族などという中途半端な身分を与えられているに過ぎない。対してロレンフスは大公の称号と公爵領を与えられ、事実上の嫡子として扱われている。
これだけの境遇差がありながら、なおもウィンに負の感情を持ち続けている自分こそが、真の怒りの対象なのだ。自分はなんと狭量で卑小な存在なのか。そうやって自らを責めさいなんでいる。母もこのような屈辱感に身を焦がしていたのか。そして、母と自分をこうして苦しめている皇帝やウィンへの怒りを新たにしてしまう。
要は自分の器量に対する怒りであって、ウィンらへの思いは責任転嫁に過ぎない。それを自覚できてしまうことが、ロレンフス母子の不幸だった。彼らは聡明であり過ぎた。
ロレンフスが深呼吸を繰り返して平静を取り戻した直後、戸をたたく音がした。
「誰か」
「マーティダでございます」
「入れ」
侍従長のマーティダは、ほとんど首は動かさず、目の動きだけで壁際に散乱した花瓶の破片を捉えたが、気付かなかったという体でロレンフスに近づいてきた。
恐らくかなり早い段階から部屋の前に来ており、花瓶が割れる音も聞いていたに違いない。そしてロレンフスが落ち着く頃合いを見計らって戸をたたいたのだろう。マーティダ兄弟にはいつも見透かされているような気分にさせられる。ロレンフスは苦笑した。
「大公妃が、お話をなさりたいと仰せです」
妃のカレナーティアは、用があるときは自分からやって来る。わざわざ侍従長を使いに出したのは、ロレンフスの精神状態に気を使ってのことだろう。「感情が揺れ動いている様を妻に見せることを彼は欲しない」ことをカレナーティアは知っていた。
「承知した。私からカレナーティアを訪ねよう」
マーティダは、「では」と言って退室しようとした。
「侍従長は、ピンテルが何をしでかすのか知っていたのか?」
「さて……」
マーティダは身に覚えがないという顔をしているが、疑念を口に出してみて、ロレンフスは改めて確信した。
「今宵の茶番は陛下もご存じだったのではないのか?」
マーティダは表情を消して口をつぐんだ。しらを切るつもりも嘘をはく気もないが、言質も取らせないということか。
「ピンテルの引退のために大役を与えつつ、ラフェルス伯の身分を公にする機会に利用した、というところか。陛下とピンテルの2人だけで決めたこととは思えぬな。ラフェルス伯の出自を知るマーティダ兄弟が絡んでいないわけがない」
「……陛下の血を分けたご兄弟が、手を取り合う日を願うのみでございます」
「それは臣下の分を超えた望みというものだ。下がれ」
「御意」
皇帝が……いや父が、ウィンを公的に認知しようとしているのか? いまさらなぜ?
ロレンフスは漠然とした不安を感じて慄然とした。




